流れたばかりの血はあたたかくも冷たくもない。皮膚と同じ温度のそれは、そこにあることすら感じられない。
そう知ったのは、海軍に追われ、死の淵をさまよったあの日だった。
だがそれだけだったのだ。
私は何も、知らなかった。
78 蓋(Ⅲ)
「利用価値があれば、殺されねえ」
刃物がかすめた頬から、血が垂れおちてくる。
涙のように音もなく、頬の表面を滑っていくだけの液体には痛みも熱もなかった。傷口がどこにあるのかさえ、よくわからない。
しかし、かわりに胸の内から背の下から、ありとあらゆる場所からじわじわと血のようににじみ出すものがあった。
それは生まれてはじめての感覚―― 予感だった。
私は、ここで、ころされる。
目の前がチカチカと青と赤と白に点滅した。視界がぶれて前が見えない。
どうしてこんなに視界が揺れるのかを考えてみて、気づいた。ぶれているんじゃない。震えているのだ。
「まあ、まちがっちゃあいねえ。たしかに利用価値があればすぐには殺さねえ。使える奴まで殺しちまったら、いろいろと面倒だからなあ」
うんうん、と自分の言葉に自得してから、海賊の頭は私の顎に手をかけた。にごった黄色い目が、十センチも離れないところから私の中身をのぞきこむ。
「俺らはよう、ずっとシアワセに生きてきたんだ。腹が空きゃあ船を襲って、遊びたけりゃあ陸で殺して、なんだかさみしい気分の時は女をさらって、あとは何だっけ。まあ、とにかくそんな感じによ」
夢を見ているかのように、頭の目はとろんと胡乱げだった。
「それがそんなある日のことだ。あいつらと……あいつらと出遭っちまったんだよ。ほんの一瞬、通りすがっただけだった。だが、通りすぎたあとには、もう何も残っちゃいなかった。俺の命のつぎに大事な船がよォ、まるでゴ、ゴミクズみてえに」
チッ、チッ、と憎んでも憎みきれない何かを唾棄する。
「お、思い出したくもねえ。船さえありゃ、ザコ海兵なんぞにビビる必要はなかったんだ。ネズミみてえに海じゅうを逃げまわって、こんな小島の山奥に身を隠すこともな。想像できるか?眠りたくても宿はねえ、腹が減っても飯はねえ、傷が痛んでも医者はいねえ。ふもとの村を襲えば海軍がかっ飛んでくる。おまけに、寝ても覚めてもあの日のことがよう……あ、ああ、あの赤い髪の……」
頭は爪を立てて、狂った猫のように自分の頬を引っ掻いた。
「ぜんぶあれで狂ったんだ。あれさえなけりゃ今でも海の上にいられた。あんまりにもかわいそうだろうがよお。ああ、俺たちゃただ楽しく生きてただけなんだぜ」
頭は天をあおいで言った。彼はやはり心の底から、自分をあわれんでいるのだった。
「こんな目に遭ってるのはよう、お、お、俺のせいじゃねえ。俺のせいじゃねえんだよ。悪いのはぜんぶ、役立たずのクソ野郎どもだよオ!」
突如、激高した頭は次の瞬間、持っていたナイフを真横に放りなげた。
ぐすり、と聞くにたえない音がして取りまきから悲鳴があがる。部下のひとりが血まみれの腕をかかえて瓦礫の間を転げまわるのが見えた。
頭は、波間の魚を見るような感じで、ぼんやりとそれを眺めていた。
「価値がないやつは生きてても仕方ねえ」
頭は思いだしたように私に向きなおった。
その目に、もはや理性はなかった。
狂っている。
ここまできて私の脳みそがはじき出せた感想は、たったそれだけだった。私の頭と心はほとんどが痺れて動かなくなっていて、それゆえに悲鳴すら出てはこないのだった。
精一杯の抵抗で、半歩だけ下がった。だが、すぐに一歩つめられた。
頭はなかば締めあげるようにして、私の首元をつかんだ。
「なあ、だったら、お前の価値は?」
どくん、と心臓が今にも割れそうなくらいにはねた。
痛い。鼓動が痛くて我慢できない。
「足を怪我して、おまけに医者でもねえ。なあ、俺たちがここに潜んでどのくらいだと思う?二ヶ月、二ヶ月だよ」
瓦礫にまみれた灰色の空間に、何か異様な気配が満ちはじめていた。たぶん、それは、ずっと知っていたのに、ずっと目を逸らしてきた類のものだった。
「そろそろご無沙汰だったところだ。もちろんオレひとりじゃねえ」
頭は私の全身を血走った目で眺めまわしながら、唇を舐めた。背後の取りまきたちまでもが、さっきまでの恐騒が嘘のように、熱に浮かされた目を向けてくる。
得体のしれない塊がぞっと足から首まで這いあがった。
「もちろん生きてたほうがいいが、ここまでくりゃ、贅沢は言わねえ。それどころか暴れねえぶん、死んでたほうが都合がいいかもしれねえな」
新たなナイフを抜きとって、くるくると回したあと、頭は遊び半分に私の胸を浅く裂いた。
ぴっ、と漫画のように血が飛んだ。
「ま、心配するな。どうせ最後までは生きちゃいられねえ。さんざん痛くて苦しい目に遭って、甲板を拭くボロ雑巾みてえになって、生きてんのも馬鹿らしくなってから、死ぬ。それが、お前の、価値だ」
頭の手が胸元にかかった。シャツのボタンが飛ぶ。喉の奥から悲鳴があふれる直前、取りまきのひとりが声をあげた。
「お頭―― 」
そして、その声はそこで不自然に途切れた。見てはいけない、と咄嗟に顔を背けた。
ぼとり。
熟しきった果実のようなやわらかくて重いもの。そんな何かが地面に落ちるあっけない音がした。
「そのままじっとしてろ」
それは、さっきまではいちばん聞きたかった声で、でも今は、いちばん聞きたくなかった声だった。
壊れ物をあつかうように後頭部に手が添えられ、胸板に押しつけられる。なれ親しんだあたたかな気配が、私の視界をやさしく閉ざした。
海のにおいが、死をつれてくる。
目を閉じ、強く耳を押さえた。
めまいがする。耳鳴りがする。気が遠くなる。まわりで誰かが何かを言っている。
現実味がない。地面が揺れている。
でも、それすらもどこか遠い場所の出来事のようで、私は気づけばその場にしゃがみ込んでいた。
左右がわからなくなり、上下がわからなくなり、時間がわからなくなり、自分がわからなくなる。
明滅するネオン、逆さまになった美術館、都会のスクランブル、そういったものがぐちゃぐちゃに混ざりあい、溶けあって、嗤っている。
熱病患者が見る悪夢のような一瞬。それはたぶん、すぐに終わった。
「イチル」
嘘のように優しい声につられて、私はまんまと顔をあげてしまった。
彼はいつもの顔で笑っていた。
頬と服と剣に、むせ返るほどの血を浴びて。
薄金の瞳の奥には隠しきれない興奮の色がちらついていた。血のにおいに魅せられた獣。それ以上に似つかわしいたとえは存在しない。
とうの昔に言葉をうしなっている私に、シャンクスはきょとんと目を丸くした。
「ん?ああ。ちょっと汚れちまったかな」
食べ汚した子どものように、シャンクスは濡れたままの手の甲で、己の頬をぬぐった。汚れた手でやったものだから、ただ汚れはべしゃりと広がっただけに終わった。
無邪気に笑うシャンクスは、私を抱きよせて、大事に大事に懐にかかえた。
生きた熱を発するその身体からは、鉄くささに慣れきった今の私の鼻でさえひくりと震えてしまうような、濃厚な血臭がした。
いうなれば、私は獅子の顎にとらわれたネズミだった。
じゃれつく牙の先が、何かの拍子にほんのすこしかすめただけで、いともたやすく死に至る。
「ありがとうな、ウィックを守ってくれて。島の子どもから聞いたんだ。二人組が廃墟のほうへ連れ去られるのを見たってな。間に合ってよかった」
その目に、もうさっきのような狂おしい色はない。晴天の海にも似た、いつもの明るい瞳だった。
訊いてはいけないとわかっていた。でも、どうしても訊かずにはいられなかった。
「シャンクス、どうして?」
「どうして?」
彼は心底、不思議そうに首をかしげていた。
青ざめた私の顔をしばらく見つめてようやく、「ああ」と納得したように頷いた。
そして彼は言ったのだ。世界の道理を説くように。
「俺のものに手を出した」
のばされた指先が、私の頬―― 今もまだ血を流す傷口をなでた。
それで、ぜんぶわかってしまった。
「お頭ァ、こいつらどうします?」
瓦礫の山でエヴァンズが何かを持ちあげていた。ぷらんぷらんとぶら下がるのはバスケットボール大のそれ。断面からはいまだ赤いものがシャワーのように流れて落ちている。
彼は全身を真っ赤に染めたまま、いつもと変わらない顔で笑っていた。たとえば、私に『船酔い大丈夫か?』とたずねてくれるときとまったく同じ顔で。
何もかもが夢そのものに思えた。
わりからふたたび音が消えていく。ステージの照明が落ちるように、真っ暗闇に閉ざされる。
世界にいるのはたったふたり。
「イチル」
いつもの声が私を呼んだ。その顔は逆光で塗りつぶされてよく見えない。
彼は何ごとかを語りかけてきたが、私には理解できなかった。私の頭にうかんでいたのは、ただひとつだけ。
―― 蓋が、ひらいてしまった。
そのあと、どうやって船に帰ったのかは、よく思い出せない。