「はなさないでね」

 もみじのような手。
 ふくふくとしたそれをのばし、私は言った。

 それほど背の高くない痩せた人影が何ごとかを答える。私に似た口元は、優しい形でほほえんでいる。

 反対側を見れば、もうひとつ別の影があって、彼女もまた私によく似た目元で、優しくほほえんでいるのだった。

 私は、ふたつのあたたかい手に引かれて夕焼け道を歩いていた。

 カンカン、カンカン、と鳴る踏切のシルエットが、赤い夕日の中にくっきりと映えていた。足元には仲良くならぶ三つの影。

 なんだ、夢だったんだ。

 そう思った瞬間、電源が落ちた。
 気づけば、私は真っ暗闇の中にいて、息もたえだえに走りつづけていた。

 何に追われているのかもわからないまま、一心不乱に逃げる。
 わかっているのは、につかまってはならないということだけ。

 足元はぬかるんだように重く、次第にスピードが落ちてきた。踏みだそうとした足が何かにつまづき、私はべしゃりと汚い音を立てて転んだ。

 粘つく液体が、手に足に身体にからみついてくる。それは意思を持った底なし沼のように、下へ下へと獲物を引きずりこもうとする。

 助けて、と叫んだ。

 まわりにはもう誰もいない。
 もう一度、助けて、と叫んだ。

 すると、目の前に、誰かの手が差しだされた。大きくあたたかそうなそれに、われも忘れてすがりつく。

 その途端―― ぬるりとすべった。

 目の前には、赤。
 血のような、血そのものの色をまとって、男は笑った。

イチル

 遠くで、サイレンが聞こえる。

 

chapter7 SLEEPING BEAST

79 知らないのは世界でひとり


 シーツを蹴って飛びおきた。
 あたりは真っ暗闇だった。裸足のままベッドを降り、手さぐりで洗面所につづくドアを探す。
 トイレに駆けこんだあと、屈みこんでそのまましばらく呻いた。

 暗闇がはっきり見通せるくらいに目が慣れた頃、ようやくすこしだけ動けるようになって、私は重い身体を引きずりながらベッドまで戻った。枕元のランプに、あかりを灯す。

 近くに鏡がなくてよかった、とこのときばかりは常の不便さを心底ありがたく思った。それこそ見ただけで気分が悪くなるくらい、ひどい顔をしているに違いなかった。

「っ痛、い」

 気分が落ちつくのを待っていたかのように、傷口がずくりと疼いた。ベッドにつっぷし、今度は別の意味で呻いた。
 脚をかかえ、背を丸めてじっと耐える。

 しばらくすると、潮が引くように痛みが薄れていった。
 ふう、と息をつく。

 あの日以来、こういう夜がつづいていた。
 これでもずいぶんとマシになったほうだった。船に帰ってきた夜なんて、傷の痛みもそっちのけで何度も何度も飛びおきて、そのたびにウィックにベッドまで連れもどされていたのだ。

 怪我の熱にうなされているのか、別のものにうなされているのかもわからない朦朧とした意識のなかで、ただただ焼けつくような恐怖だけが傷口と脳みそと心臓を刺しつづける。
 明確な輪郭をとった悪夢に絶えまなく苛まれ、息をすることさえままならない。
 あれほど長く、辛かった夜はかつてなかった。

 私は、ゆっくりと慎重に身体をベッドに横たえた。

 もう二週間になるのに、いまだ傷がふさがらない。
 そのことについては、主治医のウィックも原因をつきとめあぐねていた。

『治療が遅れたとはいえ、さすがにすこし治りが悪いですね。もうそろそろふさがってきてもいい頃なのに』

 だが、ウィックですら解きあかせないその理由を、当の私はよく理解している。
 何のことはない。怪我が治らないのは、ごく簡単な理由なのだ。

 汗で冷たくなったシーツに頭をつけ、真上を見る。天井の染みは見慣れたいつものそれだ。

 帰船後、三日ほどして熱が下がった私は自室療養の許可をねだり、そうそうに医務室から自室にベッドを移していた。『感染の危険がある』とウィックは良い顔をしなかったが、完全な面会謝絶、それから絶対安静の約束と引きかえになんとか希望をとおしてもらったのだ。
 だから、この二週間、ウィックをのぞけば誰とも会っていなかった。
 手のひらで、目を覆った。

「出たくない」

 身体の回復を妨げているのは、ほかでもない私自身だ。
 この閉ざされた空間から出たくない、と傷ついた全身が声なき悲鳴をあげている。本人に治る気がないのだから、どんなに腕に良い医者がついたところで治らないのは当然だった。

 ここから出るのが恐ろしい。ここから出たくない。誰にも会いたくない。何も見たくない。

 消毒液の匂いがする、この清潔な小部屋だけが、今の私に受け入れられる世界のすべてだった。

◇◇◇

 もうすこししたら面会謝絶をといてもいい、と言われたその日、どこで聞きつけたのか、ひと足先に部屋の戸をたたいた人物がいた。

 隙間から顔だけ出したウォーカーは、部屋の主にあいさつするよりも先に、まずは部屋のすみずみまで用心深く視線をやった。

「ウィックならさっき医務室に帰ったよ」

 読んでいた本を閉じてそう言うと、ふう、と安堵の息が返ってきた。

「ちょっとフライングだね。面会の許可はまだもうちょっと先」
「だからこうやってコソコソしてんじゃねェか」

 バレたら半殺しにされてもう一回念入りに治療される、とあながち冗談でもなさそうな言葉をこぼしながら、ウォーカーは後ろ手でドアを閉めた。
 ドアの前に立った彼は、それ以上は近づいてこず、居心地の悪そうな様子で話しかけてきた。

「生きてるか」
「見てのとおりだよ」

 私は血のかよった手のひらを上げて、開いたり閉じたりしてみせた。
 彼はもう一度、ふう、と息をついた。

「みんなお前が出てくるのを待ってる」
「そっか。いつも心配かけてごめんね」
「まだ、たまに熱が出るんだってな」
「本当にたまにだよ。身体ががんばってる証拠だって、ウィックは言ってた」
イチルはひ弱だからな」

 いつかどこかで聞いたような言葉を口にしたウォーカーに、私はいつものように笑って返すのに失敗した。
 薄く開いたまま固まってしまった唇が、言葉をさがしてさまよう。
 その沈黙を、何か別のものととらえたのか、彼はぽつりとつぶやいた。

「こわかっただろ」

 私は顔を上げ、じっとその瞳を見つめた。
 ダークグレーの虹彩にひそむ真意を、時間をかけて読みとる。
 今度は失敗しなかった。

 私は「ううん」と笑って首を横に振った。

「こわかったのはちょっとだけ。どっちかっていうと、びっくりするのに忙しくて、そこまでたどり着かなかった感じ」
「なんだそれ」
「だって、麻酔なしで縫われるなんて生まれてはじめてだったし」

 にや、と笑ってみせる。神妙に話を聞いていたウォーカーが小さく噴きだした。

「そりゃいい経験になったな」
「もう二度と体験したくないけどね」

 そうやってふた言、三言、軽口を交わす。彼はそれでもう満足したらしく、たいして長居もせず、帰る素振りを見せた。

「ま、早く元気になって出てこいよな。買い物くらいなら付き合ってやるから」
「ありがと。フライとダンピアにもよろしく」

 ひらりと軽く手を振って、彼は部屋から出ていった。
 後ろ姿がドアの向こうに完全に消えてしまってから、私は手元に視線を落とした。

 みんな、知らないのだ。

 私がここから出られない理由を誰も知らない。足の怪我が長引いているのだ、とそう思っている。あのウォーカーでさえも、怖かったのだと、信じているのだ。
 私はさっきの彼の瞳を思い出した。

 彼らは真実を知らない。
 そして、真実を知ったとしても、きっと理解できない。

◇◇◇

 その翌日、また戦闘があった。
 小規模なものだったらしく、以前のように場所を移動させられることはなかった。
 私はひとり自分の部屋にいて、外の音を聞いていた。

 わずかに聞こえる剣戟の音、砲撃の音、誰かの悲鳴。

 安全な場所で、安全な世界で。
 守ってくれる仲間の心配をせず、戦いの行方を案じず、私はただ、人が死ぬことをおそれている。

 なんて、薄情で自分勝手なんだろう。
 私は結局、何もわかっていなかったのだ。ドルテン先生や青キジが言ったとおり。

 そのとき、ガチャリ、とドアが開いた。

「調子はどうですか、イチルさん」

 入ってきたのはウィックだった。傷の消毒や治療につかう器具一式をカゴに入れ、がちゃがちゃと運んできた彼は、いつもどおりベッド近くのテーブルに陣を広げた。
 往診の時間にはまだすこし早い。外の状況をかんがみて、ひとりきりでいる私の心境を案じてくれたのだろう。

「案外しずかなんだね」
「ええ。よほど大きな戦闘でないかぎり、船内にはまず何の影響もありません」

 ここは安全ですよ。
 ウィックはそう言って、日課の体調チェックをはじめた。

 外からは相変わらず、争いの音が聞こえてくる。どこか遠くから、どこか他人ごとのように。
 今いる場所が船の上だと知らなかったとしたら、隣に大衆食堂があるのだ、とおしえられても納得できたかもしれなかった。

 それくらい部屋の中はしずかだったし、私もウィックも落ちついていた。
 これが、このレッド・フォース号の日常なのだ。

「毎日わざわざ出向かせてごめんね」
「このくらい当然ですよ。患者さんがリラックスできてこそ、治療も効果を発揮するんです」

 わがままな怪我人の扱いも慣れたもの、てらうことなく彼は答えた。

 失礼します、と服の裾をめくり、傷を確認する。
 丁寧に、だがある程度の力を保って押しつけられる消毒綿の刺激。最初は目をつぶって耐えていたそれも、今となっては採血とそう変わらない。
 力を抜いて、ぼんやりと壁のほうを眺めながら終わりを待つ。

 怪我をすれば痛い。血がたくさん出る。熱も出る。
 以前、大怪我をしたときに私は身をもってそう知った。あんなのはもうごめんだといっぱしの口をきいて、わかったつもりになっていた。
 ただその程度のことを知っただけなのに、ぜんぶわかったような気になっていたのだ。

 なぜ海賊は“悪”なのか。
 陽気で、仲間思いで義理がたい。そんな彼らを、なぜ人びとは悪だというのか。

『だったら、お前の価値は?』

 黄色くにごった目玉が私を見おろした。

 海賊が“悪”である理由。
 それは彼らが例外なく破綻した存在だからだ。

 理不尽で道理に外れた生きもの。その混沌とした生き方は、常人の理解を超える。
 そして、人びとが怯え忌避するその彼らにすら、本能的な恐怖を生ぜせしめ、近づくことはおろか名前を口にすることさえためらわせる慮外の存在がある。

 ―― ちょっと、汚れちまったかな。

 よみがえった声に、身ぶるいした。
 私がその名を呼ぶとき、まわりの者はみなそろって、あのベックマンですら、何か異様なものを見たような目をする。それがずっと不思議でならなかった。

 シャンクス。
 呼んではいけない名前なのではない。知ってしまえば、ただの人にはとても呼ぶことができない名前だった。

 消毒綿の冷たさを感じながら、私は外の音に耳をかたむけた。

 彼らが―― 彼が私をひどく扱ったことなど一度もない。
 彼らはいつも私を危険から救い、保護してくれた。言葉も行動もぶっきらぼうで紳士的ではないけれど、それもまた彼らのまっすぐな生き方を示しているようで、決して嫌いではなかった。

 今回だって、彼はただ私を守ってくれただけ。
 彼らのような人たちは、身内に何かあれば、かならず落とし前をつけなくてはならない。そうでなくては集団としてのかたちを保てなくなるのだと、いつか映画で見たことがある。

 映画?
 そんな言葉を平気で口にしてしまえる愚かさに、自嘲した。

 たとえば、悪ぶっているだけで本当は仲間思いのいいヤツ、とか、アウトローだが弱い者いじめを見逃せない熱血漢、とか。
 そんなフィクションのような設定を勝手につけて、わかったつもりになっていた。海賊はダークヒーローなんかじゃない。

 今まで私の前で人が死ななかったのは、私に怪我がなかったからだ。逆にいえば、かすり傷ひとつでも、彼らは相手を殺す。そうしなければならない義務などないのに、彼らはそうする。
 そこには、良心の呵責もためらいもない。その行為に慣れすぎるあまり、それ自体よりもそこに至るまでの過程を楽しむようになるほどに。

 血のにおいにうち震え、戦いのにおいに焦がれる彼らは、私の理解を超えていた。

 視線を上げ、煤で汚れた天井を見た。

 たとえば。
 “正義”をかかげる海軍が決して潔白ではないことを、私はもう知っている。
 汚職、差別、癒着、支配。
 世界を守ると言いながら、目の前のひとりを見殺しにする。己の地位に安住し、果たすべき責務をおそろかにする。

 だがその薄汚れた正義ですら、本物の“悪”にくらべればまだ清浄だ。
 海軍は正義の名のもとに人を殺し、海賊は理由なく人を殺す。
 どちらのほうが、まだか。この議論は、私がここに来るよりもずっと前に、この世界の人間によって決着がついていた。

 不平等だが、従順であるかぎりはかろうじて生きながらえる世界。
 平等だが、ある日突然ルーレットのような死がおとずれる世界。

 海軍の薄汚さと海賊の悪辣さ、そのふたつをくらべた結果が、かのカテゴリわけである。

 海軍は“正義”、海賊は“悪”―― どちらも同じ獣なら、せめて表側だけでも人に馴れたほうを。
 人びとはそう考え、この世界を許容した。

イチルさん、もういいですよ。今日はこれでおしまいです」

 めくっていた服の裾を下ろし、ウィックはほほえんだ。
 いつしか外の音は聞こえなくなっていた。

「今回も無事に終わったみたいですね。よかった」
「……無事?」

 たとえば、さっき聞こえた悲鳴の主は。たとえば、あの銃声の先にいた人は。

 ああ、なんて自分勝手で、贅沢なんだろう。
 彼らにしてもらわなければ、誰よりも先に死ぬのは、ほかでもない私なのに。

 ひどい吐き気が襲ってきて、目の前がぐるぐるまわった。にごった黄色い目玉たちが私を見おろしてくる。殺したのは誰なのだと、問うてくる。

 あの人たちを殺させたのは、私。
 ぜんぶわかっている。ぜんぶわかっているのに。

 どうしても駄目だった。
 あの日あの時、私の蓋が、ひらいてはいけない蓋がひらいてしまった。

 ―― イチルイチル。私のかわいいイチル

 死んだ祖母の声がする。ああそうだ、ぜんぶ思い出してしまったのだ。

「ま、真っ青ですよ!大丈夫ですか!?」

 身体を抱えて縮こまった私に、ウィックが慌てて駆けよってきた。
 私を真摯に気遣う青い瞳。それを見上げ、私はたずねた。

「ウィックは平気なの?」

 え?と彼は首をかしげた。まるで、私の質問の意図が理解できないとでもというふうに。

「だって、目の前で人が、あんなにたくさん」
イチルさん」

 ようやく納得した顔になったウィックは、めくれあがったベッドカバーをそっと掛けなおしてくれながら、いたわるようにこう言った。

「安心してください。この船は大丈夫ですよ。どんな敵がきたって、皆さんが倒してくださいますから」

 だめだ。
 だめだ。

 私と彼らは、違いすぎる。
 私は、違いすぎる。


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