いちばん最初に思い出したのは、あたたかな父と母の手だ。

 夕方、残照に染まった誰もいない庭。地平線のあたりはすこしずつ夜色にせり上がってきている。どこからともなく流れてくる夕飯の匂いに食器の音。あたたかい色を帯びた影が近寄ってくる。

『早くおいで、イチル。ご飯が冷めちゃうよ』



chapter7 SLEEPING BEAST

86 還らずの海―残照―


 まずは、父と母のこと。

 父はメガネをかけた小柄なサラリーマンだった。都内の電機メーカーで働いていて、いつもちょっとくたびれたブルーグレーの背広を着ていた。見た目のとおり優しい性格で、仕事から帰ったあともすすんで家事をするような人だった。

 母は快活な高校教諭。女性にしては背が高く、どこに行ってもいつも目立っていた。物怖じせず、わけへだてのない性格だったので、生徒からはもちろん教師間でも人気があったらしい。

 一見、正反対のふたりがどこでどう出会ったのか、今となってはよくわからない。しかし父は母のことを深く尊敬し、母は父のことを深く愛していた。

 母は何かにつけ、
イチルちゃんは幸せな子ね。こんなに素敵なお父さんはそうそういないわ」
 とうっとり顔をしたし、父もまた、
イチルは幸せだね。こんなに素敵なお母さんがいて」
 というのが口癖だった。

 都会のマンションの一室を借りて、父母と子どもの三人暮らし。裕福とはいえないまでも、ふたりともギャンブルやお酒とは縁遠い生活を送っていたから、お金や物に困ることはなかった。

 休みの日には遊園地。誕生日とクリスマスには、プレゼント。ひな祭り、七五三、豆まき。
 共働きでどんなに忙しくても、彼らは絶対に私にさみしい思いをさせなかった。

 幸せを絵に描いたような家庭。当時の私が、今の私と同じくらい上手に言葉を話せたら、きっとそんなふうに表現したに違いない。

 ただ、もしもそんな家族にもうひとつだけ願いごとがあるとしたら、それは母のとあるひと言に集約された。
 いつも元気な彼女が悲しそうな顔をするのは、その話のときだけだったから。

イチルちゃん。弟や妹がいなくて寂しい?』

 幼い私はいつだって大きく首を横に振った。
 ぜんぜんさみしくないよ。
 本当に、ちっとも寂しくなんてなかった。

 父と母。このふたりが世界のすべてで、このふたりさえいれば、私は完璧に幸せだったのだ。

◇◇◇

 私がもうすぐ幼稚園を卒業するというとき、父と母は話しあって、母の地元に移り住むことを決めた。
 母の生まれは海の見える小さな街。母は私と同じく一人娘で、故郷にひとり残してきた祖母のことをずっと気にしていたのだ。
 父の通勤の負担を思い、引越を先延ばしにしてきた母だったが、当の父はまるで何でもないことのようにこう言った。

『君さえ良いならぜひそうしよう。君の街はとても綺麗な場所だ。イチルだってきっと喜ぶさ』

 そうして来週にも引っ越そうかという週末、都会を去る最後の思い出として、私たちはいつも行く遊園地に遊びに行った。
 ジェットコースターにメリーゴーランド。ティーカップにお化け屋敷。
 今から振りかえれば、テーマパークとはとても呼べない、寂れて遊園地だったのだが、そんなことは当時の私にはどうでもよかった。

 お父さんとお母さん。ふたりさえいれば、私はやっぱり完璧に幸せだったのだ。

 いつしか日は西に落ち、閉園の鐘が鳴った。
 門を出て、歩いて駅まで戻る途中、ふたりは私が迷子にならないようにずっと手を繋いでくれていた。

 母が顔を覗きこんでくる。

イチルちゃん、今日は楽しかった?」
「うん!」

 それは良かった、と父が笑う。

「また来れる?」
「そうだね。少し遠くなっちゃうけど、また三人で来ようね」

 オレンジ色に染まる父の顔。眼鏡が光ってちょっとまぶしい。がたんごとんと遠くで電車の音がする。

 駅が見えてきたとき、後ろで突如轟くようなエンジンの音が聞こえた。
 咄嗟に振り向いた両親は、ほんのわずかに体を硬直させてから、互いに目を合わせた。まるではじめから、そうすると決めていたかのように。

 一瞬のことだった。
 手を振りほどかれ、どん、と強い力で突き飛ばされる。

 最後に見えたのは、真っ赤な夕焼け。
 どこか遠くにサイレンの音が聞こえた。

◇◇◇

 不幸な事故だった。
 ―― そう言って、涙を流せていたうちは、まだ本当の意味では不幸ではなかったのかもしれない。

 祖母が断片的に語り、しかし当時の私には理解できなかったその“つづき”を、私はもう思い出せる。

 あのとき、車に乗っていたのは若い男性のグループだった。
 ハンドル操作をあやまり、私たち家族に向かって突っこんできた彼らは、その直前までバーにいたという。
 飲酒運転。車に同乗していた青年のひとりは、法廷で泣きながら謝罪した。
 自分は車に乗るのに反対した。しかし、ドライバーの青年から乗車を強要されたのだと。
 他の同乗者への取調べの結果、青年の主張は認められ、責任の多くはそのとき運転していた青年に求められることになった。

 そしてその裁判の帰り、祖母は偶然、聞いた。
 聞いてしまった。
 法廷であれほど泣いていた青年が、笑ってこう言うのを。

「これでいいんだよね」

 青年のそばには、彼の父親が立っていた。父親もまた先程まで流していた涙の痕跡などひとかけらも見せず、冷淡に言い放った。

「次からはよく気をつけろ。ずいぶんと無駄金を使った」
「わかってるって。父さんが親で良かったよ」

 何かで後ろから思いきり殴られたような気がした、と祖母は言った。

 証言した青年は、事故のあった地域の有力者の子息だった。わずかな会話ではあったが、事件の裏で何が起こったかを想像するには十分だった。
 醜聞をおそれた父親が、手をまわし、息子の罪を軽くした―― 祖母は警察に駆けこみ、そのことを必死を訴えたが、証拠がないとして取りあってはもらえなかった。
 当然のことではあった。根回しに使った金とやらが、いったいどこに流れたのかはわざわざ口にするまでもないことだろう。

 青年とそのグループは、トカゲの尻尾切りに遭ったドライバーをのぞき、全員があっさりと社会に復帰した。

 祖母はそれから一度も海の街を出ることなく、私を育て、他界した。

◇◇◇

 世の中には悪い人間がたくさんいる。人を殺しておきながら、のうのうと生きている人間が。

 ゆらりゆらりと水泡が眼の前を泳いでいく。

 語るべき時が来たら、きっと『正しいかたち』で伝えるつもりだったのだろう。

 不幸な事故。相手は反省していた。
 だから、誰も恨まなくていい。
 ―― そんなふうに。

 祖母はいつもほほえんでいた。祖母はいつも優しかった。祖母は正しい人だった。
 無垢な子どもには聞かせるべきではないと知りつつ、その反面、聞いたとて理解できない幼さに甘え、彼女は一度だけ、行き場のない思いを吐露した。
 幼い孫にそうするしかないほど、祖母は孤独だったのだ。

 ぬるく薄暗い水のなか、目を閉じる。

 シャンクスはあの青年とは違う。
 性格も、度量も、仲間たちとの関係も、何もかもが違う。
 しかし、違っていてほしいと願っていたところだけが―― 違わなかった。

 たとえば数週間前、私とウィックを攫った海賊は“赤髪”の怒りを買ったゆえに殺された。だが、彼らがあそこにいた、そもそもの元凶はなんだったのだろう。

『あの赤い、髪の――

 私を助けてくれたあのとき、あの瞬間だけを切りとれば、シャンクスのしたことは、な行為のように見える。

 殺さなければ殺される。守るためなら仕方ない。
 だが、全体を見れば、本当にそう?

 あの青年の親子と同じように、彼らはただ過去にしでかした不始末の尻ぬぐいをしただけ―― それが事実でないと、いったい誰に証明できるだろう。

 シャンクスは、自分が生き残るために敵を殺してきた。
 私たちを守るためにあの海賊たちを殺した。

 生き残るため。
 仲間を守るため。

 だが、そんな『理由』が何の免罪符になる。
 同じじゃないか。

 青年の親子が仲間のひとりに罪を被せたのは、非難を避け、社会で生き残るため。
 金によって真実を歪めたのは、家族を守るため。

 彼らとって、私たちは『過去にしでかした不始末』であると同時に、自分たちの安寧をおびやかす『敵』でもあった。『敵』は排除せねばならない。
 生き残るためなら、大事なものを守るためなら、

 そうだ、これは暴論だ。不条理で、理不尽で、荒唐無稽な話だ。
 だからこの話の肝はこうだ。

 何かと何かがぶつかったとき、その結末は、どちらがより大きなルール違反をしただとか、どちらがより痛い思いをしたかだとか、どちらがより善良だとか、そんなことにはいっさい関係がない。

 強者は生き残る。弱者は死ぬ。
 世界のルールはたったそれだけ。

 あのとき私たちは赤髪の仲間であるという一点で、あの海賊たちよりも“力”があった。
 私の両親を殺した青年は、有力者の息子という一点で、私たちよりも“力”があった。

 攫われるのも殺されるのも、そうされるほうが悪い。

 “力”があれば、死ななくて済むのにな。
 シャンクスに殺されたあの海賊たちだって生きていればきっとそう言っただろう。

 私は―― 私たちはいつだって弱者だった。強者の論理に食いつぶされる、弱者。
 だから、私はシャンクスの存在を認めることができない。

 認めれば、裏切ることになる。記憶を保っておけないほどに、怒って、悲しみぬいてきた自分の人生を、裏切ることになる。
 善だとか悪だとか、そんなことを語るつもりはない。私ごときに人の善悪を計る権利はない。

 私はただ、許せないのだ。

 嫌悪しているわけじゃない。憎むだなんてとんでもない。
 名前を呼んでくれることが嬉しい。冒険の話をしてくれることが嬉しい。触れられることが嬉しい。今だってそれは変わらない。

 しかし、そんな感情とは別に、もっと根本的な何か―― いうなれば私という存在自体が、彼を拒んでいる。
 彼の生き方と彼の人生を拒んでいる。

 誰にでも起こりうることなのだと、もっと悲しい目に遭った人だっているんだと、そんなふうに自分の身に起こった出来事をして考えることはできるかもしれない。
 だが、世界から見た大小と、私から見た大小はそもそも無関係だ。

 私にとっては、結局、私から見たものだけがすべてなのだ。
 だから、私は、私の人生を裏切れない。裏切れば、私という人間はボロボロと崩れてなくなってしまう。

 彼の生き方を認めることは、私の生き方を否定すること。
 彼の人生を認めることは、私の人生を否定すること。
 彼の存在を認めることは、私の存在を否定すること。
 ―― でも、私は、シャンクスを否定したくない。

 だから、帰らなければならないのだ。元の世界に。

◇◇◇

 ふわりと意識が浮上する。
 羊水のようにあたたかい水塊が身体をつつんでいる。

 慣れ親しんだ、おだやかな海の気配がする。

 気がつけば、すぐそばにあの光があった。なつかしい海のにおいはそこから流れてきているようだった。
 もうすぐだ。もうすぐあの海に帰れる。

 強い水流が身体を押しながし、記憶を押しながす。

 ええっと、さっきまで何を考えていたんだっけな。

 ごぽり。
 あたたかな水に身をまかせ、ふたたび深い眠りについた。

 


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