すべてを捨てて求めてきた。
 しかし老兵の手に残ったのはむなしく刻まれた皺と一節の聖句のみ。

 ああ、若き力よ。 
 何者も、何物も、届くことはない。

 この身もまた永久に眠る。
 約束は果たされず、すべてはここについえた。

Luis da Coverun

 



chapter7 SLEEPING BEAST

82 ハラントゥーガ(Ⅱ)


 その白い墓標を前に、誰もが言葉を失った。
 ある者は驚愕によって、ある者は困惑によって。
 そしてある者は―― 絶望によって。

 刻まれた名前を、指先でなぞる。

 ルイス・デ・コーヴラン。

 震える手で『日誌』を取り出し、サインを照らしあわせる。
 筆跡は完全に一致した。

 地面にへたり込んだ私の隣で、ベックマンが背を屈めた。同じように指先で古い名前を追う。

「まちがいない、本人のものだ」
「なんで、こんなところに、コーヴランの名前が」
「ハラントゥーガをさがすコーヴランの旅は、実際にはひどく長いものだった」

 ベックマンは白い墓標の前で、ゆっくりと紫煙を吐きだした。

「『日誌』はそのときの航海日誌。そして『古き海の冒険』をはじめとするコーヴランの著作の多くもまた、その長い航海の途中で書かれたものだ」

 ベックマンは私の手から『日誌』を取りあげ、ページをめくった。
 『日誌』の前半部は航海の記録、そして後半部は聖句の写し。

「『古き海の冒険』は、コーヴランがハラントゥーガにたどりつくまでの道のりを比喩や独特の表現により脚色し、物語として仕立てたものだ」
「ええ。その証拠に、『日誌』前半部の記録と『古き海の冒険』のあらすじにはある程度の関連性が見てとれます」

 私はうなだれるように頷いた。

 『日誌』と『古き海の冒険』の関連性については、以前ベックマンから『古き海の冒険』とハラントゥーガの関係を聞いたあと、自分で確認してあった。
 ベックマンの言うとおり、あらためてそういうつもりで『日誌』の前半部分を読めば、難解な文章の中にも、『古き海の冒険』と対応しているであろう箇所がいくつもあった。

 『古き海の冒険』が実際の冒険を元にして書かれたということは、私の中ではいまや疑いようのない事実となっていた。

「だが、読めば読むほど決定的に部分がひとつだけある」
結末エンディング、です」

 息とともに、答えを吐きだした。

「『日誌』には、肝心の目的地についての記述が、いっさいありません」

 そう、『日誌』には旅の結末が書かれていない。『日誌』はいないのだ。

「『古き海の冒険』はたどり着いた島で宝を見つけ、大団円に幕を閉じます。でも一方、実際の旅を記した『日誌』の記録は目的地にたどり着く直前で、プツリと途絶えているんです。そして代わりにはじまるのがあの一連の聖句の写し」

 開かれた古いページの上で、文字がおどる。

 ―― 第三十八章十七節、乾きに心を悩ませるな。約束が果たされる時、無垢なる水があなたがたを潤すからである。

「『日誌』には結末が書かれていません。書けなかったというよりも―― まるで、書きたくなかったみたいに」

 今の私にはなんとなくわかる。
 コーヴランは、あえて真実を記さなかった。

「だって彼の冒険の結末は、彼の願ったものにはならなかったから」

 タバコの煙がゆらゆらと立ち上っていく。ベックマンは口に出して、正解だ、とは言わなかった。

「コーヴランの著作は、コーヴラン本人ではなく、コーヴランの血縁者の手によって世に広まったとされている。手紙の形で故郷へと送られたのか、それとも旅に同行していた誰かが持ち帰ったのか。今となってはどんな問いも意味をなさないが、いずれにせよ、そこに多くの解釈は必要ない」

 ベックマンはたったひとつの、必然の帰結を口にした。

「旅路は往路のみ。願いを抱いてこの地にたどり着いたコーヴランは、何らかの絶望を目にし、そのままここで生を終えた」


 神求めし地ハラントゥーガ
 鳥歌う、いきてはかえれぬ果ての国

 果ての楽園を求めたその男は、往きては、帰れなかったのだ。

◇◇◇


 翌日も、私は諦めきれずに同じ場所へ向かった。
 しかし、どれだけ探そうが、私の望むものは見つからなかった。

 翌々日も、私はそこへ行った。
 だが、結果は同じだった。

 どちらの日もシャンクスがひとりでついてきてくれた。
 荒れた大地を歩きながら、私は毎日同じことを訊いた。

「コーヴランは遺跡で何を見たのかな」

 シャンクスは「何だったんだろうな」と私の言葉をオウム返しにした。

「コーヴランはどういう理由で死んでしまったんだろう」
「どんな理由も、ありうるだろうさ」

 安易な励ましを口にすることもなければ、諦めさせようとすることもなく、彼はただ私のすこし後ろを歩きつづけた。

 コーヴランはこの島で死んだ。
 いつどうやって死んだのかはわからない。重い病気にかかったのかもしれないし、もしかしたらそれまでの冒険で、取り返しのつかないような大きな怪我をしてしまっていたのかもしれない。島に着いた時点でかなりの高齢だった可能性もある。

 かもしれない。かもしれない。かもしれない。
 ヒントになるはずだった遺跡も、私をここまで導いてくれたコーヴランも、すべては土に埋もれて消えてしまった。
 残されたものは、行き止まりを示す白い墓標だけ。

 ―― 約束は果たされず、すべてはここについえた。

 コーヴランはたしかにハラントゥーガにたどりついた。しかしそこに、彼の求めた“何か”はなかったのだ。
 私はもう一度シャンクスにたずねた。

「コーヴランはいったい何をさがしていたのかな」
「さあな。今となっては誰にもわからないことだ」

 風のように流れていくだけの返答。
 コーヴランも誰も彼も、私を導きはしない。どんな灯火もいつかは消える。永遠に行手を照らしてくれるものなど存在しない。

 この世界に来て、私は自由を得た。すすむもさがるも、生きるも死ぬも、すべては自分が決めること。

 私にはそれが何より、おそろしかった。
 明日どんな目に遭っても誰のせいにもできない。私の行動の結果、起こったことはぜんぶ私のせいなのだ。
 笑える話だ。そんな当たり前のことを、私はこの世界に来るまで知らなかった。
 保険も保証も確証も何もない。何もないこの世界で、私はずっと不安だった。心細かった。おそろしかった。

 私に『自由』は重すぎた。
 だから、私はを誰にも見えないようにこっそりゴミ箱に捨てたのだ。

 常に誰かの背中を追いかけてきた。願いや望み、期待、あらゆるものを勝手に託して。

 先を征く挑戦者には、多大な危険と引きかえにあらゆる自由が許される。
 後を追うだけの臆病者には、危険もないが、自由もない。

 誰かのあとを追い、その背に己の望みを託すかぎり、その誰かが突然歩くことを辞めたとしても、文句は言えない。勝手に追いかけていただけなのだから、追いかけていた相手が最後にどこに行きつこうが、受け入れるほかはない。

 誰であろうと、私を導きはしない。いや、人が人を導くことなど、そもそもできやしないのだろう。

 自分の足で歩くことをやめた時点で未来はない。
 私の道もまた、ここについえた。

◇◇◇

 三日後、船はハラントゥーガを離れ、予定どおりアジトへ向かった。

 おだやかな波の音を聞きながら、木のテーブルに頬につける。読んでいた本のページが勝手にパラパラとめくれて、最後には表紙ごとぱたりと閉じた。
 テーブルに置いた水差しに、ハードカバーの古びた色が映る。しおりは挟んでいない。
 私は何をするでもなく、テーブルの上の様子をぼんやりとながめていた。

「燃えつき症候群、だっけ」

 いつかどこかで聞いたようなライトな単語に置きかえてみると、なんだかすべてがどうでもいいことのように思えてきた。

 海鳥の鳴く声がする。カモメが窓の外の手すりに止まって、不思議そうにこちらを見つめている。
 目標がなくなると抜け殻になる。

 目標って何、と私は誰にともなく問いかけた。
 ハラントゥーガを見つけること。コーヴランの謎を解きあかすこと。前に進むこと。歩きつづけること。

 元の世界に、帰ること。

 私は手をのばし、目の前にあった白い宝石箱を引きよせた。
 つるりとした陶器が、指先に冷えた感触を伝えてくる。蓋を開けると見知った金文字が繊細に光を弾いた。

 小さなキズや装飾の剥げ具合をのぞけば、私が昔持っていたものとまったく同じ形のそれは、シャンクスのものである。ハラントゥーガに着く前にもう一度きちんと調べたいという理由で、すこし前に借りてあったのだ。

『はじめまして、イチル。俺の名前はシャンクス。船乗りをしている』

 記憶がよみがえってきて、目を閉じた。

 どうしてこうなっちゃったんだろう。
 問いの形をしたその言葉は、無為な響きを残して宙に消えた。これ以上ないほどに、無意味な問いだった。私はその答えを知っている。

 不幸な巡り合わせ?
 巻きこまれた不運?
 ―― とんでもない。

 むしろは私は、このうえなく幸運だった。進めないはずの場所を飛び越え、死ぬはずのところを生きのびた。
 だから、この結果を導いたのは、ほかでもない私自身だ。私は、私という必然によってこの結果エンディングにたどり着いた。

 ミハマで生まれ、祖母に育てられ、シャンクスに出会った。私というものを形づくるひとつひとつが運命を先導し、私をこの行き止まりに連れてきた。
 だから、私が私でない誰かならこうはなっていなかった、という夢想も決して的外れなものではないだろう。
 たとえば私と同じ年齢や性別で、同じように向こうの世界で生まれていて、同じようにこちらに来た人がいたとして、その人は大丈夫なのかもしれない。

 でも、私は、だめなのだ。
 私はだけは―― 絶対に。何があっても。

「だって、ぜんぶ思い出したから」

◇◇◇

 気づけば、太陽が西に傾いていた。

 寝てしまっていたらしい。
 あわてて起きあがった拍子に、テーブルに置いてあった水差しが倒れた。あっ、と小さく叫んだ私の前で、透明な水が生き物のようにテーブルを這い広がっていく。
 飛び散っていた小さな水滴と合流し、みるみるうちに、ひとつの大きな水たまりに成長する。

 広がる水から読みかけの本をかろうじて守ったとき、どこからか、ちゃぷん、と音がした。
 私はその場で動きを止めた。テーブルを覆う透明の鏡面は、死んだようにしずまりかえっている。

 いや、しかし、たしかに聞こえた。揺蕩うような水音が。

 私は唾を飲みこみ、水たまりの中にある白い箱を持ちあげた。ぽたりぽたりと箱の端からしずくが垂れる。中身は空っぽのままだ。
 一度、目をつむってから、私は震えてかじかんだ指を、ゆっくりと箱の中にのばした。指先が、箱の底に触れる。

 ちゃぷん。
 乾いた白い陶器の底が、海面のように揺れた。

 息が浅くなる。心臓がこれ以上ないほど荒く拍動する。今にも取り落としそうなほど動揺する両手によって、陶器の底はミルクのようになめらかに波立った。

 ちゃぷん。
 不思議だ、奇妙だ、とありきたりな感想をこぼすような余裕はなかった。
 私の意識は、目の前で起こりかけている『何か』への予感でざわざわと音を立てて泡立ちつづけていた。

 そして、ついにそれが始まった。
 星でも落としたように、陶器の底ので、光が宿る。やわらかな光球が広がっていく。

 ちゃぷん。
 ひときわ強い光を放ったのを最後に、白い箱は電池が切れたようにただの陶器へと戻った。

 ―― その内側に、さっきまでは見当たらなかった、一枚の紙切れを残して。

 水の中に浸っていたように見えたのに、とりあげたメモは、おろしたての便箋のようにシワひとつ汚れひとつなかった。
 メモには印刷したような無機質な文字で、こう書かれていた。

『元の居場所に帰りたいか?』


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