たくさんの島に行った。
たくさんの人に会った。
たくさん追いかけられて、たくさん逃げた。
たくさん、冒険をした。
ほかにも大事なことがあったような気がするけど……まあ、いいや。
本当に楽しかった。
だからもう、これでいい。
ぜんぶ放りだして、私は元の世界に帰る。
苦しくて辛いことを直視しつづけられるほど、私は強くなかった。
自由に生きることは、窮屈に生きることよりもずっとむずかしい。
それがわかっただけでも儲けものじゃないか。
だからこれでいい。
―― これでいいの?
これでいいんだよ。
ああ、でも。
最後にもう一度だけ―― 。
ちらりと赤い髪が脳裏をよぎった瞬間、強い水流が全身を揺さぶった。あたたかな場所は遠ざかり、水がねっとりとうねりはじめる。
息が苦しい。
私は目をつむったまま、水面の光に向かって手をのばした。
87 Never Ending "Siren"
ばしゃん、という音とともに顔が水面に出る。が、周囲の確認をする余裕はなかった。
思ったより流れが速い。
水を吸ったスカートが、足に絡みついてくる。浮きあがる際にすこし水を飲んでしまった。
私は必死に水面から手を振った。誰か、と助けを呼ぶも、声はごぽごぽと喉の奥で唸るばかりで、返事らしき返事はかえってこない。
いったいどこに流れついた?湾の外?
最悪のパターンが思い浮かんで背筋が冷えた。いくらおだやかな美浜の海でも、離岸流に捕まれば命はない。
私はさらに激しく手を振った。
―― 助けて。
身体にまとわりついた水に振動が走った。人の声が聞こえたかと思うと、のばしていた腕がつかまれる。
そのまま思いきり、引きっぱりあげられた。
桟橋のようなところに這いつくばって、激しく咳きこんだ。朦朧とする視界のなかで、ぽたりぽたりと髪から垂れおちる水滴だけがやけにはっきりと見える。
―― 助かった。
這いつくばったまま呼吸を整える。男性のものと思しき靴と足首が三対、私を取りかこむようにして並んでいた。
「ありがとう、ございます」
久々の母国語に、声が変な感じにひっくり返った。日本語を使うのは本当に久しぶりだ。
立ち上がろうとするが、身体がふらついてなかなかうまく立ち上がれない。申し訳なさと恥ずかしさから、助けてくれた男性たちに向かって苦笑した。
「すみません。ちょっと、気が、動転していて」
ところが、男たちは私が思ったような反応を返さなかった。互いに顔を見合わせ、何ごとかを話し合っている。弱った私に手を貸す様子もない。
「あの、すみません」
奇妙に思って顔を上げた瞬間、どん、と腹部に衝撃がきた。思ったよりも強く跳ねとばされた私は、桟橋を転がって、そのままもう一度海に落ちた。
「助けてっ、助けっ……!」
予想外のことに、水中で激しくもがく。息を吸おうと口を開くと、泥のにおいのする水が気管に入りこんできた。
息が苦しい。息ができない。
意識がどんどん遠くなる。
冷たい死の予感に、足をとられそうになったとき、思いきり腕をつかまれた。
先ほどと同じく、ひどく乱暴に引き上げられる。桟橋にびしゃりと私の身体を叩きつけたあと、男たちはさもおかしそうな声で笑った。
「ほらな、死体じゃなかっただろ」
陸に上がった魚のように息絶え絶えの状態で、桟橋に横たわる私を、男たちのつま先がつつく。
ああ。
ああ、日本語じゃない!
「死にかけてるけど、売れるか?」
「途中で死んだら捨ててこうぜ」
頭の中で真っ赤な警鐘が鳴った。
逃げろ……逃げろ!
ごぼり、と身体の中に残っていた水を吐き出した。桟橋に額をつけたまま、最後の息を吸う。
そして、私を引きずっていこうと男がしゃがんだ瞬間に、思いきり両手で突きたおした。派手な水音を立てて、男のひとりが海に落ちる。
残りのふたりの視線がそちらに動いた隙をつき、手前にいた男に上半身で体当たりを食らわせた。奥にいた男とともに体勢を崩して、同じように桟橋から落ちていく。
「このアマァ!」
怒声が聞こえたときには、私はもう全速力で走り出していた。汚い桟橋から浜辺に降り、泥だらけの小道を逃げる。じきに林は切れて、灰色の集落が眼前に広がった。
まず鼻をついたのは、ひどいにおいだった。泥のにおい、ゴミのにおい、何かが腐ったようなにおい。濃厚に入り混じったそれらに、強烈な吐き気がこみあげた。
匂いなんか気にしている場合じゃない。とにかく今は隠れないと。
口をおさえて、走りつづける。
集落の外れなのだろうか、人気がない。走る私の姿を見て、道の真ん中に集まっていた野良犬がぱっと散った。
泥でつくったような灰色の家々の裏手にまわり、細い路地を駆け抜けて、私はとうとう狭い納屋のような場所を見つけた。
外よりももっとひどいにおいのするその場所に入りこんで、ようやく腰をおろした。ヒューヒューゼイゼイと気管が喘鳴する。無理をした肺と喉が、燃えるように引き攣れている。しばらくは立てそうにない。
生理的な苦しさと困惑で、目の奥から熱いものがこみ上げてきた。
どうして。なんで。
ここは?
そのとき、視界の端に人の足が見えた。ボロをかぶって寝ているその浮浪者は、どうやら男のようだった。
先ほどの体験がよみがえっておもわず飛び退ったが、男は私のことなどまるで気に留めずに眠りこけている。
私はおそるおそる彼に話しかけた。
「ここはどこですか?」
男は、私の問いには答えなかった。私はもう一度問いかけた。
「教えてください。ここはどこですか?」
やはり返事はなかった。私は馬鹿みたいに泣きながらすがるように男の腕を揺さぶった。
「ねえ、教えてください!ここはどこ!?」
あっ、と声のない悲鳴が聞こえた。
それが自分の喉から出たものだと気付いたのは、後ろにあった桶をかかとで盛大にひっくり返した後だった。
男の腕は―― ひどく、冷たかった。
揺すぶったせいで、ボロをまとった身体がごとりと横に転がる。
男は、すでに死んでいた。
納屋を飛びだして、走る。走る。走る。
人の足が見える。ボロをかぶって、あちこちで人が寝ている。
真っ赤に点滅する視界のまま周囲を見まわすと、そこかしこに見たこともない汚い手配書が貼られていた。
“DEAD OR ALIVE”?
そんな文言は、日本では―― いや、あちらではありえない。
現実を信じたくなくて、私はその場にしゃがみこんだ。目の奥の網膜が引き裂かれたようにひどく痛む。
ここは、元の世界じゃない。