「かつてここには港があり、船があった。人々は海と共に暮らしていた」
ミスタ・シルバはイスに腰掛け、静かに話しはじめた。
94 奴隷商人(Ⅱ)
「海は美しく多種多様な魚が獲れた。なかでも、この近海にしか生息しない『エシャ』という海魚は、食用をはじめ油・肥料の原料にもなり、島民の生活を支える重要な資源だったという」
「エシャ?」
「古い言葉で『神の槍』という意味だ」
粗布を纏った男はこともなげに答えた。
「雨季と乾季のある夏島だからそれにまつわる苦労はあったろうが、人々は決して飢えてはいなかった。日々与えられる海の恵みに感謝し、祈りを捧げて穏やかに暮らしていた」
穏やかに、という言葉にうつむいた。穏やかさも感謝も祈りも、今のこの島には存在しないものだ。
「ところが、ある日のことだ。港に見慣れぬ船が現れた」
今まさにその光景を目の当たりにしているかのように、彼はドアの方へ―― おそらくは、かつて港があっただろう方向へと顔を向けた。
「その船はひどく傷ついていた。帆は破れマストは半ば折れ、今にも沈みそうな有様の船から降りてきた外海の者たちは、島民に助けを請うた。彼らが言うには、『さる高貴な御方』を乗せて旅をする途中で“太古よりの軛”に遭い、他の船はすべて沈んでしまった、と。自分たちの食糧を捧げて主を生かしたのだろう、召使いたちは皆やせ細っていた」
水平線すら覆い隠すような巨大な渦潮が瞬く間に船を飲み込んでいく。そんな光景が思い浮かぶ。
「島民たちは古来より人を愛することを知る穏やかな民族だった。彼らは外海の者たちの求めを快く受け入れた」
男は片手を広げ、歌うようにつづけた。
「島民が与えた物資や食料のおかげで、壊れた船は元通りになり、船員たちは皆元気を取り戻した。しかしただひとり、船に乗っているという『高貴な御方』だけは一度も島民の前に姿を見せなかった。そこで、船が島を発つ前夜、島民たちは最後のもてなしとして、獲れたばかりのエシャを料理して『高貴な御方』に献上した」
「それで……?」
いつしか身を乗り出していた私は、慌てて元の姿勢に戻った。ミスタ・シルバはそんな私をどこかおかしそうに見て、言った。
「翌朝船は無事に旅立っていった。この島が滅びたのはその一年後だ」
男の表情と話の落差に、一瞬話を見失った。
「どういうことですか?」
「エシャが獲れなくなったのさ」
ミスタ・シルバの瞳が薄っぺらい憂いを浮かべる。
「食糧源としてはもちろん、肥料の原料であったエシャが獲れなくなれば作物が育たなくなる。作物がなければ家畜も育たない。そして何より、エシャから採れる油は島の生命線だった。なぜだかわかるか?」
「えっと……」
火がこの島の生活に必須だった理由を考えてみる。
料理に使うため?いや、油がなくても別の方法で料理はできる。夜間の照明にしたって、夜になれば寝るだけなのだから、なければ暮らせないほどものではない。となると―― 。
「夜に漁をしていたから?」
「いい読みだ。油がなければ夜に灯す火がなくなる。強い光を好まないエシャは、夜漁でしか獲れない魚だった」
ミスタ・シルバは教師のように上機嫌にうなずいた。
「それからというもの、エシャを中心にまわっていた島民の生活は途端に苦しくなった。エシャが獲れないせいで、さらにエシャが獲れなくなる。島には飢えと裏切りがはびこり、人々は無気力に支配された」
物語の語り部のように、感情たっぷりに―― だが実際にはすこしの湿り気もない声音で―― ミスタ・シルバは話を終えた。
そして彼は笑いを浮かべた。
盗賊のような、獰猛な笑みだった。
「―― というのが、いわゆる公式の記録だ」
含みのある言い方に、嫌な予感がせり上がった。
なんとなく嫌な感じがする、というようなものではない。これから口にされるのは、もっと確信的で決定的で致命的な『聞いてはいけない』何かだ。
「往々にして、歴史には裏話がある。たとえば、そうだな。エシャが獲れなくなったのは―― 誰かが海に毒を撒いたから、とかなァ」
動きを止めた私を見て、男はほくそ笑むように瞳を細くした。
「さて、さっきの物語を別の視点で振りかえってみるとしようぜ」
そう言ってミスタ・シルバは勝手に新しい話をはじめた。
「成人の祝いに親から船団をまるまるひとつを買い与えられ、意気揚々と故郷の港を旅立った『そいつ』は、期待に胸を膨らませていた。技術の粋を集めて作らせた船と、選り抜かれた召使い・護衛・船乗り。彼は確信していた。己こそが世界のありとあらゆるものを目にし、手にする『選ばれし者』なのだと」
彼は小さく肩をすくめた。「ところが、だ」
「旅をはじめて数ヶ月で、彼の自慢の船団は“太古よりの軛”に出遭い、あっさりと壊滅した。たかが海ごときに、と怒り狂う主人を押さえて、召使いたちは命からがら逃げ出した。しかし、もはや舵もきかない船では港に寄ることもかなわず、彼らは広い海をあてもなく彷徨った。食糧は残り少なかったが、生まれてこのかた空腹というものを知らなかった彼は、自分にはこれまでと少しも変わらない食事を用意するように命じた。そして、召使いたちが一人、また一人と飢えて死んでいくなか、彼らは幸運にもとある島に漂着した」
ミスタ・シルバはとんとん、と下に向けた人差し指でサイドテーブルを叩いた。
「島民が与えた物資や食料のおかげで―― ってのは、もう言わなくてもいいな。ところが、島民に救いを求めた召使いたちとは反対に、『そいつ』は決して船を降りようとはしなかった。野蛮で汚らわしい下々の食糧を口にするなど、彼には想像もできないことだった。幸いにも船にはまだ彼のための食糧があったから、住民の助けがなくとも飢えることはなかった。ところが船が島を発つ前夜、召使いの一人が島民から献上されたエシャを主の晩餐に出してしまった。そして彼は知らずにそれを食った」
男は笑った。
「『そいつ』がそのことを知ったのは、故郷に帰りついてからだった。彼は泣き叫び、怒り狂った。汚れた蛮族の食べ物が身体に入ってしまった、と。彼は料理をテーブルに乗せた召使いの首を刎ね、それを止めなかった召使いの首を刎ね、船の責任者だった男を海獣の餌にした。それでも足りないと思った彼の両親は息子が逗留した島の近海に毒を撒き、島の漁師、料理人、船大工を全員処刑した。海を腐らせる古の毒によって、近海からは生き物が消え、島には毒木と気味の悪い毒虫ばかりが残った」
そのあとはもう、私にもわかった。
植物がなければ家畜も生き物も育たない。痩せた土地に渡り鳥は来ない。肥料もない。油もない。泳ぎを知る漁師も、調理方法を知る料理人もいない。毒の海に入る者はいない。
時間の経過とともに、魚という言葉や泳ぐという概念は消えていっただろう。そしてそれと同時に、人の尊厳も消え果てたのだ。
「いったい誰が、そんなことを」
「……ああ、それだ」
男は待っていた、とばかりに私のほうを向いた。
「とある書物にはこう書かれている。曰く『人・魚人・その他あらゆる種族を統べる権能を持ち、その生命と尊厳を掌握する世界の創造主―― 」
ミスタ・シルバは幼子の無知を見るような、寛容な笑みを浮かべた。
「世界貴族。またの名を“天竜人”、と」
首輪を付けられた男性と、鞭で打たれ血を流す女性。
荒く描かれた挿絵をぼんやりを思い出したとき、私はついに『追いつかれた』と思った。
奴隷なんかいない。
奴隷などという『理解不能なもの』は存在しない。
―― なんて。
ドルテン先生のところで奴隷に関する本を読んだときも、エルルが売られたという話を聞いたときも、ミスタ・シルバが奴隷商人だと名乗ったときでさえも。私はたぶん、それが何を意味するのか理解していなかった。
理解しようとしなかったのだ。
わかっていたら、ミスタ・シルバに口答えをすることもなければ、こうしてのうのうと部屋に招かれたりすることもなかっただろうし、何の策もなくエルルを追いかけて『壁』まで来たりもしなかっただろう
もっといえば、ドルテン先生のところを離れて旅をしようとは思わなかったかもしれない。
かつてドルテン先生は私を無知な子供のようだと言った。
そうだ、私はずっと無知な子供だった。
見えていたのに、何も見ようとせず、理解しようとしなかった。人が人を殺すところを見て、人が人を裏切るところ見て、それでも私はそれが示すところの本当の意味を知らなかった。
気付くためのヒントはこれまでもあちこちに落ちていた。
目を凝らし耳を澄ませば、もっと早くもっと正しく、この世界の正体を知ることができただろうに。
目を逸しつづけてきた現実が、とうとう私に追いついたのだ。
「寿命が短ェから、昔のことを知るヤツなんざこの島にはもう誰一人残ってねェ。誰が言い出したのか知らねェが、今じゃ『水には悪魔がいる』って海を見ることすら嫌がる始末だ。俺らにとっちゃ天竜人サマサマだぜ。良い“漁場”を恵んでくださってアリガトゴザイマス、ってなァ」
こぽり、と腹の底から何が湧き出す音がした。
コポコポ。コポコポ。
「……なぜ?」
「ああ、またそれか。なぜなぜ、なぜなぜ、なぜなぜ。訊きたがりの小娘が―― 」
男は唾を吐き散らかすようにして、テーブルを叩いた。黒い長髪がざらりと音を立てて肩からすべり落ちる。
「なぜ?なぜって? そんなの決まってる。売れるからだ!」
ミスタ・シルバは欲望でぎらつく瞳を私に向けた。
「求められる物を、求める者に売るのが商人だ。それ以外に何がある?」
コポコポ。コポコポ。
私はその問いに答えることができなかった。
男の言葉に打ちのめされていたのは事実だった。だがそれと同時に形容しがたい感情に心を奪われていたのだ。
そうじゃない。
そうじゃないんだ。
怒りでもない。悲しみでもない。いつかどこかで感じたことがあるような感情だったが、それがなんなのかはわからない。
ただひたすら、心の一番深いところからこんこんと湧きだしてくるような衝動だ。
コポリ。コポコポ。
染み出すような水の音。
そうじゃない。
知りたいのは、そんな答えじゃない。
私は。
私は―― 。
そこでミスタ・シルバの目がこちらに向いているのに気づき、我に返った。出かかっていた言葉を飲みこむように口を押さえる。
男は読めない瞳でこちらを見ていたが、じきに飽きたように視線を逸した。乱れた長い黒髪を無造作にまとめて肩の後ろに投げやる。
「さて、そろそろ本題に移るか」
「……本題?」
「この島の歴史について講義がしたくて呼び出したとでも? さすがにそこまで暇じゃねェよ」
茶化すように言いながらも、男の顔は少しも笑っていなかった。ミスタ・シルバは私の前に立ち、事務的な声で言った。
「脱げ」
一瞬、何を言われているのかわからなかった。
すると、男はようやっと表情らしき―― あえて表現するなら、薄笑いのようなものを浮かべた。
「『生かさず殺さず』―― 猛獣を手懐けるコツさ。普段なら放っておけば好き勝手やるんだが、こういう島だ。鬱憤の捌け口は飼い主が用意してやらねェとな」
逃げ場はないとわかっているのに、足が勝手に後退った。こんなとき、先に状況を理解するのは頭よりも身体らしい。
「取引だよ。お前が海賊共の相手をするなら、その間はD-4の商品を処分しない」
めまいのするような動揺の後、ほんのすこし遅れて「ああやっぱり」と思った。
私個人に残された価値といったら、それくらいしかない。
「テメエが金を支払って手に入れた商品でないことがひとつ。テメエのイカれたしつこさに根負けしたのがひとつ。わざわざ取引にしてやる理由はそのふたつだ。応じるならテメエの命は保証する。これでも商人の端くれでな、契約条件以上のものを取るつもりはねェ」
私の立場からすれば欠片も信じられない言葉だったが、信じる以外に何の選択肢もなかった。
海賊の生贄にするのに、本来、私への打診など必要ない。しかし今、ミスタ・シルバはこちらの要求を呑んだうえでそうすると言っているのだ。
子供たちの命。
私の苦痛。
もはや選ぶべくもない。これ以上の条件はないだろう。
だが決断を伝えるより先に、私の身体はミスタ・シルバによってベッドに突き倒されていた。
「面倒だな」
吐き捨てるような声が聞こえたかと思うと、男の手が無遠慮にシャツの下にねじ込まれた。かさついた手が肌の上を値踏みするように動きまわる。
冷たい悪寒がムカデのように背すじを這いあがった。
「あ、相手は海賊だって―― 」
「飢えさせれば反抗するが、与えすぎても付け上がる。生娘の味なんぞ覚えられちゃァ、次から面倒だ」
汚れて伸びきったブラジャーを簡単に押し上げて、男の手がじかに胸をつかむ。握りつぶすような肉の痛みに、私は小さく悲鳴をあげた。
「痛ッ―― 」
「喚くな」
男が獣のように唸って胸元に犬歯を立てた。ぶつり、と果皮を噛み破るような音のあと、熱い痛みが襲ってきた。
耐えろ、耐えろ。
これくらい我慢できなくて、これからどうするんだ。
一生懸命にそう唱えても、視界はまたたく間に滲んでいく。
すぐ目の前に男の浅黒い肌があった。私の汚れたシャツをすべてたくし上げた男の手は、いつしか腰から下に及んでいた。
ミスタ・シルバはそれから人が変わったように寡黙になった。男の長い黒髪が目や口に落ちかかり、ただでさえ浅い呼吸の邪魔をする。
男の髪を払い落とそうと顔を揺すったとき、ふと目が合った。
私はおもわず戦慄した。
こちらに向けられた黒い瞳は濁りきってぎらついていた。彫りの深い顔が獣のように見える。そこにわだかまる欲は女に向けるそれというよりも、もっと仄暗い何かだった。
抵抗の意思を削ぐように肩に噛みついたあと、男は下着に手をかけた。雑巾同然になっていた布は呆気なく引きちぎられ、むしり取られた。
その頃にはもう、痛みと恐怖と嫌悪感で感覚はひどく曖昧になっていた。ただ、隠されていた場所が室内の生ぬるい空気にされされたときは、寒くもないのに身震いが起こった。
あらわになったそこに男の指が触れる。
ああ、もう本当にそうなっちゃうんだ。
後悔とも諦めともつかない気持ちを自覚したとき、投げ出した右手にふと何かが触れた。
それが何なのかわかった瞬間、電流が走ったように目の前が真っ白になった。
温かい。
さっきはあんなに痛くて苦しかったのに、今はすこしも辛くない。
う、う、とどこからか息苦しそうな喘ぎ声が聞こえる。なんとなく「痛そうな声だな」と思った瞬間、一気に視界に色が戻った。
そして、眼前の光景に絶句した。
白かったはずのベッドとシーツが真っ赤だった。容赦なく立ちのぼるのは、鉄さびのような臭気だ。う、う、という声と生ぬるい感覚に視線を上げると、目を見開き、唇を震わせる男の顔がすぐそばにあった。
その肩越しに、男の背中が見えた。
血に塗れた広い背中の真ん中に、細長い突起が見える。
何かが、突き刺さっている。
「テメエ……」
掠れた声とともにミスタ・シルバが喀血する。唾液と混ざって泡立つそれは、私のむきだしの胸元に垂れ落ちて、そのままぶどうのジュースのようにゆっくりとベッドに流れた。
あ、とはじめて喉の奥から声が漏れた。
そういえば、右手がずっと温かかった。人肌と同じ温度の何かが耐えずむき出しの右手を浸している。
無理矢理に男の下から抜け出すと、ミスタ・シルバは呻いて、芋虫のようにベッドサイドに転がり落ちた。
元の肌色を忘れるくらい赤く染めつくされた男の背中には、ミホークにもらったあの小さなナイフが冗談のように真っ直ぐに突き立っていた。
全身がガタガタと音を立てて震えだした。
そうだ。
男の懐に入っていたナイフを掠め取り、男の背に隠して鞘から引き抜き、心臓を狙って突き立てた。
私が、やったのだ。
なのに、身体がいうことを聞かない。
助けないといけないのに。
助ける?
どうやって?
……自分が刺したのに?
立ち尽くす私の前で、男がうめきながらも柄を掴んだ。獣の断末魔のような声をあげながら、一気に刃を引き抜き、仰向けに転がる。傷口から血が噴き出すように流れでる。
息はまだかろうじてあった。
「ああ、その顔だ」
ミスタ・シルバは息も絶え絶えながら、笑っていた。人が死に際に見せるのにはとても似つかわしくない、陶然した笑みだった。
「それが、見たかったんだ、さすがにこういう形は、予想外だったがな……」
男は血のあぶくとともに冗談めいた笑いを口からこぼした。
「子供を助ける、ねェ?俺を殺して、どうやってガキ共を、治す?親に売られたあいつらに、帰る場所が、あると思うか?お前が、そのナイフで殺したのは、俺だけ、じゃねェ」
後退る私を、瀕死の男が視線だけで追いかけてくる。
喉の奥からありもしない血の味がする。彼を刺したよりももっと鋭いナイフが、私の胸を内側から切り裂いている。
「ハハ、責める気は毛頭ねェよ。人ってのはそういう、もんだ。そうでなけりゃ、ならねェ……自分のために生かし、自分のために、殺す」
のろのろと腕を持ち上げたミスタ・シルバは、懐から鍵の束と血染めの羊皮紙を取りだし、私の前に置いた。
そして、ミスタ・シルバはどこにそんな力が残っていたのかと思うほど素早く、私の襟首を掴んで引き寄せた。
「お前の獣は、ただ眠ることを許されていただけだ。何も、変わらない。天竜人も、海賊も、島民どもも、俺も……お前も」
呪いの言葉を残し、男はそれっきり何も言わなくなった。