―― 元の居場所に帰りたいか。



chapter7 SLEEPING BEAST

83 セイレーンの呼び声(Ⅰ)


 私はテーブルから後じさりし、最後にはバランスを崩して床の上に尻もちをついた。その拍子に手からメモが落ちる。

「何、これ?」

 いったい誰が、どうやって、何の目的で。
 どうして私のことを知っている?

 ひどく混乱し、動揺し、私は震える手でもう一度メモを拾いあげた。そして、ゆっくりと裏返した。
 そこには、はたして、メッセージのつづきがあった。

『帰り道を失いたくなければ、この手紙のことは決して口外するな。お前が誰で、どこにいるか、すべてわかっている』

 真っ先に思い浮かんだのはシャンクスの顔だった。

 伝えないと。
 メモを握りしめ部屋を出ようとしたとき、廊下で足音がした。わいわいと口汚く騒ぎあう若い声は、よく聞き知ったものだった。
 ウォーカー。見張りが終わって夕食に向かう時間だ。このまま合流して同じ方向に行けば、そこにシャンクスもいる。

 ドアを開けようと、ノブに手をかけた―― が。次の瞬間、私は私自身にも予期しえなかった行動をとった。
 カチャリ。
 ノブにかかっていたはずの手が、気付けば錠をかけていた。

 案の定、数秒もしないうちにドアの外側からガチャガチャとノブをひねる音がした。

「カギ掛かってんのか?おい、イチル。中にいるんだろ!飯!」

 荒っぽくドアを叩く音とともにウォーカーの声が響く。喉が震えないように、深呼吸してから、ちょっと慌てたふうに答えた。

「ごめーん、開けられない!今着替え中!」
「着替えェ?」
「インクこぼしちゃったの」

 またかァ、とか、間抜けェ、とかウォーカー以外の呆れ声が聞こえる。

「聞こえてるぞう、その他の衆!ドジなのは認めるけど、ノックしないでドアを開けようとするのは非常識です!」
「海賊にノックをさせようだなんて発想がそもそも非常識だぜ。さっさと着替えて、食いに来いよ。遅れるとコック長にどやされるぞ」

 言いたいことを言って、足音が立ち去っていく。ふう、と息をついた私はテーブルのそばまでもどり、腰を下ろした。
 凍った針で刺されたように頭の隅が、痛い。

 わかっている。私にだって。やっていいことと、やってはいけないことの違いくらい。

 ノックしないで私室に入ったって、インクや酒を服にぶちまけたって、約束の時間に遅れたって、彼らは本気で怒ったりしない。
 頭にくることがあっても、一発殴って、酒を飲めばそれで終わりだ―― 相手が仲間であるかぎり。彼らは仲間というカテゴリに対して、いつだって特別の価値をおき、特別の扱いをする。

 だからこそ、裏を返せばそこには絶対の不文律がある。
 何があろうと破ってはならない、命よりも重いルール

 わかっている。そのくらいわかっている。
 ―― でも。

『元の居場所に帰りたいか』

 たった一文のメッセージに、私の心は完膚なきまでに打ちのめされていた。

 私は不自由だった。この手紙を受け取った時点で選択肢などない。
 私は自由だった。この手紙を受け取ったことを誰も知らない。

 氷のように冷たくなった手で、新しい紙をちぎり取り、ひと言だけ書いた。

『あなたたちの目的は、ですか』

 白い箱の中にメモを入れると、やってきたときと同様に、水面が揺れ、水底が光り、あとには何も残らなかった。
 テーブルの前にじっと座り、まばたきもせずに待つ。

 そして、返事が届いた。

『目的は、お前ひとり。“そこ”に手を出すつもりはない』

 私の意図を理解したうえでの、もっとも簡潔な返答だった。
 そのメッセージを目にした途端、頭の中にさまざまなものが駆けめぐった。思い出なのか感情なのか、形も感触もまったく異なるものたちが、嵐のように飛びかい、思考を乱す。
 目的は私?この船を前にして、そんなことを言う人間がいったいどこにいる。船には手を出さない?名前どころか顔さえわからない相手の言うことなど鵜呑みにできるはずがない。

 でも―― もう。
 震える手でペンを取りあげ、千千に乱れる頭で、羊皮紙の表面にインクを飛び散らせた。
 できあがったのは、血で書いたような汚くて醜い手紙だった。

『私は、どうすれば?』

 返事はやはり、機械のように正確な間をおいて返ってきた。

『次の島で船を降りろ。詳細は追って連絡する』

◇◇◇

 それからしばらく、眠れない夜を過ごした。
 一日一日が、気が遠くなるほど長く、不安で、おそろしかった。自分が何をおそれているのか、考えてみることすらおそろしかった。

 これ以上待ちつづけたら、頭がおかしくなってしまう。そう思いはじめたころ、とうとう次の島への上陸日が決まった。

◇◇◇

 上陸を翌朝に控えた日の夜、私は最後の荷詰めをした。
 クローゼットをひっくり返し、最低限の着替えだけをバッグに入れる。それから、万が一の携帯食料と現金。ミホークがくれたナイフは首に掛ける。

 準備をしながら、机の引き出しや戸棚を整理した。
 ベックマンが譲ってくれたインクつぼ、ヤソップがくれたお古のコルク抜き、ルウにわけてもらった缶入りの茶葉。
 それから、シャンクスが買ってくれた青い羽ペン。

 ペン先を走らせると、羊皮紙の上になめらかな青色がそよいだ。海そのままの色をしばらく眺めたあと、きれいな布に大事に包んで、引き出しの奥に戻した。

 荷詰めと整理が終わりかけたころ、どこからかころりと丸い物が転がりでてきた。羅針のついたガラス球―― いつか煙草屋にもらったエターナルポースだ。
 手に取った瞬間、よみがえった言葉があった。

『俺は、“偉大なる航路”を出る』

 すべてを放り出して、元の世界に逃げ帰ろうとしている私。大口を叩いて、無茶を通して、いろいろな人に迷惑をかけながら進んできたすべてを、惜しげもなく投げ捨てて。
 ガラス球を握りしめた。

 ―― ああ、バギーさんのほうがよほど潔かった。

 そして、同じ晩、私は船長室に呼ばれた。

◇◇◇

 ノックして入室すると、彼はいつもとはちがい、窓辺に立っていた。
 夕食が終わり、皆が自室に帰ったあとの遅い時間である。大窓から差しこむ月の光は、海の泡のように清浄だった。
 星を見るように、ぼんやりと窓の外に視線をやっていた彼は、

イチル

 と、私を呼びよせた。

 私は黙って男のそばに行った。彼の表情は、部屋の薄闇に隠されて、よく見えなかった。
 唯一見える口元も、怒っているわけでもなければ、悲しんでいるわけでもなく、何かを言うつもりもなければ、問いただすつもりもないように見えた。

 彼は、いまだかつて見たことのない色を瞳にのせて、ただしずかに私を見下ろしていた。
 もう一度、私の名を呼んだ。

イチル
「シャンクス」

 会話とも呼べない会話は、それだけで終わった。

 かなり長い時間が経ったあと、自室に帰ろうとした私を、彼は最後に一度だけ呼びとめた。
 そして、言った。

イチル、俺が怖いか」

◇◇◇

 その翌日、船は島についた。
 アジトに近いということもあってか、島民たちは海賊たちをまるで英雄のように迎えいれた。

 町のあちこちに掲げられた赤い旗は、この島が物資の補給を請け負うかわりに、“赤髪”の庇護を受ける場所であることを意味している。“赤髪”にかぎらず、こういったことは“偉大なる航路”においては決してめずらしくないことだという。

 普段はそうやすやすと表を出歩けない者たちも、皆そろって陸に上がることを許された。
 だから、ひとりで出かけたいという私の申し出に、反対する者はいなかった。

◇◇◇

 昼間は街を歩きまわり、深夜、宴がたけなわになったころ、私は街を離れた。
 久しぶりの陸ということで、普段は冷静なメンバーまでひどく陽気に歌い騒いでいる。島民入り乱れての大宴会だ。早くとも明日の朝までは、不在を知られる恐れはない。

 私は最低限の荷物だけをつめたバッグを背負い、浜辺に向かった。
 昼間、店で買った発光する貝殻を懐中電灯代わりにして、先を急ぐ。島の地理は昼間の散策でだいたい把握している。
 海岸に近づくにつれ、なつかしい浜の音が聞こえた。

 そして、でこぼこの岩礁の近くまできたとき、何かが急に、私の心を襲った。後頭部を鉄パイプで思いきり殴られたような、いっそ吐き気がするほどの衝撃だった。

 どうして、私はこんなことをしているんだろう。
 足元から、突如ぞっとするほどの罪悪感と恐怖が這いあがってきた。

 どうして、あの声に答えた?
 どうしてあのとき、シャンクスに報告しなかった?
 これは明らかな――

 自分がやろうとしていることの重大さに気付いた途端、強力なモルヒネが切れたように、ガチガチと歯の根が鳴りはじめた。立っているのも難しいくらいの寒気に襲われる。

 今ならまだ間にあう。
 そうだ、まだ間に合う!

 岩礁に背を向け、町に向かって走り出そうとしたときだった。

「まァそう急ぐなよ」

 その声が耳に届いたときにはもう、私の足は案山子のように意固地に砂浜に突き刺さって、一歩も動けなくなっていた。
 まるでように、身体の自由がきかない。

 空の月まで隠してしまいそうな長身が、岩礁の陰から現れた。

「心配しなくとも凍らせたりはしねェさ。今となっちゃァ、大事な『協力者』だからな」

 青キジは、あの何を考えているかわからない目で、私を見下ろした。

「アレは持ってきたか?」

 私は青キジの胸のボタンを眺めながら、首を横に振った。

「いいえ、持ち出せませんでした。私のものではないので」

 バッグは軽い。重いものはひとつも入っていない。
 私の中に残った人としての誇りのかけらが、せめてそれだけは、と『アレ』を持ちだすことを許さなかったのだ。

「『日誌』は?」
「すみません、そちらのほうも」

 訊ねておきながら、男は「ふうん」と興味薄げに肩をすくめた。

「まァいい。着いてこい」

 青キジはつま先をもと来た方向に向けた。

「来ねェと思ってたんだがな」

 男はひとりごとのようにつぶやいた。たいした足音も立てずに、浜辺を立ち去っていく。
 ―― あとから思えば、私はこのとき、すべてのタイミングを逃したのだ。

 鉛よりもはるかに重い足を砂浜からひきちぎるようにして、一歩踏みだした。
 そして、一歩。もう一歩。

 月ものぼらない夜の底。
 私は、世界でいちばん大切なものを、裏切った。


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