周囲に誰もいないことを確認してから、そっと川面を覗きこんだ。
川というには流れが悪く、沼のように淀みきった水場である。
濁った水面からこちらを見かえす女の顔は、たった数日で別人のように頬が削げおちていた。亡者のごとし、という言葉がそれこそ比喩には聞こえない。
当然だ。もう三日、ろくに食べ物を口にできていない。
熱っぽい頭をもたげて、目の前の汚い小川に顔を近づけた。
水を、飲まないと。
流れに手首を浸して、手のひらについた汗やら泥やらを洗い落とす。
そして汚れた水を両手で掬って、口元に近づけた。
しかしやはり、どうしても、口に含む勇気は出なかった。
仕方がないので代わりに、水に触れた指先でほんの少し唇を濡らした。途端に、泥と金属の混ざったような味が口内に広がって、おもわず顔をしかめてしまった。
下腹がゴロゴロと鳴る。最初に流れついたとき、汚い海水を飲みこんでしまったせいなのか、昨日あたりからずっと腹の調子が悪かった。
「水、飲まないと……」
頭が重い。脱水症状を起こしかけている。
しかし茶色く濁った川をいざ目の前にすると、決意は萎えてしまうのだった。
こんな水、飲めないに決まってる、とか。無理に飲んでひどい病気にでもかかったら、とか。
さまざまな不安が代わる代わるに顔を出しては、ためらいを煽る。
―― やっぱり、無理だ。
だるく熱っぽい身体にむち打って、私はもう一度、飲み水探しに立ちあがった。
88 Black water(Ⅰ)
ここに来て、今日で三日目。
日の出と日没を毎日欠かさず確認していても、にわかには信じがたい。
まだ、たったの三日。三週間の間違いじゃないかと、現実と自分の感覚とのギャップに愕然とする。
それくらいに、ひどい―― ひどすぎる、三日間だった。
男たちに追われて逃げこんだ先は、巨大なスラム街だった。
行けども行けども景色は灰色一色、今まで嗅いだすべての悪臭をこねくりまわして混ぜあわせたような耐えがたい臭気が、街全体を覆っていた。
ここはどこなのか。
どこに行けば外に出られるのか。
実験は、失敗したのか。
答えてくれる者を探して、最初の一日、私はスラム中を歩きまわった。
浜辺と反対方向に進んだ私は、そこでそれなりにたくさんの人間と遭遇した。もちろん今度は、生きた人間だ。
しかし、彼らは例外なく痩せこけて汚れた身なりをしており、話を訊こうと近づいても、私の姿を見た途端、揃って野生の動物のように路地の奥に姿を消してしまうのだった。
半日ほどの彷徨の後、歩き疲れた私は、道の端でバッグから取りだした携帯食料を食べた。
水に流されそうになったとき、とっさに荷物を手繰り寄せていたのは唯一、褒められた行動だったと言っていい。
路地の奥から飛んでくる複数の視線に居心地の悪い思いをしながらも、私は濡れてベタベタになった携帯食料をかじり、ボトルに詰めていた何日か前の水を飲んだ。
ひと休みしてから、もう一度、人さがしをはじめた。
しかし数時間も経たないうちに日が暮れてきたため、私はもと来た道をもどり、使われていなさそうな納屋に潜りこんだ。
汚れた藁はベッドにするには不快だったが、疲れていたこともあり、夜が更けたころにはなんとか眠りにつくことができた。
現実を知ったのは、その翌朝だった。
朝起きると、すぐ手元に置いてあったはずのバッグが、消えていた。
「え……?」
食料も水も、着替えもまるごと全部ない。どこを探しても見つからない。
盗まれた、と気づいた瞬間に頭の中が真っ白になった。
自分に起こったことが信じられなくて、何度も何度も納屋の中を掻き探したが、やはりバッグは見つからなかった。
ここに来てからも余裕を失わずに済んでいたのは、あのバッグがあったからだった。
食料と水。たった数日分の備えだとしても、それがあると思うだけで落ちついていられた。
わずかではあるが消毒薬や常備薬、衛生用品なども入っていたのだ。もちろんドルテン先生にもらった現金も。
無事だったのは、寝る前に用心のためにと手に握りしめていたあの小さなナイフだけだった。
『枕代わりにしておけば』
『抱えて寝ていれば』
『せめてもうすこし手元に置いておけば』
吐き気がするほどの後悔に、いてもたってもいられず、納屋を飛びだした。
どこかの誰かが偶然、泥棒を見つけて取り返してくれているかもしれない。
そんな夢想に取りつかれて、がむしゃらにスラム中を駆けずりまわった。
しかし、現実はどこまでいっても現実のままで、私のバッグはもう二度と私の手元には戻ってこなかった。
何もかもなくして、へとへとになって例の納屋にもどってきた私は、緊張と空腹、それからひっきりなしに襲ってくる腹痛に苛まれながら、二度目の夜を迎えた。
汚れた藁はあいかわらず、ベッドどころか布団がわりにもならず、気を抜いた途端に擦り傷だらけになってしまいそうだった。
そういう意味では、前の日の晩、スカートからズボンに履きかえておいてあったのは、これ以上ないほど利口な判断だったといえる。
この環境で地肌を晒すのはあらゆる意味で死に等しい。
夜になると、納屋の中は真っ暗になった。
唯一の光源は戸の隙間からわずかに差しこむ月影で、眠ることのできない私はひとり、細い光を見つめつづけた。
そして真夜中を越え、朝が近づいたであろう頃、その光が、ふと消えた。
理由はすぐにわかった。
誰かが―― 戸の隙間からこちらを覗きこんでいる。
おもわず背筋が粟立ったが、私は息を殺して戸の隙間に意識を集中させた。
そして相手が納屋の戸に手をかけたタイミングで、大きな声をあげて、ナイフを振りかざした。
相手は悲鳴をあげたあと、もんどりうって逃げていった。
おそろしかったが、それ以上に怒りが勝っていた。
そういうことを、完全に太陽が昇るまで何度か繰りかえした。
そうして迎えたのが今日である。
腹の調子が悪いせいで身体から水分が抜けきっている。
食事は二日前に携帯食料を数口齧ったきり、服もすでにドロドロに汚れきってきて、腐った泥のような臭いがする。
水場を求めて亡霊のように歩きまわりながら、どうせ盗られてしまうのなら、節約せずに初日に全部消費しておけばよかった、と詮ない後悔をした。
食べ物・水・安全で清潔な場所―― 当たり前に与えられてきたそれらがどれだけ得がたいものだったか。
ぽたり。
長い時間をかけて弱々しく染みだしてきていた汗が、一滴だけ、地面に落ちた。
濃茶ににじんだ小さな円は、乾燥した土道の上でみるみるうちに色あせて蒸発した。
日差しがきつい。
脱水症状なのか、それとも何かに感染してしまったのか、頭の中がぼんやりと熱っぽかった。
今日中に飲み水を見つけられなければ、たぶん、明日はもう動けない。
動けなくなればどうなるのか、わざわざ考えてみるまでもなかったが、もはや恐怖に怯えるだけの気力も失われていた。
ただただ、身体が苦しい。頭が痛い。
熱に浮かされ、あてどもなく灰色の街をゆく。
しばらくすると同じくボロボロの恰好をした浮浪者が現れて、私のすこし先を歩きはじめた。
だるい身体を引きずりながら、男の背を追いかける。
男は足が悪くしているようで、歩みが遅かった。体力を失った今の私でもなんとか着いていけるスピードである。
男について歩きつづけると、今まで来たことのない場所に辿りついた。
今までと同じく灰色ばかり景色ではあるものの、家々は吹けば飛びそうなバラックではなく、比較的丈夫そうな泥のレンガで作られている。
前を行く男がふと角を折れて姿を消した。
急いで追おうとしたとき、どこかで水音がした。
大慌てで音のする方向に行くと、小さな、本当に小さな―― 泉があった。
無我夢中で駆けていって、覗きこんだ。多少のゴミは浮かんでいるものの、水自体は汚れていない。
水、と叫ぶことすら忘れて、顔をつっこんだ。
何度も掬っては、喉に流しこむ。
太陽の熱気に晒されて水というよりもぬるま湯に近いものになっていたが、今まで飲んだどんな飲み物よりも美味しく感じた。
熱っぽかった頭が冴えていく。
さっきまでひっきりなしに私をせっついていた赤色の警報が、とりあえずは黄信号まで落ちついた。
それでもいっこうに飲みたりず、溜まっていた水がなくなるまで飲んでしまってから、私はようやく口元を拭った。
よかった、助かった。
あらためて周囲を確認してみると、泉の周囲は崩れた塀に囲まれ、荒れた庭のようになっていた。元いたところよりも、やはりいくぶんかは小綺麗である。
繁茂した雑草にオレンジ色の陽光が落ちている。
そろそろ日が落ちそうだが、やはり人の気配は感じられなかった。
今日はここで眠ろうか。
「いや、でも……」
外で寝ても寒くはないが、気候的に雨の多い場所だ。寝ている間に降られて、一晩中濡れてすごすのは負担が大きい。
そして何より、人から身を隠す場所がないのは怖かった。
迷っていると、塀のずっと向こう側に例の浮浪者の姿が見えた。足を引きずっている姿は見間違えようがない。
できることなら食べ物を探して帰りたかったが、夜目が利かず帰り道もわからない以上、長居はできない。
後ろ髪を引かれながらも、私は男のあとについて帰ることした。
そして、すでに二晩を過ごしたあの納屋に戻り、三度目の夜を過ごしたのである。
四日目。
前の晩と同じく、ろくに眠れないまま朝を迎えた。
昨日あれだけ水を飲んだというのに、明るくなったころにはもう、だるさと熱っぽさがぶり返してきていた。
蒸し暑さと緊張で、夜中にひどく発汗したせいだろう。
空腹と脱水症状、睡眠不足。そして腹痛。
重い身体を引きずって納屋から出る。すこし歩いてから、座りこんで待った。
四日近くも絶食がつづき、体力はほとんど残っていない。
来るかどうかは賭けだった。
待って、待って、昼をすぎてしばらく経った昨日と同じ時間、足を引きずる音が聞こえてきた。
例の浮浪者だ。
私はフラフラしながらも、昨日と同じく男のあとを追いはじめた。
男について行って、昨日の泉を探す。それが私にできる最後の作戦だった。
昨日の場所を探し歩くのに体力を使ってしまえば、あてが外れたとき、あとはもう行き倒れるしかない。それならば、体力を温存しつつチャンスが訪れるのを待つべきだ。
動くことよりも動かないことのほうがむずかしい。
いつか誰かがおしえてくれたことだった。
結果から言うと、私は、賭けに勝った。
男はちらりと私のほうを振りかえったが、黙って歩きはじめた。昨日と同じ、今の私にも着いていけるくらいの鈍い歩みである。
男はかなり長い時間をかけて、昨日と同じ道を通り、昨日と同じ場所に私を導いた。
昨日と同じく水を飲み干したあと、私は男を待って、一緒に帰った。
「ありがとうございます」
バラック街で別れるとき、はじめて話しかけた。
しかし、男は焦点の合わない目でこちらを見ただけで、返事どころかろくに反応することもなく、暗い路地へと姿を消した。