ざくり。
闇の中で、刃が閃いた。
91 腐泥の下(Ⅱ)
子どもがおそるおそる目を開ける。そして自分の首に手をやって、ぎょっとした表情になった。
傷はもちろん、どこにもない。
ナイフが切り払ったのは、絡まって塊になったざんばら髪だった。
「そんな髪じゃ岩場に引っかかる」
唖然としていた子どもだったが、切られて落ちた髪を見て、ようやく我に返ったらしい。野鼠のように飛び退って、こちらを睨みつけた。
「いいよ、好きにすれば。私だって勝手に住みついてるだけだし。そのかわり、出ていくときはちゃんと髪を切ってからにしてね。出口で引っかかって死なれたら私が迷惑」
子どものほうを見ながら、余裕ぶって肩をすくめる。ナイフはもちろん手放さない。
「明日も早いし私は寝るけど、次襲ってきたら本気でぶっ飛ばすからね。ペコペコのお腹抱えてようやく寝つけたと思った矢先にこれだよこれ。ほんとにさあ。私、今、絶賛ブチギレ中だから。キレキレの実の能力者になってるから。だから!何があっても!絶対に、襲ってこないで!わかった!?」
ぽかんとする子どもを大人気なく睨みつけて、でも内心はかなりドキドキしながら、私は岩壁に背を預けたのだった。
大口を叩きはしたものの、その夜は結局一睡もできなかった。
悲しいかな、私という人間はどこまでいっても小物だった。
一方、小さな襲撃者も、朝までその場所を動かなかった。
天井の割れ目からうっすらと光が差しこんで、洞窟内が明るくなってくる。
ぐう、と一晩中鳴きっぱなしだった腹の虫を慰めようと、例の種の残りを食べることにした。
皮を剥くためナイフを取りだした一瞬、子どもが身を固くしたのが手に取るようにわかったが、気にせず作業を続けた。一食分の準備をするあいだ、子どもの視線は絶えず私の手元に注がれていた。
「食べていいよ」
私は今しがた剥きおえた中身を子どもの側に置いて、言った。
顔はあえて見なかった。
「べつに毒とか入ってないし。その証拠にほら」
ナイフを持った手とは反対の手で、そのうちのひとつをぽんと口に放りこむ。続いて隣の物もぱくり。
「ほらほら、さっさと食べないと大人げない大人に全部食べられちゃうよ」
大口を開けてパクパク食べるフリをすると、子どもはとっさに身近にあったひとつを掴みとった。
やってしまった、というふうにしばらく私の顔と手の中のそれを交互に見ていた子どもだったが、さも旨そうに食べる私を見て、とうとう我慢できなくなったらしい。慎重に匂いを嗅いだあと、小さな前歯でかちりと噛んだ。
数秒の葛藤のあと、喉がごくんと食べ物を飲みくだした。
そこからはもう、誰に言われるでもなく、手をのばしてはひとつ取り、ふたつ取り、一心不乱に食べつづける。
元々そうたくさんあったわけでもない実は、あっという間になくなった。
「私も、こうしてもらってきたの。ずっと」
食べたりない顔をしている子どもに向かって言う。私が顔を見つめても、子どもはもう逃げようとはしなかった。
「理由はそれだけ。私の好きでやってること。だから、あなたも好きにすればいい」
黙っている子どもに背を向け、水に足を浸す。
私には何にもない。敵と戦う力も、生き抜くための知恵も―― 誰かに恨まれる勇気も。
『弱い』というのは、結局、そういうことなんだろう。
今日の分の食糧を探しに行くため、水に潜ろうとしたとき、「ねえ」とか細い声が聞こえた。
水に濡れた私を、小枝のような指が差してくる。
「それ、教えて」
子どもの名前はエルル。燃えるような赤銅色の髪をした少女だった。
食べ物を盗んで追いかけられていた最中、足を滑らせて川に落ちた、と言う。ここまで泳ぎつけたのは本当に偶然だったらしい。
土地柄、子どもとはいえ簡単に信用する気はなかったが、お互いに相手を騙すメリットがないとわかってきてからは、ぽつりぽつりと言葉を交わすようになった。
「イチルは変。知らない人なのに、食べ物をくれた。どうして?」
「知らない人だから」
「ほら、やっぱり変」
彼女はそう言って、出会ってはじめて、ちっちゃなえくぼをつくったのだった。
また、エルルは賢い子どもだった。
「入ってこれたのは偶然だったとはいえ、よくこの場所がわかったね」
「イチルが川に入っていくところ、前に一度見たことがあるの。だからもしかしたら、道があるのかも、って。大人は誰も信じなかったけど……それにね、はじめはイチルのこと、悪魔だと思ってたから」
「悪魔?」
「動く水には悪魔が住んでるの。川や海に体を浸けると魂をとられる」
「だから、ここの人は泳げないの?」
「そう。だからね、私、悪魔を脅して、川の中を走る方法を教えてもらおうと思ってたの。そしたら、大人に追っかけられてもすいすい逃げられるでしょ?」
エルルはそう言ったあと、「脅さなくても教えてくれたけど」とはにかむように付けくわえた。
私たちはすぐに仲良くなった。
私は当初のお願いどおり、エルルに泳ぎを教えた。
彼女は私に子どもの視点での『生き方』を教えてくれた。食べ物や水のありか。危ない場所。木の登り方。追いかけられたときの逃げ方。
大人なのは体だけ、私はここでは非力な子どもと同じだ。私とエルルは、親友のように語らい、家族のように肩を寄せあい、日々を過ごした。
弱ったふたりには、たぶん、すがる相手が必要だったのだ。
「イチル、それなあに?」
一緒に暮らしはじめてしばらく経ったころ、ナイフで一生懸命に木の棒を削る私に、エルルが首を傾げた。
「銛だよ」
「もり……もりもりもり」
エルルははじめて聞く単語を欠片たりとも零すまいと口の中でぶつぶつ繰りかえした。彼女は記憶力が良く、私が口にした単語を片端から覚えてしまう。
スラム育ちで運動神経が良いものだから、泳ぎのほうも今ではすっかり上級者だった。あとはしっかり泳いで肺を鍛えれば、水辺で困ることはないだろう。
「尖ってるけど、何刺すの?人間?」
「人間を刺してもお腹は膨らまないよ」
現在、私たちの主な食糧になっているのは例の木の実だ。しかし当然のことながら採る一方なので、日に日に拾える量が減ってきている。
ゴミ漁りをするにしても、それぞれ『縄張り』があるのだという。下手なことをすればどういう目に遭うのか、私をもう身をもって知っている。
どんな手を使ってでも新しい食料源を見つける必要があった。
「ねえ、エルル。このあたりの水場で、皆が特に行きたがらない場所ってどこ?」
「うーん、みんなが行きたがらない場所かあ」
そう言って彼女が連れてきてくれたのは、早朝の海だった。
「ここには誰も近づかないけど、何するの?」
「まあ見てて」
岩に登ってあたりを見まわす。どこから流れてくるのか、海面は汚物や漂流物でいっぱいだった。さすがに、こんな場所にはいない。
でも、もっと深いところなら?
興味半分、心配半分で見ている少女の前で、肺いっぱいに息を吸いこみ、どぼん。茶色い海に飛びこんだ。
汚濁水のなかで目を開けるのは危険なので、肌に感じる水温だけで深さを探る。五メートル、六メートル、七メートル。行けども行けどもぬめぬめした生ぬるい水が続く。
途中で息が苦しくなって、一旦水面にもどった。
「イチル、大丈夫?」
「ここじゃないみたい。他にも同じような場所があったら教えてほしいな」
うん、と頷いたエルルの案内で、次の場所に移動し、同じことを繰りかえす。
しかしどこも結果は芳しくなかった。
ヘドロを落としながらため息をつく私に、エルルがぼそりと言った。
「最後にもうひとつだけ、知ってる場所があるんだけど……」
案内された場所は、東の湾の奥まった場所にある、ひときわ深そうな淵だった。『悪魔の寝床』と呼ばれるそこは、スラム街で一番悪い連中でさえも近づかない怖い場所なのだという。
木にしがみついて、限界まで距離を取ったエルルが悲鳴をあげる。
「悪魔に殺されちゃうよ!?イチル、本当にやるの!?」
「やる」
濁っているせいで、正確な深さはわからない。中がどうなっているかも不明だ。
怖気づきそうな心臓を抑えこんで、腹の底に力を入れた。
やらなきゃ死ぬんだ!
銛を携え、私はヘドロの中に飛びこんだ。
三メートル、四メートル、五メートル。ねっとりとした海水が手足にまとわりついてくる。
六メートル、七メートル。息が苦しくなるが、耐えて進む。
八メートル、九メートル。もっと、もっと。
そして、十メートル。
生ぬるかった海水が、そこでひやりと切り替わった。
そっと目を開ける。
周囲は一面、澄んだ水だった。多種多様の魚が群れをなして泳いでいる。
うわあ、と口から空気が漏れそうになって、慌てて息を止めた。
少し潜れば、まったく違う世界がある。海とはそういう場所なのだ。
上から降りてきた珍しい何かを見ようと、魚影が群がってくる。人のやってこない泥濘の下は、彼らの楽園だった。
(ごめんね)
船にいたとき見よう見まねで覚えた動きで、ぶすり、とそばにいた魚を刺した。
他の魚がびっくりして逃げだすより先に、水を蹴って海面を目指す。水圧の変化で耳がキンキンする。
ヘドロの層を突き抜け、勢いよく銛を掲げた。
「おさかなー!」
びっくりして尻もちをついていたエルルが、あはは、と笑いはじめた。
今までで一番楽しそうな笑顔だった。
「やっぱりイチルって変なの」
「うーん、不思議な味。海の中にはこんな生き物がいるんだね。さかな、だっけ」
刺し身にした魚を指先でつまみ、つるりと喉に流しこむ。
食べられる、が、決して美味くはない。刺し身と言えば聞こえはいいが、要するに生でそのまま食べているだけだ。調味料はもちろん、火を起こす道具すらないのである。
「醤油があれば最高なんだけどな」
「豆のソース?」
「豆からできてるけど、豆の味はしないんだよ」
「ふうん。でも食べられるんなら何だっていいよ」
エルルはそう言って、生臭さに顔をしかめることもなく、パクパクと切り身を口に運んだ。
食べられるなら何だっていい。ここで生まれ育ったエルルにとっては、当たり前のことだ。
『悪魔の寝床』にほど近い大木の上で、ひさしぶりに豪華な晩餐にありついた私たちは、暮れつつある海を眺めた。
エルルが指折り数える。
「『もり』でしょ、『さかな』でしょ。イチルは何でも知ってるね」
「……そんなことないよ」
エルルはこの島の名前を知らなかった。島の場所も同じ。彼女にわかるのは、ここが閉ざされて飢えきった場所であるということぐらいだった。
でも、それを言うなら、私だってたいして変わらない。
海を見ながら、ずっと訊きたかったことを訊く。
「エルル、家はあるの?」
少女は肩を震わせてから、本当に小さくうなずいた。
「家の人、心配してない?」
「私ね、水の中を『走る』のが上手になったら、川じゃなくて海に入りたいの」
ぼんやりと水平線に視線をやっていた彼女が、ぽつりとこぼした。
この島には、『泳ぐ』という言葉がない。
「海の中をね、そのまますいすい走っていくの。どこまでも、どこまでも。そしたら、私の知らない場所があって、そこでは誰にも殴られたり蹴られたりせずに、お腹いっぱいご飯を食べられる。ねえ、イチル。海は広いんでしょ?」
「……うん」
私は、瞳を伏せた。
海を広くて、さみしい。だからとても、むずかしい。
「だから私もまだ、そんなに上手に泳げないんだ」
「そっかあ。じゃあいっぱい練習しなきゃだね」
エルルが邪気なく笑う。まるで、大切に育てられた優しいお姫様みたいな顔だった。
ふと思いついたことがあった。
「エルル、手を出して」
「こう?」
好奇心いっぱいの手のひらに、細い木の枝を握らせる。そして、そばにあった大きな木の葉を千切り、目の前に置く。
「これがE……これがL……」
キャンパスがわりの木の葉の上に、枝の先でひとつずつアルファベットを刻んでいく。首をかしげてなすがままだったエルルも、スペルが完成するころには、その意味に気づいた。
「もしかして、これ、わたしの名前?」
「そうだよ」
垢と泥だらけの小さな指が、刻まれた文字の形をなぞる。エルルはどこか恍惚とした表情で自分の名前を眺めていた。
「これがわたしの名前……イチルのは?」
「私はこう」
書き慣れたスペルを綴ると、エルルは身を乗り出して「他の人のもやって」と請うた。
その途端、そう言われるのを待っていたかのように、勝手に手が動きはじめた。
『おばあちゃん』
『マリ』
『ドルテン先生』
夢中になって書きつづける。濁流のようにあふれて止まらないたくさんの名前。文字。記憶。
「ええっと、なんだっけ。あれ。何もないところから物が出てきたり、不思議なことが起こったりするやつ……ま、まほ……」
「魔法?」
「そう、それ!」
飛び上がるようにして頷いたエルルに私は首を傾げた。
「魔法って、どうして?」
「だって、知らない人なのに、知らない人じゃなくなっちゃった」
ずらりと並ぶ名前を指して、どこか誇らしげに言う彼女。
そんなエルルに誘われて、私はついこう言ってしまった。
「名前を書いて、言いたい言葉を書くとね、手紙になるの」
「『手紙』?」
「そう、手紙」
そのとき。ふと優しい羊皮紙の色が目の前をよぎった。
『―― はじめまして』
どこからともなく流れてくる海のにおい。汚れて柔らかくなった紙の感触。
それから。それから。
ええっと―― 。
「エルル、っていうのはね、海の女神様のお名前なんだって」
水平線を見ながらぽつりとこぼしたエルルの声で、脳内に満ちていた夢想が霧散する。
「素敵な名前だね」
「お母さんが、つけてくれたの」
真っ赤な夕日が痩せた頬に落ちる。エルルの瞳はまっすぐに海の向こうを見つめていた。
「お母さんのおじいちゃんは若い時に『センセイ』っていうのをやってて、色んなことを知ってたんだって。お母さんもおじいちゃんに教えてもらって、ほんのちょっとだけ字が読めるって。だから……」
汚れた人差し指がたどたどしく、刻まれた名前をなぞる。夢を見ているような声だった。
「口では言えないことも、手紙なら言えるのかな」
うなずくことも答えることもできず、私は、小さな肩を抱きしめた。
「イチル。わたし、家に帰るよ」
翌朝、エルルは家に帰っていった。小さな右手に、木の葉の手紙を握りしめて。
昨日はじめて文字を書くことを覚えた彼女の手紙には、たった一言、たどたどしい言葉が刻まれているだけだ。
お母さん、大好き。
照れたような不安そうな背中を見送りながら、これで良かったんだと私は自分に言い聞かせた。
だが、結論から言うと、私は何もわかっていなかった。
本当に、何もわかっていなかったのだ。
これから起こることが、海からやってきた大波のように、何もかもを呑みこみ、変えてしまうと知っていたなら、私は。
私は、どうしただろう?
思い出すのは、呪いをかけられた王女の話だ。
糸車の焼かれた国で、それでも彼女は錘を見つけてしまった。定められたとおりに。
錘に惹かれたその好奇心すら、運命にしたがうための小道具にすぎないとしたら。
カタンカラカラ、カタンカラカラ。
運命の糸車は止まらない。