振りむいて背後を確認する。
誰もいないのを何度も確かめてから、鬱々とした林に分けいる。視界を覆うのは、熱病に侵されたようなひどい色の木々だ。
枝葉をかき分けるたび臭いのする腐った葉が、頭へ肩へと降ってきたが、そんなのはもう慣れたものだった。
川に沿って上流へと移動する。
しばらく歩いて目印の岩まで辿りついた私は、最後にもう一度だけ尾けられていないことを確認してから、一息に川へと飛びこんだ。
90 腐泥の下(Ⅰ)
茶色い濁流を掻いて、深いところまで潜る。そして足に力を込め、岩と岩の隙間に身体を滑りこませた。
川底から枝分かれしたその場所は、人ひとりがギリギリ通れるだけの狭く細い水道だった。
突きだした岩に引っかからないように足先だけを使って慎重に泳ぐ。挟まって身動きが取れなくなったら、その時点で終わりだ。
三十秒ほどの潜水の後、私は暗い水面に顔を出した。口を開いた途端に、湿っぽく水臭い空気が肺に滑りこんでくる。
縁に手をかけ、陸にによじ登った私は、湿った平岩の上で浅い呼吸を整えた。
「……ふう」
岩に囲まれたそこは、ごく小さな鍾乳洞だった。
空間のほとんどが川と繋がった地下湖に占められ、立って歩けるのはほんの数畳ほど。
髪から垂れおちた水滴が、岩の上にぽたぽたと染みを作る。服を脱いで干したあと、人がいないのを良いことに裸のまま岩上に寝そべった。
岩の隙間からわずかに外気が通ってきているので、気温はそれほど低くない。空洞の天井には一部だけ非常に高い部分があり、そこからクモの糸のようにわずかな光が降りてきている。
この場所を見つけたのは五日ほど前のことだ。
スラムの『洗礼』を受けたあと、人を避けて移動しているうち、偶然この隠れ家を見つけた。
とはいえ、出入りには常に危険が伴い、内部も完全に安全とは言えない。川と繋がっているため、寝ている間に水位が上昇して水浸しになる可能性があるからだ。
濁った湖からは腐泥のような臭気が絶えず立ちのぼり、あちこちにある岩の割れ目には何やらよくわからない虫が蠢いている。お世辞にも快適な住処だとは言えない。
しかし。
ぽつりぽつりと天井の割れ目から染み出した水が、壁を伝って、岩のくぼみに小さな水たまりを作っている。ゴミを取り除いて口に含めば、湿っぽい雨水の味がした。
水のある隠れ家―― 虫がいようが臭かろうが、これ以上に素晴らしい場所はない。
意外な話かもしれないが、このスラムの住人たちは泳げない。
海にしろ川にしろ、身近にある水環境が劣悪なため、水に入る習慣がないのだ。
力はおろか、知恵も知識もない弱者が今もかろうじて生きのびているのは、『泳げる』というアドバンテージのおかげだった。
泳ぎが得意でなければ、この場所を住処にすることはできなかったし、そうであればとっくの昔に、あらゆる相手から寄ってたかって搾取され、ボロ雑巾のようにされていただろう。
私は、『泳げる』という“力”によって、皆が選ばないものを選べたのだ。
ここでは、誰かと同じものを選ぶということはそのまま、その誰かとの闘争を意味する。
水も食べ物も安全な場所も足りない。外の世界には当たり前に存在して、人数分だけ分け合うことのできるそれらが、ここではいっそバカバカしくなるほどに、足りないのだ。
座れる者より、座れない者のほうがはるかに多いイス取りゲームだ。イスを勝ちとる力のない者は、早々にイスを諦める。欲張ってすべてを失うよりかは、地べたを這いずるほうがまだマシだからだ。
「今日はそんなに見つからなかったな」
濡れた麻袋を逆さまにすると、何かが十数個、岩の上に転がりでてくる。クルミ大だが、クルミよりもはるかに硬いそれらは、街の外れで拾った果実の種だ。外側の果実はとっくの昔に誰かが食べてしまったらしく、種だけの状態で捨てられていた。
ベルトに挟んだナイフを外し、頑丈な種皮に切っ先を突きたてる。のこぎりのように刃を前後に動かしてようやく、わずかな亀裂が入る。そのままさらに力を込めると、真ん中からパキリとふたつに割れた。
銀杏のような色をした胚を口の中に放りこんだが、たいした味はしなかった。
パサパサする口内を湖の水で潤してから、次の実を取りあげ、同じことを繰りかえす。
これもまた、今の私に許されたひとつのアドバンテージだった。
ミホークにもらったナイフは、小さいながらもひどく鋭い。これでなければ、中身を取りだすどころか皮を傷つけることすら難しかっただろう。その証拠に、これらの種は誰にも食べられないまま、あちらこちらに放り出されている。
今日の分の種をすべて食べ終えると、ふたたび岩の上に寝そべった。
今日はもう外に行くつもりはない。無闇に動きまわったところで水も食べ物もそう簡単には見つからない。疲れて終わりだ。
腹の虫がぐうぐうと鳴いている。種子だけあって栄養価はそれなりに高いらしく、ここ数日はなんとかこれで凌いでいるが、飢えているのにはちがいない。毎日食いつなぐので精一杯、満腹どころか腹八分にすら程遠い日々だ。
「お腹、空いたな」
ちゃぷん。
真夜中、眠っていると微かな水音がした。
まどろみの底でぼんやりと耳を傾けていた私だったが、数瞬経って弾かれたようにまぶたを開いた。
その瞬間、息が止まりそうになった。
何か、いる。
静まりかえった水面から、丸くて黒いものがぽこりと突き出ている。半球状のその物体の表面には、ぬめついたように光る大きなふたつの目玉があった。
誰かの―― 何かの顔だった。
目を合わせてはいけない、と思うも、すでに遅かった。私が目を逸らすより先に、何かの目玉がこちらを向いた。
きょろり、と奇怪な視線が私の眉間を貫く。呼吸が加速度的に浅く、速くなっていく。
息ができない。
怖い。
震える手でナイフを握る。
しかし、それがいけなかった。私の手が動いた瞬間、黒い何かは雄叫びをあげ、こちらに躍りかかってきた。
悲鳴をあげる猶予もなく、鋭い爪が顔面に掻きついてくる。間一髪で顔を背けたものの、視線を逸らしたその一瞬の間に、影は猿のように素早い動きで岩の上に飛び乗ってきた。
「こんの……!」
恐怖と混乱でガチガチにこわばった腕を振りまわし、襲いかかってくる相手を岩の上に叩きつける。
ベルトからナイフを引き抜き、無我夢中で振り下ろしかけたとき、黒くて長い毛に隠されていた顔がようやく見えた。
その瞬間、感電したように動けなくなった。
「……え?」
丸い目をめいいっぱいに見開いて、こちらを見上げていたのは、子どもだった。
両者の動きが止まったのは、視線が通じた一瞬だけだった。
拘束を引き剥がそうと暴れはじめた手足を慌てて押さえつける。痩せて非力なのはこちらも向こうも同じだが、それだけにかえって体の大きさの差がそのまま力の差になる。
押さえつけられ、うう、と歯茎を剥きだす子どもを前に、私は苦い思いになった。
住処を知られてしまった。
逃がす?
逃したら―― どうなる?
異邦人の若い女。目立った特徴はないが、まだ一応は健康体。
たとえば、ここに隠れ住んでいるのがそういう人間だと誰かに伝えれば、駄賃くらいはもらえるかもしれない。
暴れる手足は、骨も同然だった。長くて汚い髪は毛玉のように絡まり、塊になっている。
私はもう知っている。飢えて追いつめられた者は絶対に、獲物を諦めない。
だったら?
ハッ、ハッ、と今やどちらのものともわからない浅い呼吸が、闇を震わせる。
「悪く、思わないで」
押し当てたナイフに力を込めると、子どもはびくりと身体を硬直させた。瞳に怯えの色がよぎる。
ナイフを向ける者、向けられる者、両者の恐れを映すように、刃が弱々しく光る。
―― ここは、そういう場所だ。
ざくり。
何かを切り裂く感触が、汗ばんだ手のひらを震わせた。