ハラントゥーガは、結論からいうと、何の変哲もないただの小島だった。



chapter7 SLEEPING BEAST

81 ハラントゥーガ(Ⅰ)


 人口およそ五百人。大きさは子どもが一日かかって外周を歩けるくらい。気候は温暖で、沿岸より少し内側にはいったところに、葉葺の小屋が点々と集落をつくっている。島の中央部に屏風のようにそびえる高山が特徴といえば特徴か。

 コーヴランが示し、導いたハラントゥーガ島は、実際のところ、広い海のどこにでもある―― そして、広い海以外には何もない、田舎の小島だった。

 かさり、と木の陰に気配を感じて、視線をやると、こちらを窺っていた複数の瞳がクモの子を散らすように逃げさっていった。
 軽くて薄い布を纏った浅黒い肌の島民たちは、つぎつぎに林の中に駆けこんでいき、少女の長い黒髪がしゅるりと藪に吸いこまれたのを最後に、全員が姿を消した。

 この世界にはきわめて珍しいことに、ハラントゥーガ島の住民はひとり残らず黒目黒髪の人種だった。他の身体的特徴を持った者はいない。外海との交流が絶えて久しいことを示す、このうえなく明快な例だろう。

 レッド・フォース号がハラントゥーガに到着したのは、早朝だった。

 突然現れた巨大な船に住人たちはひどく驚いたようだったが、ベックマンがすぐ交渉に入ったおかげで大きなパニックは起こらずに済んだ。

 滞在は数日から一週間を予定していること。その間、ふたつある入江のうちのひとつを借りうけたいこと。物資を不当に巻きあげるつもりはないこと。ただし水など一部の消耗品については島民の生活に影響を及ぼさない程度に補給したいということ。その際は物々交換等を通して正当な取引をすること。
 そして、住民に対しこちら側からはいっさいの接触を行わないこと。

 島民とのあいだで取りきめられた内容はだいたいそのようなものである。

 彼が言うには、島民たちの使う言語は、基本的に私たちと同じものではあるのだが、一部、特異な語彙や文法が含まれており、慣れていない者が正確なコミュニケーションを取るのは難しいとのことだった。

 誤解や勘違いによる無用のトラブルを避けるため、クルーたちには、上陸してもできるだけ船の周辺から離れず、また勝手に集落に立ち入ることがないように、との指示が徹底された。

 家の中に隠れていた住人たちも、上陸から半日ほどたった今は、船の見えるところまでやってきて、こちらのことを遠巻きに観察するようになった。注意を向けると逃げてしまうが、とりあえず敵意を持たれてはいないようだ。

「春島寄りの温和な夏島だ。住人の性質もそれを反映しておおむね穏やかなものだといっていいだろう。過去に外敵の攻撃を受けたこともないようだしな。が、油断は禁物だ。言葉が通じないせいで、トラブルが起こる可能性はゼロじゃない」

 ベックマンは集落の入り口でタバコをくゆらせながら言った。はい、と頷いた私に、彼は若干声をひそめて続けた。

「それと、島長との会話の中で、この島のどこかに遺跡か、もしくはそれに準ずるものがないかを確認した」

 私は唾を飲みこんだ。
 『古き海の冒険』の最終章において、目的地に辿りついた主人公たちは、遺跡を発見し、そこで宝を手に入れた。
 コーヴランの著した彼の本は、これまでも正確にハラントゥーガまでの道を指し示してきた。

 であれば、今回も。
 期待を込めて見上げると、ベックマンは頷いた。

「アンタの想像どおりだ。いつからあるのかもわからない古い建造物が、森の奥にあるそうだ」
「そこへはいつ……!?」

 おもわず身を乗りだした。一刻も早く先に進みたかった。

「そう焦るな。今日はもう時間がない。向かうのは明日だ」

◇◇◇

 森の奥、と聞いていたものだからアマゾンの密林に分けいるような想像をしていたのだが、いざ行ってみるとそれがいかに的な考えであったかを思い知ることになった。

 住人が森と称する島の中央部は、実際には荒れた山肌がつづく赤土の山岳地帯だった。短い草と低木が大地の産毛のようにあちらこちらに生えているさまは、どちらかといえばアフリカのサバンナに似ている。

「住民の話によると、この島には雨季と乾季があるそうだ。今はちょうど乾季で、見てのとおり森はそう大きくないし、道もはっきりしている。雨季がおとずれると、このあたりは森というより湿地になるようだな」

 ベックマンの指が、そばにあった木を示した。
 天辺まで二メートル程度しかない低い幹の、真ん中あたりに、古い泥の痕がうっすらと水平に残っていた。雨季になると、ここまで泥が上がってくるのだ。

 木の幹を覗きこむフリをしつつ、私はちらりと隣を窺った。
 少し離れたところに立つシャンクスは、ベックマンの話を聞いているのかいないのか、ひとりぼんやりと空を見上げていた。
 ベックマンもベックマンで、それを気にする素振りもない。お互い慣れているのだろう。

「強力な捕食者はいないらしいな。この島は鳥齧目の楽園だ」

 足元をすり抜けていった鳥のようなネズミのような中型の生き物を指して、ベックマンはまた言った。

 言うなれば、ドードー鳥。
 飛べなくても、爪や牙がなくても、速く走れなくても、生きていける。

 どんなに脆弱でも、生きのびていくことができるのだ。
 そこが敵のいない、平和で、安全な楽園であるかぎりは。

 ―― 神降りし地ハラントゥーガ。鳥うたい、泉あふるる常世の楽園。

 ぽたり、と地面に汗が垂れおちた。
 刺すような日光が、首筋を焼いていた。

 春島寄りの温和な夏島。ベックマンはそう表現したが、私には真夏のアスファルトを歩くも同然の暑さだった。
 倒れるほどではなくとも、それなりに堪える気温だ。乾季で湿度が高くないのだけが救いだろうか。
 服の袖で汗を拭ったとき、ベックマンが珍しく驚いたような声をだした。

「レイン・オリーブか」

 とある木の前で立ちどまる。
 そして私はこの世界に来てはじめて、レイン・オリーブと呼ばれるものを目にしたのだった。

 のたくったような低くて太い奇樹である。
 樹皮は若干緑がかった薄い茶色で、百日紅さるすべりのようにスベスベとなめらかだ。肉厚の葉は硬そうだが、水を弾くようなつややかな緑色をしていた。

「これが、レイン・オリーブ」

 あたりを見まわせば、同じような特徴を持った木があちこちに立っていた。
 ちょっと待ってくれ、と言ってベックマンが何か器具のようなものを取りだした。尖った先端部分を、木の根元にごく浅く挿しこむ。

「除塩能力は中の上ほど。マンザニーロよりは上だ」

 黙っていたシャンクスが、ここではじめて「へえ」と興味を示した。

「俺はそのあたりのことはあまり詳しくないが。ウィックがいたら大騒ぎだったろうな」
「船医連中にはあとで特別に外出許可を出してやれよ、船長キャプテン。でないと暴動が起こるぞ」
「違いねェ」

 シャンクスは笑って肩を竦めた。
 ベックマンはレイン・オリーブを見つめて言った。

「とはいえ、やはり原種には遠く及ばないな。時間をかけて島の固有種と交雑したんだろう。見た目がこれだけ古代種に拠ったものなら、もしかすると、と思ったんだが」

 残念だ、と言いながらも、はじめから期待していなかったような顔で、ベックマンは測定器具を片付けた。

「ベックマンさんも、レイン・オリーブの原種に興味があるんですか」

 口を挟んだ私に、ベックマンはわずかにまぶたを上げた。あいかわらず何を考えているのかわからない表情で、こちらを見下ろしている。

「植物学者の真似事さ。どんなものでもルーツを探りたくなる。が、レイン・オリーブの原種については、他の植物とはまた違った興味があるのも事実だ」
「ほかの植物とは違う?」
「考えてみたことはないか」

 ベックマンは、独り言のように言った。

「たったひと株で、塩湖ですら淡水湖に変えてしまうほどの強力な除塩作用。それは、この海の世界においては、単なる化学現象以上の意味を持つ」

 切れ長の瞳は、木々に隠された森の向こうの海を見ていた。

「ここでは、あらゆるものが海に生き、海に死ぬ。水生生物だけじゃない。人も国も、世界すらも」

 大陸がなく、海洋が地表の圧倒的大部分を占める世界。世界の中に海が内包されているのではない。
 海こそが世界なのだ。

 わかるか、とベックマンは繰りかえした。

において、“海”を“海”でなくする力を持つこと。海を意のままに操る―― それはすなわち、“世界”への絶対的な支配を意味する」

 男の口調は淡々と凪いでいた。
 しかし私はその瞳の奥に、惹きこまれるようなぞっとするような、えもいわれぬ光を見たのだった。

「絶対的な支配……」

 我慢できずに目を伏せた。

 次に顔を上げたとき、彼はもういつもの冷静で皮肉屋なベックマンだった。

◇◇◇

 着いたぞ、と言われて、ようやく周囲に意識が向いた。
 時計を見れば、出発してからたっぷり二時間は経っていた。

 途中からは山をのぼっていたように思う。足はだるかったが、歩き疲れたという感覚はない。
 私ではない誰かが、私のいない間に、勝手に足を動かしてくれていたようだった。

「ここだ」

 ベックマンが目の前の開けた空間を指差した。

「ここって、え?」

 私は困惑のあまり、ベックマンの顔を何度か見直した。

 なぜなら、そこには何もなかったからだ。
 石造りの柱も、古い石碑も、奇妙な形の祭壇も、私が期待していたようなものは何も。
 広場というには小さすぎる林の中の空き地には、ぽかりと広がった空間とそこを満たす空気があるだけだった。

「たしかにこの場所だと言っていたんだが」

 とりあえずひととおり見てみるか、というシャンクスの声で、私たちは手分けして周囲を探しはじめた。
 しかし探すといっても、探すような場所すらないため、最終的には持ってきたシャベルで地面を掘りかえすことになった。
 これまで歩いてきた赤土とは違い、泥が固まったでできたような地面は、フォークでチョコレートケーキを削るように簡単に掘りすすめられた。

 シャベルを手に、黙々と作業を続けていると、カチン、と小さな音がして、同行していたクルーのひとりが何かを掘りあてた。

 土の下から出てきたのは、白い石の破片だった。
 丁寧に泥を落としてみると、破片は陶磁のようにつるりと輝いた。
 明らかに人工物だった。

「なるほど。ここにはたしかに遺跡があった。いや、正確には今もある。俺たちの目には見えないだけで」

 ベックマンは、理解に難いことを、あたかも周知の事実だと言わんばかりの冷静さで述べながら、少し上の山面を指さした。

「おそらくはのせいでな」

 斜面は、巨人のスコップでえぐりとったようにぽっかりと見るも無残に削られていた。同じものを前にテレビで見たことがある。
 土砂崩れの痕だ。

 まさか、という声が、喉で詰まった。

「そうだ。遺跡はすでに土砂に覆われ、この地面の下にある」
「地面の、下?」

 たどりついた結論に、身体が震えた。

「この島の雨季はなかなか大したものらしいな。森が湿地に変わり、山肌には地崩れが起こる。集落が沿岸部にしかない理由がようやく理解できた」

 ベックマンは科学者のように観察的な声で言ったあと、足元の地面を指した。

「粒子の細かい泥土。わずかに混じる草や枝。崩れた土砂が堆積したのはここで間違いない」
「ということは、掘りかえせばまだ――

 縋りつくような声で叫んだ私に、だが、ベックマンは首を横に振った。

「たしかに今俺たちが見ているこの土砂の層は最近のものだ。だが地崩れ自体は、雨季のたびに何度も起こってきたはずだ」
「でも、島民たちはその遺跡を見たことがあるって!」
「見たことがある、とは言っていない。彼らはただ、と言っただけだ。道中、人の足跡をいっさい見かけなかっただろう。島民たちはふだんここには来ないということだ。最後に遺跡を目にした者が、この時代の人間だとはかぎらない。この場所に遺跡があるという事実だけが口伝されていった。そう考えることもできる」
「じゃ、じゃあ、コーブランはどうなるんですか!?本の内容が事実だったとしたら、彼はこの島でたしかに遺跡を見つけて――

 言いながら、私は自分の反論がまるきり無意味で矛盾したものであることを理解していた。
 ただ、自分の声で気を紛らわせていないと、どうにかなってしまいそうだったのだ。

 ベックマンはわかったうえで、事実を告げた。

「そのとおりだ。コーブランが訪れたには、遺跡はまだ地表にあった。だが今は―― 見てのとおりだ」

 私は地面に膝をついた。
 こんなこと。こんなことが。

「遺跡は少なく見積もってもここより数百メートルは地下にある。掘りだすことは不可能だ」

 これ以上、何も聞きたくなかった。
 私は頭がおかしくなったんじゃないかと思うくらい、がむしゃらに地面を掘りかえし、木々の間を探し、転がった石や岩を下を見てまわった。

 白いものが目に留まるたびに、むしゃぶりついて調べた。
 しかし、それはたいていはただの白い石だったし、ごくまれにそうでないものがあっとしても、それはさっきのようなごく小さい破片でしかなかった。

 私はたしかにハラントゥーガに辿りついた。
 だが、私のハラントゥーガは、もうどこにもなかったのだ。

◇◇◇

 気がつくと、太陽が沈みかかっていた。
 力尽き、地面にしゃがみこんでしまった私の上に、影が伸びた。

イチル

 『帰ろう』とも『諦めろ』とも言わない。ただ夕焼けに赤い髪を透かしながら、私を見おろしている。
 彼が何を考えているのか、今の私にはもう、わからなかった。

 だが私の口は、私の意思とは裏腹に動いた。もう長い間、口にしなかった名前だった。

「シャンクス」

 呼びながら、ずるい、と思った。
 シャンクスが、じゃない。自分がだ。勝手に逃げては、自分の都合でまた縋る。

 私は、甘ったれた自分に対する最後の抵抗で、地面を這いはじめた。
 泥だらけでぐちゃぐちゃの、情けない姿を晒しながらも、私はここを去る前にもう一度だけハラントゥーガを探そうと思った。
 藪に入り、草をかき分け、転がっていた大きな石を掘りおこして、でも手の力だけでは動かせずに、思いきり足で蹴っとばした。

 灰色の石はごろりと斜面を転がりはじめ、私の視界から消えた。それで終わりだった。

 何もやることがなくなって、夕日の影で立ち呆けたとき、
 ちゃぽん。
 と、どこかで水音がした。

 背筋に電気が流れて、私は弾かれたように走りはじめた。灰色の石が転がっていった方向に向かって、同じように坂道を転げおちる。
 そして、見つけた。

 林の奥に隠された―― 小さな泉だった。

 大人が数人、手をつなげば囲めてしまうくらいの大きさで、深いところでも一メートルほどしかない。
 磨かれた水盆のように、うつくしく光る泉。

 予感がした。
 おそるおそる覗きこむと、さっき蹴り落とした灰色の石がまず目に入った。

 そしてその隣には―― 大きくて白い何かが沈んでいた。砕けた破片ではなく、何らかの意味を持ったひとつの塊として。

 身体は正直で、泉の底に沈む真四角の石を見た途端、死んだようだった心臓がバカみたいに早鐘を打ちはじめた。
 今にも泉に飛びこもうとする私を抑え、シャンクスが代わりに拾いあげた。

 白い立方体を表がえす。
 濡れた石の表面には詩のような一節が刻まれていた。


 すべてを捨てて求めてきた。
 しかし老兵の手に残ったのはむなしく刻まれた皺と一節の聖句のみ。

 ああ、若き力よ。
 何者も、何物も、届くことはない。

 この身もまた永久に眠る。
 約束は果たされず、すべてはここについえた。


Luis da Coverun






 それは、墓標だった。


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