五日目。
まだぼんやりと薄暗い早朝、私は静かに納屋から這いでた。
こんな時間に外に出るのは私くらいだろう、と高をくくって表通りに出ると、驚いたことに、そこには昼間以上に大勢の人がいた。まだ暗いせいか、それとも彼らと同じくドロドロの格好をしているせいか、私に注目する者はいない。
汚れた恰好でフラフラと歩きまわる人々を見て、ようやく合点がいった。
住人たちは体力の消耗を避けるため、暑い日中はできるだけ外を出歩かないようにしていたのだ。初日に人が少なく感じたのも、早朝になると納屋に人がやってくるのも、活動時間がそういうふうになっているからだろう。
そう考えるとふと、泉の場所をおしえてくれたあの男のことが気になった。
彼はなぜ、あんな真昼から外を歩いていたのだろう。
暑さに強いから?
夜道が怖いから?
―― いや、そうではないだろう。
彼は足が悪い。だからあえて競争相手の少ない時間帯を選んで、水や食べ物を探していたのだ。
思い浮かぶのは、足を引きずって歩く後ろ姿だ。
こんな場所では生きづらいだろうハンデを抱えてなお、たくましく生きつづける男。名前も知らない命の恩人。
彼がいなければ、とうの昔に死んでいた。
一昨日と昨日で泉の場所は覚えたし、今日はもうひとりで行ける。
活動時間を変えたせいか、心に余裕ができたせいか、昨日までは聞こえなかった子どもの声が耳に留まった。
こんな街でも、人がいて、子どもがいる。
みんな、生きている。
89 Black water(Ⅱ)
太陽の日差しがないだけで、疲労の度合いがまったく違う。
いまだ明けきらない灰色の街を長い時間をかけて歩き、いよいよ泉のある場所まで近づいてきた。
そのとき、饐えたにおいの間をぬって、ほんの一瞬、香ばしい匂いがした。
ここに来て、はじめて嗅ぐにおいだ。
大慌てて表に回ると、小汚い屋台のようなものがいくつか並んでいて、女たちがせっせと何かを焼いていた。
店、だろうか。
昨日来たときは見かけなかったから、もしかしたらこの時間帯だけ開店しているのかもしれない。
串に刺されているのは何の肉かもわからない怪しげな物だったが、身体は正直なもので、目にした途端、歯茎の奥から唾が湧きでてきた。
『一本売ってください』
と声をかけようとして、自分が一ベリーの現金も持っていないことに気づいた。
何も、ない。
ものを買うどころか物々交換さえできない。
喉から手が出るほど金が欲しい、という気持ちが生まれてはじめて理解できた。
ずいぶん悩んでから、決意を固めた。
みっともなくてかまわない。お願いしよう。頼みこもう。そうすれば、欠片くらいは分けてもらえるかもしれない。
そんな淡い期待を原動力に、店主の女に近づいていく。油っぽい顔をした女がこちらを見た―― かと思った瞬間、金切り声が聞こえた。
「触るんじゃないよ、この盗人!」
ほかの店の女たちもいっせいにこちらを見る。
「ち、違います!泥棒じゃ―― 」
「そんな物欲しそうな目をして、何言ってんだい!」
「もう何日も食べていないんです、手伝いでも何でもします!だから、ほんの少しだけでも―― 」
うるさい、と女が甲高い声で叫んだ。
「薄汚いナリで店に近づくんじゃない!ひとかけらだってお前らにくれてやる肉はないよ!」
周囲の女たちも口々に喚きはじめた。取りつく島もなかった。
良い匂いのする肉を尻目に、私はすごすごとその場を立ち去った。
まだ暗い路地を歩きながら、私は自分が強いショックを受けていることに気づいた。胸に思いきり鉛の塊をぶつけられたような、痛くて重い衝撃。
食べ物を逃したことへのショックではない。それはきっと―― 。
「きっと……」
言葉にすることは難しかった。
人目を避けながらもとの道に戻り、いつもの泉に向かいはじめた。
よく考えれば、今日はまだ何も飲んでいないのだ。喉が乾いてたまらなかった。
路地はまだ薄暗く、奥まったルートを選べば、人には出会わなかった。
ことが起こったのは、泉のある例の荒れた庭に足を踏みいれたときだった。
泉に近づいていこうとしたとき、肩口に弾けるような熱い衝撃を感じた。
「水泥棒!」
大柄な女が泉の前に立ちはだかっていた。
少し遅れて肩がじんじんと痛みだす。足元に転がっていたのは、子どもの拳ほどもある石だった。
「貴重な水をよくも毎日……!無事に帰れると思ったら大間違いだよ!」
「……え?」
「とぼけるんじゃないよ!お前が一昨日と昨日の水泥棒だってのは、わかってるんだ!」
そう言われてはじめて、私は自分の周囲を見回した。
荒れはてた庭の隅に、水を湛える泉がひとつ。
―― そうだ。庭、だったのだ。
木槌で打たれたような、後悔と恐怖が身体のうちから襲ってきた。
「ご、ごめんなさい!わ、私知らなくて―― 」
顔の真ん中で白い光が破裂した。鼻のあたりに激痛が走り、唇の上に温かいものが流れ落ちてきた。
反射的に拭うと、血だった。
「知らなかったァ?」
拳を握った女は、反対の手で私の襟ぐりを掴みあげた。
「バカ言ってんじゃないよ!こんなに綺麗な水がタダで飲めるなんて話、今どきクソガキだって笑い飛ばすさ!」
ごめんなさい、ごめんなさいと繰り返すたびにボタボタと鼻血が垂れてくる。しかし女は、手が血で汚れるのも構わず、私の胸ぐらを揺さぶった。
「これだけのことをしておいて、ごめんで済まそうって言うんじゃないだろうね!?往生際が悪いのもいい加減にしな!お前が水を飲むのを見たっていうヤツがいるんだ!そうだろ、アンタ!」
そう言って女が振りかえった先には、ボロボロの服を着た浮浪者がいた。その手には受け取ったばかりと思しき、わずかばかりの食べ物と金が握られている。
男は屍のように虚ろで無情な目でぼんやりと私を見つめていた。
それは―― あの、足の悪い男だった。
―― ああ、そうか。彼ははじめから、このつもりで。
見えていなかったものが、見えてくる。
知らなかった世界が、知らずにすんでいた世界が、目の前に広がる。
気がつくと、大声で叫んでいた。
胸元から小さなナイフを取りだし、めちゃくちゃに振りまわす。
女がぎょっとして力を緩めた隙に、振りきって駆けだした。立ちすくんでいた足の悪い男を突き飛ばして、塀の外へと逃げる。転んだ男がぎゃっ、と短い悲鳴をあげたが、女の叫び声にかき消された。
「戻ってこい!殺してやる!」
明るくなりはじめた路地を、逃げて逃げて、逃げつづけた。もう何から逃げているのかもわからなかった。
どうして?
目の奥が痛んで、視界が滲んだ。
そうして、走りこんだ先で何かにつまづいて派手に転んだ。
大きな音を立てて、べちゃりとしたものがあちこちに散らばる。黒い野良犬が慌ててどこかに逃げていった。
ぶつかったのは、ゴミの山だった。
半分かじられて、泥だらけになった果実がひとつ、ころころと目の前に転がった。
私は泣いた。
大きな声で、泣きわめいた。泣きじゃくった。
どうして。なんで。
どうして。どうして。なんで。なんで。
不慣れな私が、その背についていくことを許してくれた。同じような境遇の私に、手をさしのべてくれたのだと思っていた。
思っていたのに。
たしかに、私は利口な人間じゃない。騙されたのも、荷物をなくしたのも自分のせいだ。私がもっと賢ければ、こんなことにはならなかった。私がもっと強ければ、こんなところにはいなかった。
全部全部、私の選択の結果。
そんなことくらいわかっている。
わかっている。
でも。
でも!
悪いことなんて、してこなかった。
勇敢でなくても、賢くなくても、それでもすこしでも“善い人”であろうとしてきた。
色々なものを乗りこえて、私は私なりに、一生懸命に生きてきた。
そうやって行きついた先が、ここなのか。
「なんで!?」
声にならない叫びが、路地にこだました。
不条理だ。理不尽だ。
人を殺しておいて、人からすべてを奪っておいて、のうのうと生きている人間だっている。着飾って家族に囲まれて、今なお、幸せそうに。
気づけば両手を地面に叩きつけていた。
何もかもが許せなかった。
己のすべてを引き裂くように、指先をめり込ませ、地面をひっかく。爪が剥がれて血が出ても、止めてくれる人間はいなかった。
一時間経っても、二時間経っても、三時間経っても、私は路地にへたりこんだままだった。
どんなに悔やもうが、泣こうが、喚こうが、同じだった。
私の手を引っぱって立たせてくれる人はいなかったし、落ち着けと背中を撫でてくれる人もいなかった。
私は、ひとりだった。
辺りが暗くなったころ、私はようやく、さとった。
何時間経とうが、何日経とうが、私の望む変化は起こらないのだと。
なぐさめてくれる誰か、励ましてくれる誰か、戒めてくれる誰か、与えてくれる誰か、守ってくれる誰か。
そんな『誰か』はあらわれない。
どうして私だけが、とか、どうしてこんな目に、とか。
辛い目にあったぶんだけ、いつかはきっと報われる?
―― ちがう。ちがうのだ。
それは、そもそも間違っている。
私は地面を見つめた。
いつも私ばかり苦しい思いをする、いつも私ばかり悲しい思いをする。
いつも私ばかり。
そう思ってしまうことはきっと悪くない。自分の心を知っているのは自分だけだ。自分がそう思うなら、それは真実なのだろう。
でも、忘れてはいけないことがある。
そんな『今』に自分を導いたのもまた、自分自身にほかならない、ということだ。
良いことをしたら、良いことが起こる。悪いことをしたら、悪いことが起こる―― そんなことを言ってるんじゃない。
未来は誰にもわからない。どんなに善く生きようと、それに応じた幸せな未来がやってくるとはかぎらない。
だから、そうなってしまったとき、それを『不幸』と呼ぶのは正しいことなのかもしれない。
あのとき、あんな場所にいなければ。
相手が、あんな人でなければ。
運命をわけたのは、ほんの小さな選択だ。だが、その選択の前にはまた、ほんの小さな選択があり、その前にもまたほんの小さな選択があった。
だからやっぱり、その未来に出会う選択をしたのは、自分自身なのだ。
「……バカだ」
泥だらけの両手を握りしめた。
過去の苦しみを言い訳にして、その場でじっと幸福が降ってくるのを待つ。辛い思いをしたぶん、いつか幸せになれる日が来るのだと、夢に浸る眠り姫。
辛い思いをしたぶんだけ、幸せを配分してくれる―― そんな、おとぎ話。
そう、おとぎ話なのだ。
現実の世界にそんな都合の良い機能は存在しない。
世界というものはただ、目の前にある事象に対して、積み重ねてきた過去に対して、それ相応の結果を返すだけだ。
この世にあるのは、必然だけ。
―― 世界は同情してくれない。
「いつまで、そうしてる」
情けなくへたりこんだままの自分に、吐き捨てた。
弱いから虐げられる。
弱いから失う。
弱いから何もできない。
弱いから―― じゃない。
「そんなんだから、弱いんだ!」
不条理に打ちのめされて、うずくまる。泣くばかりで状況を変えようともしない。
不条理が嫌。だから?
弱いのが嫌。それで?
「そう思うなら、今すぐ立てよ!」
自分に向けて、殺したい仇に叫ぶような怒号が出た。
私の足を動かせるのは私だけだ。
私の道を歩けるのは私だけだ。
私を助けられるのは私だけだ。
私の苦しみは、私にしかわからない。
―― 私は、私が変わらないかぎり、永遠に、このままだ。
目の前に転がっている、果実。
血にまみれた手で、泥だらけのそれをつかんだ。たかっていたハエが驚いて逃げていく。爪の剥がれた指先がじくじく痛んだが、今さら気にもならなかった。
汚れて擦りきれた服の袖で申し訳程度にこすったあと、思いきり齧りついた。
じゃりじゃりと泥の混じる音を立てながら、咀嚼し、飲みくだす。ひと口が終われば、また新たにひと口かじりとる。
芯も残さず、こそげ取るようにして、食べた。
「絶対に、死んでなんかやらない」
腐りかけた赤黒い実は、泥と嗚咽の味がした。