塩の柱となったロトとその妻。
 闇を覗いたプシュケー。
 そして、破滅の娘パンドラ。

 『見るなのタブー』は繰り返される。

 失うのは新しく手に入れたものだけではない。好奇心はネコを殺し、人を殺し、世界をも殺す。
 開けてしまえば、もう戻れない。
 今になってようやくわかる。失いたくないのなら、あの時、問いに応じてはいけなかった。

 “Who are you? ”

 その呼びかけに応えたとき、私は禁忌を犯したのだ。



chapter7 SLEEPING BEAST

95 奴隷商人(Ⅲ)


 ミスタ・シルバがのこした羊皮紙は、遺跡の見取り図だった。私は隠し通路から遺跡の牢のある棟とは反対の場所に行き、ミスタ・シルバの部屋から持ってきたランプを割って遺跡に火を放った。
 海賊たちが慌てふためいている間に、鍵の束を使い、牢の子どもたちを片端から逃していく。

 力なくうずくまっていた子どもが、ひとりまたひとりと牢の外へ駆け出していく様を見ても、私の心は無機質に冷えたままだった。
 達成感はない。それ以外にできることがないから、そうしただけだ。

 ミスタ・シルバの言ったとおりだった。
 子供たちに帰る場所はない。自分を売った親の元に戻ったところで、また売られるか、餓え死にするか。もしかすると、食べ物が与えられていただけ牢の中の方がマシだったのかもしれない。

 重い身体を引きずって、最後の牢を開ける。
 子供たちが走り出ていったあと、私は最後に残った小さな一人を抱き上げた。

イチル……?」
「もう大丈夫だからね」

 空虚な返答だったにもかかわらず、エルルは熱っぽい頬をわずかに綻ばせた。
 
 地上に出ると、黒い煙がもうもうと吹き上がっているのが見えた。食料庫に燃え移ったのかもしれない。
 ミスタ・シルバの部屋は施錠してきた。海賊たちが彼の死に気づくのはもう少し先だろう。

 私はぐったりとしたエルルを背負って遺跡を後にした。
 願ってやまなかった外だというのに、二本の足はぬかるみを歩くように鈍かった。

◇◇◇

 死んだ森を歩いていく。
 人はおろか、獣も鳥もいない。エルルも眠ってしまった。
 眠り姫がいたという茨の森はこんな感じだったのだろうか、と場にそぐわない想像をして、いっそう惨めたらしい気持ちになった。
 何も考えたくない。
 溶けたゴムのように垂れ下がる枝葉からは、死にかけの生き物のような匂いがする。枝の間から見える空は憂鬱な灰色に濁っていた。

「これはこれは、囚われのお姫さま。お供も連れずにお出かけで?」

 声のした方向へ、私はのろのろと顔を向けた。
 困ったときにかならず現れる男―― 煙草屋は切れ長の目を細めて、木々の間に立っていた。
 返事をする気力もない私を見て、彼は「おやまあ、つれないお人だ」とわざとらしく困った声を出した。

「今回はずいぶんとしてやられたようですね」

 煙草屋はまるで見てきたように言った。
 見てきたように―― いや、実際すべて見ていたのだろう。
 気怠い顔の私に向かって、男は右腕を掲げた。

「手紙をお書きになりますか?今ならコイツが運んでくれる」

 煙草屋の腕に羽を休めていたのは、美しい鳥だった。
 海をそのまま映したような羽根。孔雀のような大きな身体に優美な青色をまとったその鳥は、男の頬に長い首をすりつけて、柔らかく喉を鳴らした。

 同じ色を、どこかで見たことがある。

 黙り込んだままの私に、煙草屋は「なるほど」と頷いた。とくに残念がる様子もない。右手を軽く振って、留まっていた鳥を空に飛ばした煙草屋は懐から別の物を取り出した。

「では、こちらを」

 差し出されたのは電伝虫だった。
 ひどく迷ってから、私はそれを受け取った。

「ほかに御用があれば、何なりとお申し付けください」
「……ひとつだけ」

 俯いたまま、ようやく出した声はかすれていた。

「この子を、助けて」

 私の言うことなど予想済みだったのだろう。煙草屋は意味ありげな笑みを浮かべて、私の手からエルルを抱き取った。
 男の腕の中でわずかに身じろぎした彼女だったが、ひどく消耗しているらしく、目を覚ますことはなかった。

 それっきり、何も話す気になれなかった。
 ふたたび黙りこんだ私に、煙草屋は囁くように言った。

「無責任だなんて思う必要はこれっぽっちもありません。これは取引。そうでしょう?」
「お代はいつか、かならずお支払いします」

 遮るようにそう言った。これ以上、何も言われたくなかった。
 頑なな声に、いつも通りの慇懃な笑みが返ってくるかと思いきや、煙草屋は私の言葉に目を見開き、それから頭を掻いた。
 珍しく、本当に困っているように見えた。

「まあ、それはおいおい……今回のことに関しては思うところがなくはないのでね」

 ちらりと遺跡の方を見た商人は、黒髪の狭間に金の耳飾りを揺らして肩をすくめた。

   

 煙草屋と別れてスラムの外れまで来ると、死体がひとつ転がっていた。
 いつだったか、私を泉に案内したあの浮浪者だった。
 嬉しくはなかったが、悲しくもなかった。

   

 私はその後もひとりで歩きつづけた。
 無性に海が見たかった。


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