ぼんやりと海辺に座ること数日、はるか彼方の水平線に小さな影が現れた。
 みるみるうちに大きくなったそれは、音もなく眼前に停泊した。すぐに小さなボートが降ろされて、まっすぐに波間を進んでくる。

 レッド・フォース号は二ヶ月前と変わらぬ姿で、私の帰りを受け入れた。



chapter7 SLEEPING BEAST

96 還らずの海ー黎明ー


 船に戻って数日、泥のように眠りつづけた。
 目が覚めて、運ばれてきた食事を口にし、また眠る。

 昼過ぎに目覚めた私は昼食のトレーに手も付けず、ぼんやりと自室の天井を眺めていた。

 あたたかくて美味しい食べ物があるのに。
 誰にも襲われない安全な寝床があるのに。

 あんなに帰りたかった場所のはずなのに。

 剥がれた爪はもうほとんど治っているのに、今もじくじくと疼く気がする。包帯だらけのだるい腕を持ち上げると布の隙間に地肌が見えた。泥と傷だらけだった手のひらはすっかり綺麗に洗われて、白くやわらかい。

 泥だらけになって、血だらけになった。滴るほど血を浴びて、真っ赤に染まった。
 他でもない、この手が。

 そのさまをありありと思い出しても、身体はもう、震えない。

 血が怖かった。たくさんの血を見ると気分が悪くなったし、怪我や傷の記憶なんてひとつ残らず忘れてしまいたいと思っていた。
 でも今、不快な記憶として思い出されるのは男の手が身体を這ったあの感触ばかりだ。

 無感動にこちらを見下ろす黒い目。
 肌に当たる冷たい黒髪。

 そういえば、彼は死んでしまったのだろうか。

 ふと頭に浮かんだ考えに、真っ暗な海に放り出されたような気持ちになった。
 どうして今まで考えもしなかったのだろう。人ひとりの命のことなのに。

 鉛でも流し込まれたみたいに、胸の奥が重くて冷たい。
 何も知らなかった私はあの時に死んで、ここにいるのは別の誰かのようだった。

 テーブルの上の昼食は冷めきっている。トレーの上にはナイフもフォークもなく、軽い木のスプーンだけがつまらなさそうに転がっていた。
 私の命を守ったナイフは今この部屋にはなく、手の届かないどこか遠くに追いやられている。お気に入りのペーパーナイフはもちろん、いつも使っていた羽根ペンさえ見当たらない。角という角には柔らかい覆いが当てられている。

 いまさら、しないのに。そんなこと。

 ナイフの感触を手のうちに思い起こしながら、私はふたたび浅い眠りについた。

◇◇◇

 次に起きたときは、夜だった。
 昼食はおろか夕食も引き上げられて、部屋の中に見えるのは、背の低いランプの薄ぼんやりとした光だけだ。
 のろくさい動きで上半身を起こすと、明かり窓から海が見えた。
 丸く切り取られた海は、黒々としたインクのように重く静かにガラスの向こうで濡れている。

 しばらくすると雲が流れて、月明かりが部屋の中に差し込んできた。床に落ちた光をたどると、その先に人影が佇んでいた。

 影は私の名前を呼んだ。

イチル

 私が返事をする前に、影は音もなくこちらに近づいて、ベッドに乗りあげた。重い膝で虐げられたマットレスが小さく悲鳴をあげる。
 お互いの姿が月の光に晒された時にはもう、私の身体はそうっと音もなくシーツに押し倒されていた。

 イチル、と頬のすぐそばに吐息とともに声が落とされた。さっき見た夜の海のような、底知れぬ深さを感じる声だった。

 大きな手が私の肩を包むように押さえつけている。背中にはやわらかなシーツの感触がある。

 傷だらけの荒い指がそっと私のシャツに触れて、壊れものに触るようにその襟をそっと横にずらした。月の光と湿った夜気に、痩せた肩がさらされる。
 シャツの隙間から滑り込んできた空気が鎖骨を撫でていったが、寒さはたいして感じなかった。

 男の肩越しの天井には、波面の影がオーロラのように音もなく揺らめいている。

 シャンクスは苦悩に似た吐息を漏らした。シャツをはだけさせた手が、そっと動いて頬に触れた。いつもは熱く燃えるようなそれが、いまは冬の甲板のように固く冷たい。

「忘れたいか」

 返事に声はいらない。ほんのすこし小さく頷くだけで、彼はそうしてくれるだろう。
 
 シャンクスは私の瞳を見ずに、ただ私の首すじに当たる光だけをじっと眺めている。勇ましくて強いはずの琥珀色の瞳は、今はただそこにあるだけだ。
 それが、ひとしずくの湧き水のように、心の水面を打った。

 ああ、この人は。
 あんなことをした私に。
 こんな私に、ここまで――

 頬に当てられた大きな手のひらに、手を添えた。
 そうして、私はそれをゆっくりと引き離した。
 ぴくりとまぶたを動かした彼に、私は目を伏せて頭を横に振った。
 
「いいのか」

 男の声は掠れていた。
 それでも私は、力を振り絞って、力なく頷いた。たったひとり、遠い道のりを歩いてゆかなければならないような気持ちだった。
 私もまた、掠れる喉から声を発した。

「かわりにひとつ、お願いがあるの」
「お願い?」

 耳元でつぶやいた内容に、シャンクスはほんのすこし驚いたような顔になったが、瞳を伏せて言った。

「お前がそれを望むなら」

 ベッドから身体を起こしたシャンクスは、入ってきたときと同じように音もなく部屋から出ていった。

 水面を映す月のひかりが、天井でゆらゆらと揺れていた。

◇◇◇

 一週間後、船はふたたびハラントゥーガへと戻った。
 汚れひとつない淡い色のワンピースを着て、明け方の浜辺に降り立った私は、そのまま誘われるように波打ち際を歩きはじめた。シャンクスは、数歩あとから着いてくる。

 日の昇りきらない朝の海は、ガラスでできたナイフのように清冽だ。
 ほんのわずかな人々だけが住む小さな島の海岸は、あのスラムと同じ世界にあるとは思えない美しい場所だった。

 もう一度だけ、ハラントゥーガに行きたい。
 それが私の願いだった。

 レッド・フォース号が見えなくなるまで歩いたあと、履いてきたお気に入りのサンダルを脱いだ私は、まだ冷たい岩の上に腰掛けた。海を眺めながら着いてきていたシャンクスは、やはり私の数歩手前で立ち止まった。

 空のとても高いところに、鳥が一羽飛んでいる。

「きれいな朝だね」
「ああ」

 シャンクスの相づちは、打ち寄せる泡波のように穏やかだった。

「今までいろんな島を旅してきたね。見たこともない生き物がいる島、不思議な風習の島、追いかけられたり、追いかけたり……シャンクスはもっと色んな経験をしてきたんだろうけど」

 そうだな、とシャンクスは海を見つめたまま言った。その横顔は、いつもと変わらず気高く孤独だ。

「いろんなものに見て触れて。それでも、私は何も知らなかった」

 彼は、その通りだ、とも、そんなことはない、とも言わなかった。彼はいつだって私を追い詰めない。

「あのね」
「……どうした?」
「私、人を刺しちゃったんだ。ちゃんと確認はできなかったけど、もしかしたら、もう死んじゃってるかもしれない」

 シャンクスは答えないかわりに、夜明けの海から目を離し、こちらに顔を向けた。

「ずっと思ってた。私はいつだって被害者なんだって。振り回されて、傷つけられて。弱くて何もできない人間は、強い誰かの下敷きになるしかないんだって…でも。でも、違った」

 私は爪を立てるように手を握りしめた。治ったばかりの指先がわずかに痛みを訴える。

「弱い人も加害者になる。弱い人ほど、人を傷つけるんだよ」

 雪の降り積もるあの島で、海賊の何たるかを思い知った。人を傷つけ、傷つけられることでしか生きられない生き物。闘争を糧とし、危険を枕に夢をみて、逸脱と奔放を纏う者。決して相容れることのない『強者』。

 罪のない『弱者』を踏み潰す『強者』のエゴが許せなかった。人を傷つける行為も、それをする人の意思も理解できない。 
 ずっと、そう思っていた。

「やっと、わかったの。私は『しない』んじゃなくて『できない』だけだったって」

 罪なき弱者? 
 力がないから、人と助け合って生きるしかなかっただけだ。人を傷つけるだけの力がないから、人を傷つけずに済んでいただけだ。人を傷つけなくても生きていける場所に生まれたから。思いやるだけの余裕を与えられてきたから。
 それどころか、この世界にやって来ても、私はたくさんの人たちにすがって、泣いて、助けを請うて。そうやって『善良に』生きてきた。

 わかったつもりだったのは、私だけだった。
 皆は、私がわかったつもりになっていることすら、わかっていた。
 ドルテン先生も、青キジも、奴隷商人も。
 シャンクスも。
 
 そう思うとたまらなくなった。私は岩から飛び下りた。裸のふくらはぎに水面が弾けて、スカートの裾が花びらのように波に浮かんだ。

「ほんの一瞬だったけど、私、思っちゃったんだよ」

 懺悔でも告解でもない。
 私が目の前の男に赦しを請うことは永遠にない。彼は許すことはできても、赦すことはできない。そんな権利は持ち得ない。いや、彼に限ったことじゃない。人であれば誰もがきっとそうだろう。
 だからこれは、ただの、独白だ。

「私、思っちゃったんだ。『しかたない』って」

 私が『善人』だったのは、私の善性によるものではなかった。
 私が『善人』でいられたのは―― 『悪人』にならずに済んだから。たったそれだけだ。

「力があれば『強い』んじゃない。力があってもなくても、弱い人間は『弱い』んだ」

 弱さ故に、人は人を傷つける。
 あの時、ためらわずに人を刺した、私のように。

 自分の身を守るためなら仕方がない。戦わなければ生きていけない。ここはそういう世界だ。
 生き延びるためには仕方がない。
 皆やっているから仕方ない。
 皆やっているから――

「良いわけない!どんな理由があっても、人を殺していいわけないのに!」

 私は水を跳ね飛ばしてシャンクスに近づいた。襟首を掴み、その巌のような肩を揺さぶった。
 
「なんで!?どうして!?シャンクスくらいの力があったら……シャンクスくらい強かったら!」

 喚こうとも縋ろうとも、シャンクスは微動だにしなかった。
 今にも崩れ落ちそうな私の身体を支えることもせず、その場に佇んでいる。どんなに強く訴えても、その体はびくともしない。私の行為は、岸壁に打ち付けるやるせない飛沫のようなものだった。

「あなたも私も弱い!だから、誰かを傷つける!」
「……ああ」

 シャンクスは浅瀬に佇んでいた。女のわめき声によって、薄汚れたシャツはいっそうくたびれて、まぶたにかかる赤い髪は乱れていた。軽装の腰には、彼が普段使っている物のうちでも最も華奢な短剣がある。だが、それは私の使ったナイフより遥かに長くていかめしい。

 彼は海の遠いところを見つめていた。
 取り戻せない何かを、今も追い続けているかのように。

「どうしてなのかな」

 特に大きな声ではなかったのに、浜辺に響き渡るようだった。
 じわりと鼻の奥に血の味が香る。噛んでいた唇を離し、うつむいた。
 
 どうして彼は海賊なんだろう。どうして彼はただの冒険者じゃなかったんだろう 。
 どうして、もっと簡単に笑いあって、一緒にいられる相手じゃなかったんだろう。
 どうして。どうして。どうして。

 海賊は。
 自分のために戦い、誰かを傷つけることを厭わない。生きるために戦うのではなく、戦うために生きている。
 獣だったころの本能に身を委ね、人としての枷を自ら好んで外した生き物を、隣人になんてできない。共存なんてできない。

「どうして、なんだろう?」

 シャンクスはのろのろと頭を動かし、こちらを見た。目元には疲れた影がある。

 海賊じゃない彼は、彼じゃない。
 なのに。なのに。
 海賊じゃない彼は、彼じゃない―― だからこそ。
 どうして。
 なんで。
 わかってるのに。
 
 どうして。

「どうして、捨てられないんだろうね」

 嗚咽とともに溢れた言葉に、シャンクスが息を詰める気配がした。

 いつからか、ずっと音がしていた。
 したたり落ちる雫の音だ。
 ぴちょん。ぴちょん。
 水面はまだ見えない。でも、聞こえる。

「ずっと忘れてたのに。シャンクスが誰を殺すの見て、怖くて悲しくて苦しくて。全部なくなっちゃったと思ってたのに」

 波紋が広がっていた。
 枯れた泉の底で。小さく。かすかに。

「一度思い出したらさ、あとからあとから湧いてきて、なくならないの」

 シャンクスが部屋に来た夜、黒くしずかな海から流れ戻ってきたたくさんの思い出。記憶。言葉。
 きれいな色をした箱に大事につめて、深くて冷たい海の底へ沈んでいったはずの記憶は、いつしか私の心をいっぱいに満たしていた。
 胸を締めつける懐かしさとともに。

 そうだ。記憶を持っていくのは、海の女神なんかじゃない。

「詭弁だよね。矛盾してるよね……自分でもわかんない。でも、またこうやってシャンクスに会えて、シャンクスが海賊でも人殺しでも、もうどうでもいいやって思ったんだ。シャンクスが今まで誰かにやってきたひどいことを、全部私にやったとしても、私はきっとシャンクスのことを嫌いになれない」

 シャンクスは呆然と立ち尽くしている。私は浅瀬を歩き、彼の前に立った。
 重く垂らされたその手を取り、両手で強く握りしめる。
 ああ、なんてあたたかく、強くて弱い手なんだろう。

 私はこみ上げてくる感情のままに笑った。

「だって、シャンクスは私の親友で、家族で……誰とも比べられない大事な人だから。今までも、これからも」

 傲慢で残忍な海賊も、海を彷徨う孤独な男も、文通相手を怖がらせないように『冒険者』と名乗った優しい少年も、全部ひっくるめてシャンクスだ。
 寄せては返す記憶の波が、教えてくれる。
 
「シャンクス。海は広くて、優しいね」

 宝物のように抱えた手に、音もなく雫が落ちる。頬を伝う海のかけらは、塩辛くあたたかかった。

◇◇◇

「さて、船に戻るか」

 昇ってきた朝日を浴びながら、シャンクスはゆっくりと伸びをした。ジャブジャブと脛で景気よく海水をかき分けて歩きだす。が、すぐに立ち止まった。

「あー、なんだ、その」

 首をかしげる私に、シャンクスはあらためて「あー、そのー」と口ごもってから、ためらいがちに手を差し出した。ちらちらとこちらを伺う瞳の色は、水面に映る太陽と同じ、明るいはちみつ色だ。

「歩きづらいだろ。その、もちろん、嫌じゃなければ……だが」

 小さく背中を丸め、こちらの返答を待つその姿の、なんと心揺さぶられることか。
 正面から向き合えなかったこれまでを、あらためて申し訳なく思った。

「嫌じゃないよ。今までごめんね、シャンクス」

 傷だらけの分厚い手のひらを握りかえすと、ほっとしたように大きな肩から力を抜けた。
 手を引かれて海岸を歩いていく。

「あ、サンダル」

 足裏に直に伝わる砂粒の感触に、脱ぎ捨てた履物のことを思い出した。見れば、波打ち際で今にも流されそうになっている。慌てて戻ろうとしたが、次の一歩が出る前に、太い腕が膝裏から私の身体を掬い上げた。

「こっちの方が速い」

 ひと一人を片腕で軽々と抱えたシャンクスは大股でスタスタと歩いていって、足の指を器用に使ってひょいとサンダルを拾い上げた。受け取ろうとした私を遮って、彼はそれを己の片手に引っ掛ける。ぷらんと指先からサンダルがぶら下げた彼は、私の顔を覗きこみ、さっきよりかはずいぶんと元気になった声でさっきと同じ言葉を繰りかえした。

「嫌か?」

 履物を返してくれる気はないらしい。

「嫌じゃないけど……重くない?」
「俺に向かって、そんな心配をするのはお前ぐらいだ」

 笑いを噛み殺したような声が返ってくる。

「それに、どうせ誰も見てない」

 観念した私は、その首に腕を回し、落ちないようにしがみついた。シャツ越しの胸に頬を当てると、確かな呼吸とともに、荒い海と鉄の匂いがした。

「ねえ、シャンクス。もう一回だけあそこに行っちゃだめかな」
「あそこ?」
「ハラントゥーガの遺跡があった場所」

 シャンクスの瞳がちらりとこちらに向いた。

「何もなかっただろ」
「うん、それでも……」

 なんとなく渋っているようなシャンクスに、私は「嫌?」と意趣返しのように聞きかえした。結果的に自分の首を締めることになったシャンクスは、肩をすくめた。

「嫌じゃないさ。仰せのとおりに、お姫さま」

◇◇◇

 仄白いレイン・オリーブの森には、あいかわらず平和と静寂が満ちていた。
 シャンクスの健脚は傾斜や凹凸を少しも苦にしない。海賊たちの後を汗だくになって追いかけた前回とは打って変わって、抱えられたままの私はあっという間に目的地にたどり着いた。

 森の中にぽっかりと開いた空間。
 かつて遺跡が存在したというその場所は、朝の光が満ち満ちて、あっけないほど何らの神秘も帯びてはいなかった。
 地面に降りたいと伝えた私は、サンダルを受け取ってきっちりと足にはめると、その場から歩きだした。

 下り坂になった獣道をたどり、林の中に分け入っていく。記憶が正しければ、そんなに遠くはなかったはずだ。

 前にここを走り抜けたとき、私の心は絶望でいっぱいだった。本当の絶望はそんなものではないというのに、泣いて喚いて。何も知らなかったころの自分が、顔をぐしゃぐしゃにしながら視界の端を駆けていく。
 たった二ヶ月前のことなのに、何年も昔のことのようだ。

 そうしてしばらく歩いたあと、それは眼前に姿を現した。

 林の奥の小さな泉。
 人の手垢のつかないそれは、最初に見たときと寸分変わらず、真っ青に澄んだ水をたたえていた。

 水盆を覗きこむと、うっすらと揺れる水面に自分の顔が映った。その更に奥、一メートル程度の深さの水中には、真っ白の石が沈んでいる。コーヴランの墓標だ。

 ハラントゥーガに存在するとされた古代都市ナルヴァド。コーヴランは、ついぞ探し求めたものにたどり着くことはなかった。
 彼がハラントゥーガに到達した四百年前、ここにはまだ遺跡が現存していた。だが、それは彼の求めたナルヴァドではなかったのだ。

 でも、本当に?

 泉の水に手を浸す。見知った女の顔がかき消えて、白い墓標の輪郭だけが水底でゆらゆらと揺れる。

 だったらどうして、コーヴランは『古き海の冒険』を書いたのだろう。ハラントゥーガに何もないなら―― ナルヴァドが実在しないなら、比喩に託した道案内など必要なかったはずだ。

 『何者も、何物も、届くことはない』

 己が墓標にそんな言葉を刻ませたその絶望は、いったいどこから来たのだろう。
 ナルヴァドが実在しなかったという事実?
 
「……違う」

 違う。違う。きっとそうではない。
 はるか昔、言葉が、文字がこの世に現れたのは、人と人とをつなぐためだ。
 人はいつだって、誰かに何かを伝えたいから、ペンを取る。

 だったら、私は何を受け取ればいい?

 水底に沈む墓標に問いかける。その白い背には老いた冒険者の最期の言葉が刻まれている。
 コーヴランが遺したものは、きっとまだここにある。

 私はそっと目を閉じた。
 さざめく木々の声の合間に、湧水の音がする。ちゃぷん。
 泉の姿が脳裏に浮かぶ。冷たく、清く―― 青い。碧き泉の底には白い墓標が眠っている。
 白と青の美しいコントラストを見て、ふと、記憶が蘇った。

 ―― 水墓に眠りて死者を抱く。

 それは何度も何度も、覚えるほどに繰りかえし読みこんだ『古き海の冒険』の一節だった。


 神降りし地ハラントゥーガ
 鳥歌い、泉あふるる常世の楽園

 入らんと欲せど紺碧の谷、風に黙して生者を拒む
 詞むすびし古の神、水墓に眠りて死者を抱く

 神求めし地ハラントゥーガ
 鳥歌う、いきてはかえれぬ果ての国


「水墓に眠る……?」
 
 どくん、と心臓が鳴った。
 前にこの詩について訊ねたとき、ベックマンは何と答えたか。

『彼の島を外部から隔絶せしめる青き谷、それは“凪の帯”だ。ハラントゥーガは正確には“偉大なる航路”ではなく、“凪の帯”に存在する』

 “紺碧の谷”や“風に黙して”という言葉には、そういう意味があったのかと、何度も感心したではないか。
 どうして、考えもしなかったんだろう。
 対となる一節にもヒントが隠されているかもしれない、と。
 
 ―― 詞むすびし古の神、水墓に眠りて死者を抱く。

 目を開くと、眼前には白い墓標の沈む泉がある。
 コーヴランの文体は、美しいが無駄がない。そんな彼が、己の墓標を無意味に置き去りにするはずがない。彼の墓標が泉の中にあるのは偶然ではない。
 これは、作られたときからここにあったのだ。

 震える手で足からサンダルを抜き取る。泉の縁に足を掛け、思いきって泉の中に入った。深さは一メートルそこそこ、冷たい水が腰まで覆う。
 コーヴランの墓標は泉の中心部に沈んでいる。

「シャンクス。この石を外に出してほしい」

 私の後ろで黙って見ていた彼は、驚く様子も見せなかった。ざぶざぶと水に入り、片腕で軽々と白い墓石を持ち上げる。
 シャンクスが石とともに泉から出たのを見届けて、私は泉の中央に立った。

 水面が静まるのを待ってから、私はベッドに寝転ぶように水に背を預けた。一瞬、背中を冷たい感触が覆い、慣れた浮遊感が全身を包む。じわり、と水が外耳を浸す音が聞こえたのを最後に、鳥の声も、木々のささやきも、何も聞こえなくなった。
 すこしずつ息を吐き出しながら、まるで死体が沈んでいくように、底へ。底へ。水墓に眠る者だけが、たどりつくことのできる場所に向かって。

 とん、と背中が水底に当たった。
 私は水中でゆっくりと目を開いた。

 眩しい光が降りてきている。
 ゆらゆらと揺れる水面。おだやかな水音が耳元をくすぐっていく。私はそのまま息を止め、光る天井を水底から眺めた。光がやさしく全身を包みこむ。なんて贅沢な棺だろう。

 しばらくすると、潜るときに乱れた水が落ち着いてきた。規則性なく輝いていた水面が徐々に静まりかえっていく。

 呼吸を止める。
 思考を止める。
 時間を止める。
 まるで、棺で眠る死者のように。

 どれほどの時間、そうしていただろうか。

 それは、唐突に現れた。
 鏡のように凪いだ水裏に、ぴかり、ぴかりと光る点。すり鉢状の泉の側面に反射した光が、収束と拡散を繰りかえし、計算された角度でいくつかの場所に集まる。
 水面の裏に浮かび上がったそれは、まちがいなく地図だった。

◇◇◇

 その夜は、クルー全員が上陸し、海辺で宴が開かれた。
 満天の星空の下、火が焚かれ、次々に樽や瓶が空けられていく。久しぶりの陸である。

 まだ身体が本調子でない私は、宴の輪からすこし離れた場所で、ひとりこっそり温かいスープを飲んだ。魚介の味が舌に染み入る。
 夜の海を背景に、赫赫と燃え上がる焚き火が美しい。まるで誰かの髪みたい、と思っていると、まさに想像したとおりの人物が現れた。

イチル

 酒瓶を持ったシャンクスが隣にきても、酒の匂いはしなかった。宴だというのに大して飲んでいないらしい。

「めずらしいね」
「そういう気分なんだ」

 と言って、シャンクスは空を仰いだ。夜の天蓋には、無数の星が瞬いている。見上げる琥珀色の瞳にも、同じく無邪気な星々が浮かんで見える。
 私はため息をついた。

「全部知ってたんでしょ?」
「何が」
「とぼけるつもりなら、ここにあるお酒ぜんぶ飲むからね」

 近くにあった酒瓶に手をのばすふりをすると、シャンクスは「わかった、わかったから」と慌てて態度を改めた。彼に限らず、この船では何故かとても効く脅し文句である。

「この島に何があるかも、コーヴランのお墓の意味も。ハラントゥーガが終着点じゃないって知ってた。知ってて黙ってた。そうだよね?」

 シャンクスは小さく息を吐いたあと、観念した。炎に照らされた瞳が、ちらりとこちらの様子を伺う。一応、気には咎めているらしい。
 
「俺は全部知っていた。何故なら――
「シャンクスは一度ここに来たことがあるから」

 用意していた答えを言うと、シャンクスは微妙な顔になった。こうなる予想はしていたものの、できれば追求されたくなかったという顔だ。
 私はほんのすこし冷えた指先を擦って、話を続けた。

「これまでハラントゥーガにたどり着けたのはたった二人だけ。最初はもちろん、第一発見者のコーヴラン。二番目の到達者は――
「ゴール・D・ロジャー。そして、オーロ・ジャクソン号のクルー達」

 シャンクスは、まつげを伏せて白状した。

「シャンクスもその中に?」
「ああ」

 アンタナ・リボナ島で、ナルヴァ、という言葉を聞いたときから、ずっと引っかかっていた。
 どこかで聞いたことのある言葉なのに、どこで聞いたのか思い出せない。『日誌』を手に入れる前には知ることなどできなかったはずなのに、私はこの世界に来る前から“ナルヴァ”を知っていた。

「西に往きては―― ってな。俺は昔からあの詩が好きだったんだ。イチルへの手紙にあの詩を書いたときは、その後自分が本当にハラントゥーガに行くことになるとは思ってなかったけどな」

 いつかの手紙でシャンクスは私に詩を書いて送ってくれた。コーヴランのあの美しい古詩は、『日誌』を手にした者だけが知りうるものだ。

 シャンクスは少年時代に、ゴール・D・ロジャーとともにこの場所を訪れた。そして、墓標の仕掛けを解き、ハラントゥーガがナルヴァドに至る経由地に過ぎないことを知ったのだ。

「自分でたどり着かなければ意味がない」

 彼はぽつりと言った。

「相応しくない、と言うべきかもしれないな。俺が何もかも教えて導いたとしても、それでは何も手に入らない」
「そのせいで、私が、帰れなくなったとしても?」

 喉に言葉を引っかけながら、私は小さく問いかけた。シャンクスは私の目から視線を外さずに答えた。

「そのときは、それまでだ。自分で進めない道なら、進まない方がいい」

 切り裂くようなひと言だったが、金色の瞳には何のためらいも浮かんではいなかった。彼に大切にされるということは、抜身のナイフで愛撫されるようなもの。それが私にとっても誰にとっても一等良い答えだとまっすぐに信じている。

 ここまでくると、ショックよりも呆れが勝る。一応はそれなりに大事にしている相手に対して『そのときはそれまでだ』などとよく言ったものだ。
 これだから海賊は。というか、シャンクスは。

「はあ……」
「えーと、ごめんな?」
「改善する気のないことは謝らなくていいよ。それに、シャンクスのそういうところ、嫌いじゃないから」

 我ながら、どうしようもないとは思うが。

 私の言葉の何が響いたのか知らないが、上機嫌で尻尾を振り始めたシャンクスを押しのけて、私は持ってきていたジュースの大瓶の蓋を開けた。
 そのまま一気に飲み干すと、近くにいた酔っぱらいクルー連中からヒュウヒュウ無責任な指笛が飛んだ。

「で、シャンクス。話を戻して、コレのことなんだけど」

 袖口で口元を拭った私は、ポケットから折りたたまれた紙を取り出した。それほど大きくはないそれを、破かないようにそっと開く。

 遺跡の泉で、潜っては記憶し紙に書き写すという作業を繰りかえして完成したそれは、全体的にぼんやりとした形ではあるが、やはりどう見ても海図だった。

 三日月型の島を起点に、他にもいくつか島らしき歪な円が描かれている。そして、それからかなり離れたところに、細長い楕円の島がひとつ。
 三日月型の島と細長い楕円型をした島の間は、細い線で結ばれている。中間地点の島を繋ぐようにジグザグに描かれた航路は、まるで図鑑に描かれた星座のようだった。

「この三日月の島が現在地のハラントゥーガだとして、この楕円の島がナルヴァドってことかな?」
「おそらくは」

 シャンクスは、近くを通りがかったコックの一人からいかにも美味そうな見た目の串焼きを受け取りながら答えた。
 妙な返事だ。

「おそらく?行ったことあるんだよね?」
「いいや」

 じゅわ、と脂の染みだす炙り肉にかぶりついたあと、シャンクスは小さく首を振った。「どういうこと?」という私の前で、彼は親指で唇についた脂を荒っぽく拭った。

「行かなかったんだ。俺たちはこの島の先に真のナルヴァドがあることを知ったが、その先には進まなかった」
「なにか問題があったの?」
「船長が『行かない』と言った。行っても意味がない、とも」

 予想外の答えに、私は何と返していいかわからなくなった。
 行けたのに、行かなかった。
 行っても意味がなかった?

「あの時、俺たちには時間がなかった。俺たちの航海は終わりに近づいていた。船長は時間を無駄にしたくなかったのかもしれない。でも、それならハラントゥーガにも来る必要はなかった」

 シャンクスは岩にもたれて、はるか遠くの夜空を眺めている。
 見えない糸に操られるように、彼の唇が、動いた。

「ふと、思うことがある。人が宝を見つけるんじゃない。宝が人を呼ぶんだ、と。オーロ・ジャクソンはハラントゥーガにたどり着いたが、俺たちは呼ばれた者ではなかった。船長はここでそれに気づいて、先に進むのをやめた……のかもしれない」

 そして、あの大秘宝ワンピースに選ばれたロジャー船長でさえそうでなかったのだとしたら。
 シャンクスは呟くように言った。

「コーヴランはロジャー船長とは違って、おそらくナルヴァドに行き着いている。だがきっと、彼もまた呼ばれた者ではなかった。そうでなければ、あんな言葉を遺すはずがない」

 ―― 何者も、何物も、届くことはない
 ―― 約束は果たされず、すべてはここについえた

「真に“ナルヴァ”にたどり着いた者は、まだ誰もいない」

 底知れない言葉に、私は息を呑むことしかできなかった。

「もちろん、すべては憶測だ。本当のところはわからない。だが、今確実に言えることがひとつだけある」

 琥珀色の視線がこちらに戻ってきた。強い瞳に見つめられて、心の水面に波が立つ。

イチルは、コーヴラン、ゴール・D・ロジャーに続き、ハラントゥーガの真実にたどり着いた。先に進み、資格がある」

 思いも寄らなかった言葉に、私はむしろたじろいだ。
 
「いや、私はただシャンクスたちにここまで連れてきてもらっただけで……」
イチルが現れなければ、俺たちは今日ここにはいなかった。あの日、日誌を持ったお前が俺の前に立ち塞がらなければ……いや、あるいはそれよりももっと前から、そうだったんだろう」

 私がドルテン先生から日誌をもらわなければ。
 私がこの世界に来なければ。
 私が、あの時、応えなければ。
 
「出会うはずのなかった者が“ナルヴァ”に出会い、行き着くはずのなかった者がハラントゥーガに行き着いた。これ以上に明らかなことがあるか?」

 彼の目は恍惚として、妖しげな輝きを帯びていた。当てられるようにして、心臓が速まる。
 高まる鼓動を愉しむように、シャンクスは私に手を伸ばし、脈打つ首筋に手のひらを押しつけた。
 ドクン、と水面が揺れる。波に、渦に、飲みこまれる。

「“ナルヴァ”がお前を呼んだのなら、お前は必ずたどり着く。俺たちはその相伴に与るとしよう」


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