エルルがいなくなり、私はまた一人になった。
魚が穫れることがわかったおかげで、食べ物に困ることはなくなった。自分以外は入れない隠れ家で夜も安全に眠ることができる。
岩壁にナイフで刻んだ日数は、すでに一ヶ月を超えようとしていた。
家も水も食べ物もない。力も知恵も知識もない。にもかかわらず、私は今も生きている。
昇ってくる太陽を見て新しい朝を知るたびに、今こうして自分がここにあることの不思議さを思わずにはいられない。
92 腐泥の下(Ⅲ)
ある朝、ふと思い立ってエルルに会いに行くことにした。
彼女が去って一週間。あれからエルルは一度もここに来ていない。
『お手紙作戦』が功を奏して無事に家に居着いた、と考えるの普通だろうが、エルルの性格的に一言くらい報告があってもいい気がした。
朝露に濡れた木々をかき分け、スラムへと向かう。薄闇の中を動きまわることにも、饐えたような臭いにもすっかり慣れた。
エルルに言わせば、スラムにもいろいろあって、北にいけばいくほど裕福で治安が良いらしい。とはいえ、日本を知る私からすれば、口が裂けても「良い」とは言えないレベルであるが。
肉の露店が並んでいたあたりが、ちょうど北部と南部の境にあたるという。
一方、スラムの東部にはちょっとした林が広がっており、今暮らしている洞窟はその内部に位置する。
そして、エルルの家は南東部にある。
『島の中で二番目に悪い場所と、三番目に悪い場所の真ん中くらい』というのが彼女の言い方だった。
教えてもらったとおりの道順で進んでいくと、しばらくして、狭くて湿っぽい路地に出た。
路地の両側に詰めこまれるようにして並んだ家々は、どれもこれも、もろい赤石を積んでつくったような簡素な作りで、家と呼ぶにはずいぶんと頼りない。
路地の奥にいた子どもがちらりとこちらを見て、逃げるように姿を消した。余所者を伺う視線がそこらじゅうから飛んでくる。
気配はすれど、姿は見えず。
路地をまっすぐに行くと、壊れかけた家の前に老婆がひとり、石ころのようにぽつねんと座っていた。
私に気付いた老婆は、薬研のようなもので何かをすりつぶす手を止めて、怪しげな笑みを浮かべた。
思わずどきっとした私は、慌てたような会釈をひとつだけして、老婆から視線を外した。
そして、振りかえった路地の反対側が、ちょうど目的地だった。
枯れた木に押しつぶされるようにして、ひときわ小さな家がある。
雨どころか風もまともに防げないようなあばら屋が、エルルの生まれた家だった。
入り口からこっそり中を覗きこんでみたが、案の定、暗くてよく見えない。静まりかえった暗闇に向かって、小さな声で呼びかけた。
「エルル、いる?」
返事はない。
もう一度、呼びかけた。
「エルル?」
やはり返事はなかった。出かけているのだろうか。
ところが帰ろうとしたとき、家の中で人の気配がした。もぞり、と何かが立ちあがり、鈍くさい動きで表に出てくる。
現れたのは痩せた女だった。知らない顔だったが、濃赤色の瞳と髪には見覚えがあった。
「エルルのお母さんですか?」
胡乱な視線を寄越した女に、私は慌てて挨拶した。
「すみません、エルルの友達でイチルと言います。すこし前にスラムの東で知りあって。家がここだと聞いたので会いに来たんです」
女は答えなかった。エルルと同じレンガ色の瞳をぼんやりとこちらに向けたまま、ろう人形のように突っ立っている。
奇妙な態度に、私はすこし困惑した。
「あのう、エルルはここにはいないんですか?」
「……見たらわかるでしょ」
空っぽの家を顎で指しながら、女はようやくそれだけ答えた。ひどく億劫そうな声だった。
「じゃあ、エルルはどこに?」
「……さあ」
「『さあ』って」
あまりに投げやりな返事に、他人の家のこととはいえ、不愉快な気分になった。
「貴方はエルルのお母さんですよね。エルルがどこに行ったか知らないんですか?」
「知るわけないさぁ」
不意に聞こえた粘つく声は、目の前の女のものではなかった。嘲るように口を挟んだのは、さっきの老婆だった。
「『字が書けるの』は、『そうでないの』に比べて、ちょっとばかり高くなるからねぇ」
「何の話ですか?」
戸惑う私と、無表情の母親を交互に見ながら、老婆は耳障りな声で「決まってるだろぅ」と言った。
「そのヤク浸りの淫売は、金欲しさにとうとう売っちまったのさぁ」
「……なにを?」
自然と声が低くなった。
聞き返しながら、無意識に近い意識の底では、私はちゃんとわかっていた。
『なに』なんかじゃない。『なに』じゃなくて―― 。
老婆の口が、にたり、と弧を描いて真っ赤に裂けた。
「自分の娘を、さぁ」
頭の中が真っ白だった。何もわからなかった。
売った?
自分の子どもを?
当たり前のようにそれを口にする老婆も、否定しない母親も、ひとつ残らず何も理解できなかった。
目と口が貼りついただけの皮袋がふたつ、目の前に落ちている。薄汚く、無気力で、いびつな塊。すくなくとも私の目には、彼らが人であるようには見えなかった。
「なんで?」
こぼれ落ちた問いに答える者はいなかった。老婆はもう何もかも忘れたような顔で、座って薬研を使っていたし、女はあいかわらずどうでも良さげに突っ立っていた。
「なんで……なんで!?」
女はやはり答えなかった。
私は力まかせに女の肩を揺さぶった。身体の不快に晒されてはじめて、女の能面が歪んだ。
「さわらないでよ……」
「なんで!?エルルはどこ!?」
女が抵抗するより早く、船でクルーに習ったとおりに体重をかけて押さえつけた。
「エルルはどこ!?」
女は私の豹変に目を見開き、悲鳴を上げた。
「痛い!さわんないでよ!」
「うるさい!答えて!」
「やめてって!痛い!痛い!」
さっきまで人形のようだった女が、「痛い、痛い」と子どものように悲鳴を上げる。我が身がかわいい女の涙は、私をさらに逆上させた。
ナイフを鞘から引き抜いた私は、それをそのまま女の喉元に突きつけた。
「はやく。教えて」
ナイフが本物だと気づいた途端、女の態度は一変した。
「ご、ごめんなさい!許して、許して!」
「エルルはどこ?」
「お願い、殺さないで!本当に知らないの!」
「売った先は?」
女は懇願するように言った。
「か、『壁』よ!そこに連れて行ったら、買ってくれるって言うから……」
女の喉首から手を離し、荒っぽく地面に放りだす。女は咳きこみながらも這いずって、私から距離を取った。
怯えた目でこちらを見る女を放って、私は走りだした。
『壁』―― 行ったことはないが、その場所はエルルに聞いて知っている。たしかスラムの北東部、森の外れだ。
疲れも飢えも恐怖も忘れて走りつづけた。
行ってどうする、お前に何ができる、という問いが何度も頭をよぎった。しかし私にとってはこの場所で何のよすがもなく生きることは、死ぬことと同じくらいむごたらしいことに思えた。
何もせずに待つことは、自ら何かをすることよりもずっと難しい。
いつか誰かが教えてくれたとおりに、私はその弱さ故に、何かをせずにはいられなかった。
走って、走って。
気付けば、私は『壁』の前に立っていた。
白く、高く、終りが見えない『壁』。スラムの者が『エシャの壁』と呼ぶそれは、たしかに『壁』と呼ぶにふさわしい形状をしていた。
しかし、おそらく、それだけでは不十分だ。
『壁』は実際には壁ではない。
それは、言うなれば―― 。
「神殿……?」
無数の蔦が絡み、木々に覆われてもはや全容を伺うことのできないそれは、白い石塀で囲まれた途方もなく巨大な遺跡だった。
見渡すかぎり、どこまでも続く石壁。壁。壁。
ものさしで測ったようにきっちりと上辺を切りそろえられた白い石塀の高さは、少なく見積もっても五十メートルはある。ここからでは確認できないが、その厚みもまた相当なものだろう。
しかし、それだけの存在感を放ってなお、私を釘付けにしていたのは『壁』ではなかった。
それはその向こうにあった。
異様なまでの神秘性を放ち、私にこの場所が遺跡であると確信せしめたもの―― それは、高い壁の向こうにそびえ立つ、天を突くような塔だった。
打ち捨てられ忘れ去られた『エシャの壁』。
圧倒された私は、こんなときだというのに、しばらくその場に立ち尽くした。
人の話し声が聞こえてきたのは、壁に沿って歩きはじめて15分ほど経ったころだった。
壁の下方に二メートル四方の切れ目がある。内部への出入り口らしき場所の前には、ふたりの男の姿が見えた。
私は深い茂みに身を隠し、様子を伺った。
「なんでえ。酒はこれで終わりか?」
「てめぇがガブガブ飲むからだろうが!」
「そうカッカするなよ。頭が痛くならぁ」
短銃と大きな剣を携えた男たちだ。
この島ではまず見かけない外海らしい出で立ちに、私は神経を尖らせた。
海賊、もしくは寄せ集めの傭兵か。
「鬱陶しい森の中、野郎と二人で裏門の見張りとはなぁ」
「うるせえよ、黙って立ってろ。暑いのと暇なのとで、足からズブズブ腐っちまいそうだ」
男が白い壁に向かってつばを吐く。気怠けな門兵たちの会話を聞きながら、私は考えを巡らせた。
門番の話からすると正門は別の場所にあるようだ。だが、内部の詳細がわからない以上、入り口をより好みしたところで大した違いはないだろう。
「……大丈夫」
私は音を立てずにかがみ込み、遠くに飛びそうな石を選んで拾った。ありきたりなやり方だが、暇な警備に飽き飽きしているならきっと乗ってくるだろう。
ぽんぽんと手のひらで重みを確かめたあと、反対側の藪に向けて、拾った石を思いきり投擲した。
がさり、と派手に騒いだ茂みに、男たちがさすがに矢のような反応をする。
「あン、鳥か?」
「まさか。この島にまともな生き物がいると思うか?」
「じゃあ人間か。女とか?」
「……いいか、女だったら『交代に』だ」
意気投合した男たちがぱしんと手のひらを打ち合わせる。
ふたりぶんの後ろ姿がきっちり茂みに消えたのを見届けて、私はするりと『壁』の中にすべりこんだ。
壁に囲まれた広大な敷地の中央部に、高い塔がそびえ立っている―― という想像は大きく裏切られた。
予想の内容自体が間違っていたわけではないのだが、『壁』の内部は実際にはもっと複雑な構造になっていた。
白い塔はたしかに敷地の中央部に位置している。しかしその周囲には、外からは確認できなかった背の低い建物が無数に立ち並んでおり、地上からの見晴らしは悪い。無論、見渡す限り建物はすべて廃墟である。
さながら城塞都市のようだった。
迷宮のような廃墟の中に足を踏みいれた私は、柱や壁に隠れながら慎重に進んでいった。
門番がいるということは、守るべき価値のある人か物の存在するはずだ。それが私の目的の相手である保証はないが、今の私にはこうする以外にどんな方法も思い浮かばなかった。
人の話し声が聞こえてきたのは、廃墟に入ってすぐのことだった。
物陰から伺うと、すこし行った通路の先に男が数人たむろしている。
「出港はいつだって?」
「知らねぇよ。今回はいつもより数が少ないみてぇだし、もうちょい粘るんじゃねぇか」
「長引くからにはそのぶん弾んでもらわねぇとな。『アイツ』のこった、どうせ溜め込んでんだろ」
「いっそ殺して海に捨てちまうか?『アイツ』の儲けを俺らで山分けするってのもありだよな」
冗談とも本気ともつかない不穏なセリフを飛ばしたひとりに、残りの傭兵たちが腹を抱えて笑った。
私は抜きあし差しあしで後ろに下がり、脇道に逸れた。どう楽天的に捉えても人探しに協力してくれそうな集団ではない。捕まったら何をされるか。
ところが、男たちの輪が見えなくなってほっとした瞬間、足元で『べきん』と大きな音がした。
しまった。
ところが、周囲を確認しようと振り向いた途端、今度は床に立っている左の足裏で、またしても嫌な音がした。
ばり、と何かが裂けるような音と同時に、腐った木の臭いが鼻をつく。腐った床を踏み抜いたのだと気づいたときには、私の身体は完全に宙に浮いていた。
逃げるどころか体勢を整えることすらできず、私は短い悲鳴とともに暗い床下に落下した。
目を覚ますと、小さな部屋の中だった。
窓のない石造りの部屋だ。
同じく白い石でできた床から身体を起こすと、かびたような臭いが鼻をついた。
慌てて身体を確認すると、手錠や足かせは見当たらない一方で、荷物や首元のナイフはなくなっていた。
ウィックとともに捕まったときの牢獄が思いだされて、吐き気を催すような恐怖が襲ってきた。
落ちて気絶した私を、誰かがここまで運んだのだ。
さっきの男たち?
いや、気絶した女を目覚めるまでそっとしておくような連中には見えなかった。
状況を確認しようと立ち上がったとき、足音が聞こえてきた。相手の姿を予想する暇もなく、鉄でできたドアが開いた。
入ってきたのは男だった。
年齢は三十かそこら、長い黒髪を首のあたりで一つに結んだ浅黒い肌の人物だった。野生の獣のように精悍な顔立ちで、足元まである長い麻布を外套のようにまとっている。
どこか気怠げな雰囲気を漂わせながらも、こちらに向けられた視線は異様に鋭い。髪と同じ漆黒の瞳と視線が通じて、知らず身体がこわばった。
今はもうわかる。荒事の世界に生きる人間だ。
「何ができる?」
男は唐突に言葉を発した。
「何が……?」
「もう一度訊く。お前は、何ができる」
訊かれた内容がわからず、私は困惑して、男の顔を見た。
しかし、男はにべもなかった。
「わからねェのか。期待外れだな」
踵を返して部屋から出ていこうとする。私は慌てて引きとめた。
「待って!貴方は誰ですか?」
男は足を止め、振りかえってじっと私を見下ろした。
「貴方が私を助けてくれたんですよね?」
「……俺が?」
すがるように外套の袖を掴む私の手に目を留めたあと、男はクッと喉を鳴らした。打って変わって興味深そうな顔になった男は、値踏みするように私を覗きこんだ。
「確かに、お前を助けてやったのは俺だ。俺がいなきゃお前はとっくの昔に海賊共の慰み者だった」
海賊共?
私の疑問を察した男が、男は笑うようにそれに応えた。
「貴方は海賊じゃないんですか、ってか?」
「い、いや、そういうわけじゃ……」
「ハッハァ!海賊だと思ってた癖に『助けてくれた』か。思った以上だなァ」
男はテーブルに腰を下ろし、身を乗りだした。ツヤのある浅黒い肌に、長い黒髪が垂れる。
「俺はシルバー・コスタ。仕事じゃ『ミスタ・シルバ』って呼ばれてる」
「仕事……?」
なんとなく嫌な予感がして、口を開いてしまった。
男が「わかってるくせに」と言わんばかりに、ちらりと赤い舌を見せた。
「奴隷商人だ」