どんなに拒もうと、時間の流れは止まらない。
私の意思に反して、身体はゆっくりと、だが確実に回復していった。
夜中に急な吐き気をおぼえる回数は減り、熱を出すこともほとんどなくなった。眠れない日はあったが、そんなときは本を読んですごせばいいということも知った。眠れなかったからといって、とくに問題はないのだ。傷を癒すこと以外に、今の私にしなければならない仕事はないのだから。
80 還らずの海―落日―
面会謝絶がとけるとさっそく、なだれ込むように見舞客がやってきた。
「おう、イチル。久しぶりだな!生きてっか!」
「ちなみに俺らは生きてるぜ!」
騒がしくやってきたエヴァンズとハルゼーが、騒がしい近況報告をする。
「おかげさまで生きてるよ。ふたりとも元気そうだね」
「おうよ。あっ、ちなみにこちらが見舞い品のデスペナルティ・オブ・レモン・プディング・ハルバードになります」
手に持っていた大きな箱をどすんとテーブルにのせたエヴァンズに、相方のハルゼーが半目になった。
「そんなわけわかんねえもの、見舞いに持ってきたのかよ……食いもんなの?武器なの?」
「こういうのは受けとる側の気持ちで決まんだよ。な、イチル」
「プ、プディングだったらありがたくいただくけど、ハルバードはちょっと」
ウインクをして自信満々に同意を求めてきたエヴァンズに、私もおもわず半目になった。『ハルバードなの?プディングなの?』問題以前に、ネーミングセンスが致命的である。見舞い品にデスペナルティを課すんじゃない。
「ほらエヴァンズ。イチルが困ってるじゃねェか」
「大丈夫だハルゼー。武器にするなら使い方はちゃんと教える。それが責任ってもんだ」
わけのわからない応酬に、私はちょっと噴きだした。
「ほんと、ふたりとも相変わらずだね」
エヴァンズたちが去ったあとも、見舞客はとぎれなかった。
たとえばフライとダンピア。ウォーカーは見張りの最中らしく、姿は見えなかった。
ふたりは十分ほど喋ったあと、どこかの港で仕入れたという不思議な香りの茶葉をおいて去っていった。
それから、よくカードに誘ってくれるクルーたち(といっても、一度カモにされてからは丁寧に断っているが)も来てくれたが、こちらのほうは酒やらタバコやらを部屋に持ちこもうとしたため、菩薩のような顔をしたウィックによって即座にどこかへ連行された。どこへ行ったかは知らない。
前を通りがかったついで、と言ってほんのすこしだけ顔を出して帰ったのはヤソップとルウだった。
ルウが土産においていったのはもちろん例の骨つき肉だったが、こちらも病人食の栄養バランスを心配したウィックによってあとからこっそり回収された。
それからも、ぽつぽつと人がやってきては、短い時間だけ話して帰っていった。
そしてそのまま夜になり、一日は終わった。
面会謝絶がとけたあと、私の身体は日増しに回復していった。まるで何かが吹っきれたようだった。
そして、つらいリハビリを終え、杖がなくてもなんとかひとりで自由に歩きまわれるようになったある日の夕方、ついに船長室へのお呼びがかかった。
廊下をわたり、もうずいぶんと訪れていなかったドアの前で立ちどまる。深呼吸をひとつして、それからゆっくりとノック。
おう、と返ってきた声は、最後の聞いたものと何ら変わりはなかった。おそるおそるノブをひねる。
夕日のオレンジに染まった部屋の中、シャンクスは白いシャツを着て、ソファにだらしなく足をあげていた。
私を見上げた彼は、イチル、と嬉しそうに口元をゆるめた。
「やっと治ったか」
「百点満点じゃないけどね。とりあえず日常生活に支障はないよ」
「そりゃあ重畳。まあ、座れよ」
私に対面のソファをすすめてから、彼は申し訳なさそうに眉を下げた。
「悪かったな、見舞いに行けなくて。いろいろと忙しかったんだ」
「気にしないでよ、そんなの。お見舞いだなんて言っても、許してもらえたのは最後のほうだけだしね」
そう言うと、彼は「そうか」と苦笑した。
そして自分もまたきちんと正面を向いて座りなおし、こう言ったのだった。
「イチル、よろこべ。もうすぐハラントゥーガだ」
待ち焦がれた言葉だった。
はやる心を必死に抑えながら、なんとかひと言、訊きかえした。
「ほんとうに?」
「ああ。このまま何ごともなければ数日中には到着する」
シャンクスは私を見つめて、目元をゆるめた。
「今度こそ、帰れるかもしれないな。イチルの望みが叶うのは喜ぶべきことだが、俺としては、すこし寂しくもある」
言葉のとおり、喜んでいるようでもあり、また同時に心底寂しがっているようにも見える表情だった。中高い鼻筋から頬にかけて、夕焼けがわびしげな影を落としている。
彼はいつだって私の望みをいちばんに考えてきてくれた。
胸の深いところがズキリと痛んだ。銃で撃たれたときとも、ナイフで裂かれたときとも違う、心臓に直接響いてくるような苦しさだった。
私は喉の奥から言葉を絞りだした。
「帰れるって、決まったわけじゃないよ」
「そうだな。宝さがしは地図が見つかってからが本番だ」
シャンクスが冗談めかして喉を鳴らした。いつもどおりの無邪気なアンバーに見おろされて、私はそれ以上、何も言えなくなった。
一刻もはやく元の世界へ―― この臆病な頭はもうそんなことしか考えられなくなっているのだから。
冒険も自由も、与えられたものを何もかも放りだして。
行き場を失った視線が、床をさまよう。足元に落ちた強いオレンジの光を見つめていると、目の奥が染みるように痛んだ。
船長室はしずかだった。
目を閉じると、ざあ、と波のさざめく音がした。どこか遠くから聞こえてくるような、穏やかで深遠な音だった。
「前に“還らずの海”の話、してくれたよね」
「ああ」
「私、それがどこにあるのか、やっとわかった」
シャンクスがぴくりとまぶたを動かした。石になる呪いでもをかけられたように、さっきまで元気に輝いていた瞳が、やけにのろのろとこちらを見る。
物憂げで、どこか苦しさすら感じさせる表情だった。
「“還らずの海”はね、きっと海の底にあるんだよ」
遠く、遠く、ここではない場所にある海を見つめて、私は言った。
シャンクスは答えなかった。彼もまた、私を通して、どこか遠くの海をぼんやりとながめていた。
ここよりはるか遠く、今となっては、還りたくとも還ることのできない海を。
「記憶を持っていくのは、きっと、海の女神なんかじゃない」
そうかもな、と彼はつぶやいた。
“還らずの海”へと集まる記憶。それを抜きとって持ち去るのは、海の女神じゃない。
女神だろうが誰であろうが、そんなことはできないのだ。記憶も思い出も、その当人だけのもの。他人には見ることも奪うこともできない。
思い出はなくならない―― 思い出の持ち主がそれを願わないかぎりは。
喪ったもの、もう戻らないもの。思っても想っても取りかえせない一瞬。
あまりにも重くなってしまったそれを、人は知らないうちに手放してしまう。生きていくために、手放さずにはいられないこともある。
外から中身が見えないように、きれいな色をした箱に大事に大事につめて、水面にぽちゃりと落とす。
そうして記憶は海の底に沈んでいくのだ。
誰の手も届かない、深くて冷たい、“還らずの海”へ。
シャンクスのような強い身体と強い心を持った人さえ、ときには、そうなのだ。
だったら、私なんて。
目を閉じると、まぶたの裏に、残照がちらついた。
カンカンとなる踏切。三つならんだ影。つないだ手。
「シャンクス」
「なんだ」
「……ごめん、なんでもない」
誰も、殺さないで。
そんなひと言をどうやって口にしろというのだ。
それは彼らの、彼の、すべてを否定する言葉だ。
人を殺すことで、生きのびてきた彼。それによって居場所を得てきたクルーたち。それによって守られてきた私。
生きることは、ほかの何かを傷つけること。
ここはその真理が剥きだしのまま、息づいている世界だ。彼らはその世界を、命がけで生きのびてきたのだ。
痛みを知らず、苦しみを知らず、死を知らず。
ある日突然あらわれて、のうのうと生かされてきた私が彼らを否定する。そんなことはきっと、この世界がゆるさない。
おかしいのは彼らじゃない。
流れついた椰子の実。
地に根付くことのない異物は、私だ。
それから三日が経って、私たちはハラントゥーガに到着した。