第一章七節、

 主は言われた。
 我が民よ、我が名を讃えよ。
 さすれば、とこしえなる地と海とを与えん。



chapter7 SLEEPING BEAST

85 セイレーンの呼び声(Ⅲ)


「ナルヴァ、という言葉をご存知ですかナ」

 禁忌であるはずのそれをいともたやすく口にして、白衣の老人は私の顔をのぞきこんだ。
 すこし離れたところから、三人の男がこちらを見つめている。私という個人への関心など欠片も映さない三対の目は、だがしかし、私の手足に鎖のようにからみつき、細大漏らさず監視している。

「ナルヴァド、という国があったと、聞いたことはあります」
「ほかには?」
「それだけです」

 ドクター・メンゲレスは、顎にシワだらけの手を当てて、「ふむ」とひとり納得した。

「では、“箱”について知っていることは?」
「手紙をやりとりするためのものだと」
「手紙ですとナ!」

 老科学者は目を丸くし、おかしそうに手を打った。

「ちがうんですか?」
「いいやいいや、そのとおり。まさしく、そのとおり」

 私の答えの何が興に入ったのか、ドクター・メンゲレスは好々爺のように頬をほころばせた。

「じつに本質的ですナ。しかし、それだけではないのもまた事実でして」

 彼は歩いていって、ボタンをふたたび操作した。
 さっきとは別の場所から円柱がせり上がってくる。周囲には、コードやチューブがイカの足のようにだらりとのびている。
 それらが収束していく円柱の頂上部には―― もうひとつの、“箱”があった。

「これは“箱”の試作品プロトタイプ。オリジナルを元にワタシが再現しましてナ。本来、“箱”は呼応するふたつの双子箱の間でしかやりとりできないことになっておるわけでしてナ、今回アナタと連絡を取るためにわざわざこちらを用意したというわけです、ハイ」

 ドクター・メンゲレスは、重病人のようにチューブやコードでつながれた白い“箱”を指さして、誇らしげに胸を張った。

「私と連絡を取るため?それだったらそこにあるオリジナルの箱を使えば済むことじゃ……」
「そうしたいのはやまやまでしたがナ!そちらにある“箱”は赤髪所有の“箱”と対応する双子箱ではないのですよ、異界のお方。オリジナルはオリジナルでも、マラクーラの沖合からサルベージされたまったく別のものになりましてナ」

 ドクター・メンゲレスはぶつぶつと無念そうにつぶやいた。

「つまり“箱”は、あらかじめ定められたふたつの“箱”の間でしかやりとりできない、ということ……?」
「左様」

 耳ざとく反応したドクター・メンゲレスをよそに、私は顎に手をやった。
 で、あれば、だ。
 シャンクスの持つ“箱”の双子箱は、私の“箱”で間違いない。そしてレプリカを作らなければシャンクスの“箱”に手紙を送れなかったということは、彼らはまだ私の“箱”を手に入れてはいないということだ。
 ほっとしつつも、どこか不安な気持ちになり、足元に視線を落とした。

 それにしても、どうやって?
 彼らはどうやって私が別の世界から来たことを知ったのか。どうして今になって私が帰る手伝いをしてくれるというのか。
 目的は。理由は。動機は。
 訊きたいことはたくさんある。しかし、どんなことなら訊いてものか、わからなかった。

 脳裏に過ぎるのは、夕焼けのような赤。

 爪を手のひらに折り込むようにして、拳を握る。
 いちばん大切なものを切り捨ててまで、ここまで来たのだ。下手な詮索で帰り道を失ってしまうのだけは絶対にごめんだった。
 すべての疑問に蓋をして、私は今の自分の身に直接関わることだけを口にした。

「“箱”と私の帰り道はどう関係しているんですか」
「ほほ、ご心配めされるナ」

 ドクター・メンゲレスはその言葉を待っていたとばかりに、手元のデバイスを操作した。ガガ、と低い音が響いて、研究室の中央にあったパネルが開いていく。

 ちゃぷん、と円形の水面が揺れる。
 パネルの下に隠れていたのは、ひどく深い埋込水槽だった。浅く見積もって水深十メートル以上、いや、実際にはもっとあるかもしれない。

 まさか、と目を見開いた私に、ドクター・メンゲレスは両手を広げた。

「言ったでしょう、さっきの“箱”は試作品プロトタイプだと。もうおわかりですかナ。“箱”がそのままアナタの帰り道なのですよ」

 陶器のように白い水槽の内側には、清浄な水が満ちている。
 ちゃぷん、と揺れる水面。

「まさか、これ自体が“箱”……?」
「左様。当然のことながら、手にのる大きさの“箱”に人間は入れませんからナ」

 博士は水槽の周囲を歩きまわりながら説明をはじめた。

「“箱”の試作品自体はすでに何年も前に完成しておりましたがナ、肝心の資料がほとんど残っていないせいで、ここ数年はなかなか次のステップに進めずにいたのですよ。あらゆる外的条件を整えたうえでも、メモのような軽くて小さなものを短距離移動させるのが精一杯。そんなとき、風のたよりにアナタの噂を耳にしましてナ。ピンと来たわけです。ハイ」

 濁ったグレイの瞳がこちらを見る。

「アナタはまちがいなく“箱”の力によってこちらに来ました。ですからワタシは、アナタが最初に現れた海域のすべてを精査し、記録し、その情報を試作品に組みこんだ……ああ、そうです。ワタシはついに成功したのです!あの“ナウェの箱”を再現することに!あのベガパンクにすら成せなかったことを、このワタシが!」

 ドクター・メンゲレスは恍惚とした表情で天をあおいでいたが、私を見てすこし興奮を収めた。

「私がアナタをここへ呼んだ理由はひとつですナ。アナタは私が知りうる者のなかで、もっとも長距離を飛んだ者。千五百キロメートルを移動させる実験は終了しておりますでナ、次はさらなる段階へ――
「人を移動させる実験?どうしてそんなこと……」

 急に、そんな疑問が口をついて出た。話の腰を折られ少々不機嫌になりながらも、ドクター・メンゲレスはすぐそばにあったデスクの引き出しから、親指の爪ほどの石を取りだした。

「アナタは海楼石をご存知ですかナ」

 海楼石。名前だけは聞いたことがある。船内でクルーたちの会話に耳をかたむけていると時折聞こえてきた単語だ。

「たしか、能力者に力を失わせる石だって」
「本質的ではありませんナ。海の力を宿す石、というのが正確なところでして。能力者が一時的に力を失うのは海の力による副次的な作用にすぎません。海楼石は現在の政府においては最重要資源ということになっております―― が、しかし」

 ドクター・メンゲレスは手からぽとりと海楼石を落とした。円形をした石がころころと床を転がっていく。

「こんなものは、屑石にすぎないのですよ。あの、ナルヴァドの“ナウェの石”に比べれば」

 海楼石を眺める老人の視線はぞっとするほど冷めたものだった。

「ナルヴァド人というのは非常に高度な文明を築いた民族でしてナ、その技術のほとんどは現代においても解明されておりません。そして、それら古代ナルヴァドの技術のなかでももっとも高度かつ謎につつまれたものが、“ナウェの石”。そしてそれによって作られた代表的なものこそが“ナウェの箱”なのです」
「ナウェ、の箱」

 さきほども出てきた言葉に、私はおもわずオウム返しをした。

「ナウェの石。古代ナルヴァドにて生産された特殊な素材のことですナ。まあ、石というのはあくまでナルヴァド人の言い方であって、私の研究では、この星に存在するあらゆる物質とは一線を画する物質であるという結果が―― っと失礼、この話をはじめると三日くらいは止まらなくなってしまいますでナ」

 とにかく、とドクター・メンゲレスは円柱の最上部に鎮座する白い箱を指さした。

「今となってはこんな小さなものしか残っておりませんがナ、ナルヴァドでは手紙よりもはるかに大きな物も移動させておったのですよ」
「手紙よりもはるかに大きな物?」
「考えたことはありませんかナ。もしも―― 世界中のあらゆる海に、なんでも、ひとときに移動させることができるようになったなら、と」

 どくん、と嫌な鼓動が走った。
 これはきっと、話だ。
 私の心中を読みとったように、老科学者は笑いというには不穏な、あやしげなかたちに頬をゆがめた。

「食べ物、道具、建材、船。そして―― 人と兵器」
「まさか、“箱”を戦争に?」

 老いた科学者はほほえむばかりで否定も肯定もしなかった。その顔が分離し、混ざりあって、だんだんと人のものには見えなくなってくる。

 どうして。なんで。
 だって、あれは、ただのポストで。

「そんなことのために、私をここに……」
「そんなこと?」

 ドクター・メンゲレスはぴくりと眉を動かした。

「ベガパンクが海楼石の応用研究をはじめて以降、誰も彼もが口を開けば海楼石、海楼石とそればかり。いいですかナ。能力者を抑えこんだり、凪の帯カーム・ベルトを越えたりと、海楼石は一見優れたもののように見えますが、実際のところは海の性質を宿した石という、ただそれだけのもの。ナウェの石はまったくちがう。まったくちがうのですよ。なぜなら、ナウェの石は――
「喋りすぎじゃ。それ以上聞かせる必要はない」

 低い声が鉄斧のように会話を断ちきった。ドクター・メンゲレスをひとにらみで黙らせて、赤いスーツの男は私を傲岸に見下ろした。

「何じゃァ?なんであれ、お前は元いたところへ戻れる。それの何が不満なんじゃ」

 声を荒げているわけでもないのに、空気がビリビリと震えた。

「どこぞの場所から勝手に入りこんできた不法滞在者。助けてやる義理どころか、生かしておく意味すらない。それを、実験がてらではあるが帰してやると言っちょる」

 赤い男がうなった。
 あとほんのすこし距離が近かったら、立っていることさえむずかしかっただろう。
 ―― 怖い。
 私の心臓を握りつぶし、呼吸さえままならなくさせているのは、純粋な力の差だけではない。

 この男は、この世界そのもの。
 世界のルールが、私という異物を押しつぶそうとしている。

 怖い。
 怖い。

 怖い。

 この男にとって私は、塵にも等しい存在だ。だが、たとえそうであったとしても、この男は、彼らは、やるのだ。
 それこそ塵ひとつ残さず、徹底的に。
 それが“悪”であるかぎり―― 相容れない『何か』であるかぎり。

「お前は何もわかっとりやせん。人のもんにすがるだけの盗人はさっさと出ていけ。儂らがお前にまがりなりともを見出しちょるうちに」

 燃えたぎるマグマの声が、頭の上から轟落ちてくる。

「背負わん者は口を開くな」

 うつむいたまま、もう上を向くことすらできなかった。
 一言一句、そのとおりだった。

 私は目の前の現実に耐えきれず、ここから出ていくことを選んだ。責任を放棄し、自分の選んだ道ですら放り投げて離脱しようとしている。
 そんな人間に、何の権利があるというのだろう。
 今の私には、世界の現状を憂うことどころか、隣人を気遣うことすら、おこがましい。

 黙りこんだ私を、ドクター・メンゲレスが機嫌良くうながした。

「ご心配めなさるナ。座標指定も完璧。なにせ、このワタシがやりましたのでナ」

 背を押され、巨大な水槽の縁に立った。
 あと半歩踏みだせば、水の中に真っ逆さま。綱渡りのような不安定なその場所に、私はふといつかの心象風景を思い出した。

 世界と世界と境目にある仄暗い場所。どちらにも属さず、踏みはずせばどこに落ちるかわからない。
 私はずっとそんな場所を歩いてきた。

 水面が渦を巻きはじめる。海のように、波立ち揺れる。
 ―― 灰色の境界線上では誰も幸せになれない。

 息を吸いこむ直前、青キジと目があった。私は声を出さずに口だけを動かした。

「         」

 青キジはわずかに目を見開き、私にだけ聞こえるようにこう返した。
 ―― それを決めるのは俺たちじゃない。

 ばしゃん。断ちきるような水音と、身体を打つ水面の感触を最後に、世界から音が消えた。
 水底のさらに下に向かって、落ちていく。あたたかな水塊に受けとめられ、羊水の中の胎児のように身体を丸める。
 深いところで、水が渦を巻く音がした。

 これでやっと帰れる。この恐ろしい世界から。
 ちゃぷん。溶けていく頭で、ぼんやりと考えた。

 恐ろしい世界。
 ―― じゃあ、あっちはそうじゃなかったのかな。

 遠くで、サイレンが聞こえる。


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