目を覚ましていちばん先に見えたものは、真っ白な天井だった。



chapter7 SLEEPING BEAST

84 セイレーンの呼び声(Ⅱ)


「ご気分はいかがですか」

 同じく嫌になるほど真っ白な医療服を着た女が、ほとんど唇を動かさず、昨日とすんぶん違わない声で問いかけてくる。
 こちらを見てはいるものの視線は通っていない。これも昨日と同じ。じつは精巧なアンドロイドなのだと告白されても驚きはしない。

 質問に対して、大丈夫だ、というふうに首を振ってみせたが、実際のところ、私の返事がどうであっても女の仕事にはさして関係がないようだった。

 女は手元の端末を操作し、簡単なメディカルチェックをはじめた。
 血圧測定にはじまり、身体計測、心電図の確認など。三日前、ここに来てから毎朝欠かさず行われている日課のようなものだった。

 血を採られているあいだ、私はぼんやり部屋の中を眺めた。

 窓のない部屋だ。
 四方はサイコロのように真四角に閉ざされ、何の装飾品もない。置かれているのは今寝ているベッドと、小さな白いテーブルだけ。正面の壁と背後の壁にひとつずつドアがあって、正面が出入り口、背後がトイレになっている。正面には常に外側から鍵がかけられていて、通れるのは医療スタッフと食事係の人間だけだった。

 ここに来たのはおよそ三日前。
 真夜中の浜辺で青キジにいざなわれた私は、そのまま島の裏に停泊していた船に乗せられ、海を渡った。

 船に乗っていた時間はたった二日ほどだったが、『ここ』は元いたところとはひどく隔たった場所のように思える。
 場に満ちる空気がひどく、異質だ。

「今日の検査は終了です」

 女は三回目になるセリフを口にして、ベッドのそばから立ちあがった。いつもどおりそのまま帰るのかと思いきや、女はその場で立ったままいつもとは違うひと言をつけ加えた。

「検査に問題がなければ、今日の夕刻、ドクター・メンゲレスが面会されます」

 そして彼女はくるりと背を向け、部屋を立ち去っていった。

◇◇◇

 早い夕食を食べて一時間ほどしたころ、部屋のドアが開いた。
 入ってきたのは医療服の女性スタッフだった。いつもとは違って三人まで増えた彼女たちはベッドのそばまでやって来ると、私の目の前に衣類を置いてうながした。

「こちらに着替えてください」

 与えられたのは、替えの検査衣ではなく、見覚えのある夏用のブラウスとスカートの組み合わせだった。
 船を出るときに荷物に入れたわずかな着替えのひとつ―― この世界に来たときに身につけていた服だった。

 素直にうなずくと、ベッドの周りにカーテンが引かれた。
 初日に他の着替えとともに回収されたブラウスとスカートは、徹底的に洗われたらしく、新品のようにきれいになっていた。
 傷んでしまうのが怖くて、ドルテン先生のところで着替えて以来、荷物のいちばん底にしまいっぱなしだったそれ。洗剤のにおいはおろか、繊維のにおいさえしなくなった袖に、腕を通す。

 身なりを整えて、カーテンから顔を出した。

「終わりました」

 白装束たちが無感動にうなずき、姿見を指し示す。
 白いブラウスと紺色のスカート。青白い顔の女が力なくこちらを見かえす。
 このにこれほど似合う装いもない。

 荷物をまとめると、スタッフたちは部屋から私を連れだした。
 廊下もまた、白一色に統一され、隅々まで完璧に清潔だった。病院とちがうのは、私たちのほかには人が誰もいないことだろうか。

 長い通路をしばらく歩くと、白い建物は唐突に終わりを迎えた。
 建物の大きさのわりには、あっけないほど簡素なドアがある。スタッフに続いて通りぬけた途端、びゅう、と強い風が頬に吹きつけた。

 おもわず頭上を見上げた。
 天井まで五十メートルはあろうかという巨大な吹き抜け。天窓からわずかにのぞくのは、空を区切るような長大な塀と尖塔である。

 大伽藍―― いや、城塞か。
 棟つづきの巨大な建造物は、時代を経た重厚さと排他的な厳粛さによって、踏みいる人間を片端から値踏みし、威圧し、圧迫した。

 息苦しい。
 立ち止まりそうになった私を急かすように、同行者たちは歩調を速めた。

 ツカツカと事務的に進む白い集団は、このいかめしい空間においては異物そのものだった。位相のずれた場所を歩いているような居心地の悪さが、手足を重くする。

 巨大なホールの中央部に差しかかったとき、前方から別の集団が歩いてくるのが見えた。
 まず目に入ったのは白い軍服を着た軍人たちだった。
 しかし彼らは豪奢で威風堂々とした装いとは裏腹に、どこかビクビクとした様子で常に背後に意識を送っていた。

 そのわけはすぐにわかった。軍人たちに先触れをさせるように、すこし遅れて人影が姿を現す。

 非常に大柄な男だった。
 影がそのまま人の形をとったような、真っ黒いスーツと長いコートのシルエット。オールバックになでつけた髪と不遜に咥えられた葉巻。
 そして何より特徴的なのは、顔の中央を真一文字に走る傷跡と、左手の代わりにとりつけられた黄金のフックだった。

 民間人でないことはもちろん、軍人ですらないということは、見ただけですぐにわかった。同じような空気を放つ人間を、私はもう片手では足りないくらい知っている。
 荒々しい海のにおいが一歩ずつ近づいてくる。

「死人だな」

 自分以外の存在など目に入らないかのように歩きつづけていた男が、すれ違いざまに吐き捨てた。
 それが自分に宛てられたものだと気付いたときには、男の背中はもう、ずっと向こうに遠ざかっていた。

◇◇◇

 ホールを通りぬけた先には、青キジが立っていた。
 私を送ってきた白装束たちは、男の姿を目に留めるや、一礼して足早に立ちさっていった。
 青キジに会うのはあの夜の浜辺以来だったが、彼は私を見ても何も言わず、黙ったまま背を向けた。
 その背に向かって、私はつぶやいた。

「私、そんなにひどい顔をしてますか」
「すくなくとも、あの博士のところのいたときのアンタは生きていた」

 色のない声で言って、青キジはそのまま歩きだした。

 たどりついた先は三フロアをぶちぬいてつくったような、巨大な研究室だった。
 壁にはたくさんのパイプやチューブが這い、その下には多種多様の生物が入った小水槽が設置されている。

 そして中央には、大きな円形のパネルがべたりと大面積を占有していた。
 ドクター・メンゲレスの研究所だ、と、青キジは切り割った氷のような簡潔さで言った。

「アンタの気がかりは現実のものにならない。さすがの“赤髪”も『ここ』には来られない。ヤツが海賊であるかぎり、それは不可能だ」

 青キジがそれに言及したのははじめてのことだった。船に乗っている途中も到着してからも、『ここ』がどこなのかという説明はひと言もなかった。

「シャンクスが来られない場所?そんなところが――
「おやおやおやァ」

 さえぎったのは別の声だった。
 声の方向を見ると、男がふたり立っていた。どちらもひどく長身なのに、声をかけられるまで、そこにいることにすらわからなかった。

「“四皇”を気軽に呼びすてるたァ、怖いお嬢さんだことォ」

 私の視線を受けとめて、派手な黄色のスーツの男が口笛を吹いた。
 肩に羽織っているのはさっきの海兵たちと同じ白コートだが、青キジの姿を見てもへりくだる様子はない。青キジと同じか、それ以上の立場の人間だ。

「ほっほっ、わっしらの顔を見ても顔色ひとつ変えん。道端のオジサンを見る目と同じじゃないのよォ、それは」

 心を読んだように黄スーツの男はまた飄々と笑った。上の立場の人間にしては気安い雰囲気で語りかけてくる男。しかし、こちらを見通すサングラスの奥の目はまったく笑っていないのだ。
 青キジとはまたすこし違ったそれに、私はおもわずごくりと唾を飲みこんだ。

「話通りだねェ。見た目はただのお嬢ちゃん、でも中身はどうかな。まるで『日誌』みたいだねェ、アンタ」
「余計な口は閉じんかい、“黄猿”」

 今まで黙っていたもうひとりの男が、うなるように言った。

「どんな姿をしていようが、どんな中身だろうが、“赤髪”に飼われちょったんじゃ。わしらにとってはそれだけじゃろう」
「相変わらず石頭だねェ、キミ」

 赤いスーツの男が、“黄猿”と呼ばれた男をにらんだとき、チン、とエレベーターのような音がして、奥にあった扉が開いた。
 書類を山ほど抱えて入ってきたのは白衣の老人だった。

「御三方、そろそろよろしいですかナ。何しろ刻限が迫っておりまして」

 自分の二倍以上は上背のある男たちを前にして、臆する様子もない。パンパンと手を打って場を収めたあと、老人はおもむろに手元のボタンを押した。
 床から円柱がせり上がってくる。直径三十センチほどの円形のてっぺん部分には、正方形のガラスケースが設置されていた。

「ふうむ、それにしても残念きわまりないですナ」

 老人の目がガラスケースの中身に向く。その視線を追って、私は息をのんだ。
 ガラスケースの中に安置されていたのは、あの白い宝石箱だった。

「ふ、船にあるはずなのに……!」
「そのとおり。もうひとつは現在“赤髪”の所有下にありますのでナ、我々といえどもそう簡単には手に入れられないというわけです、ハイ。アナタが言われたとおりに持って出てきていたら、ふたつめのオリジナルが手に入ったというのに。至極残念」

 老人が何を言っているのか、即座には理解できなかった。

 ふたつめ、と言った。
 まさか、そこにあるのは、私の――

 身を乗りだして問いただす前に、老人はくるりと機敏にこちらに向きなおった。自らの胸に手をあて、語尾の訛ったしゃべり方で自己紹介をしてみせる。

「ワタシはメンゲレス・ハニカー。海洋考古学を研究しておりますでナ」
「海洋考古学……?」
「そのとおり」

 ドクター・メンゲレスは歩いていって、またボタンを操作した。壁のスクリーンに何かが投影される。壁自体が古い文献の一ページになってしまったかのように、隙間なくびっしりと並ぶ文字。
 アルファベットでもなければ、そのほかのどんな文字ともちがうそれを、私は、知っていた。

「ナルヴァ、という言葉をご存知ですかナ。異界より来たりし旅人よ」


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