丸窓の外にひらひらと白い欠片が舞う。
今の海域に入って一週間ほど経ったが、ずっと雪が続いている。
航海士の話によると、あと二日もすれば次の島の気候範囲に入るそうだ。今のところその兆候はまったく感じられないが。
97 渦は逆巻く
赤くなった指先に息を吹きかけながら、デッキに出た。
一層下の甲板ではクルーが総出で雪かきをしている。今朝方、甲板にこんもりと積もっていた雪はほとんどが掻き崩されて、今やところどころ白い部分が見える程度になっていた。
レッド・フォース号の雪かき作業は、まずスコップで表層の雪や氷をかいたあと、薄く残った雪を温めた海水で溶かすというものだ。
甲板を傷つけないように丁寧に雪をかき集める作業は、屈強な海の男にもなかなかの重労働のようで、ハッ、ハッ、とあちこちで白い息が立ちのぼっている。
ざく、と大きなスコップですくわれた雪が、これまた大きなドラム缶に放りこまれていく。
こうして表層のきれいな雪だけを集めておき、後で濾過して生活水にするらしい。長い航海において、真水はとても貴重なのだ。
ふと気になった私は、デッキで作業を監督している(かつ、いかにも暇そうな)ラッキー・ルウに質問してみた。
「海水を真水に変える道具ってないんですか?」
「あるぞ。海水汲み上げて、濾過して煮沸するやつ。シャワー室の前に置いてるどでかい装置がそれだ」
ルウは左手で掴んだ骨付き肉の先を、指揮棒のようにぴゅっと船内に向けて振った。
「えっと、そういうしっかりした手順を踏むやつじゃなくて……なんていうのかな、前に見たことがあるんですけど、風を噴き出してボートを進ませる貝ってあるじゃないですか」
「ああ、風貝な」
「そうそれ!あれみたいに、不思議な力で海水を真水にする道具ってないのかな、と」
レッド・フォース号は一見昔ながらの帆船だが、赤髪海賊団の潤沢な資金力により、内部はかなり先進的なつくりになっている。この世界特有の不思議な技術も至るところに使われていて、現代日本人の私であっても不便な思いをすることはほとんどない。
そうであればこそ、船内で見かける魔法のような道具たち―― グラスに入れておくだけで飲み物が冷える真珠だとか、濡れた服を一瞬で乾かす扇だとか、電気もないのに明るく光る天井だとか―― のことを思えば、海水を真水に変える何かが当然にあってしかるべきではないか。
私の考えていることを理解したのか、ルウは「なるほど」と巨大な毛玉のようになった体を揺らした。毛皮のついた厚手のコートをまとった彼は、いつもよりいっそう大きく丸く見える。
「そういうのも、あるといえばあるぞ。どっかの、なんつったっけ、ドル?ドル……とにかくなんとかっていう科学者が作ったやつでよ。こんなちっこい袋みたいなのを海水に入れておくだけで、時間が経てば真水に変わるっていう道具だ。めったに市場に出回んねえのをあっちこっち探し回って手に入れたんだよ。いやあ、あの時は苦労したぜ」
「珍しいものなんですね」
「珍しいっつうかなんつうか……そのドルなんとかっていう学者先生、相当な偏屈者みたいでよ、よっぽどじゃなきゃあ人には売らねェらしい。仲介人も売り渋るのなんのって。キッヒヒヒ、もっと作ってバンバン売りゃァ、いい金儲けになんのによ」
「まァ、賢明な判断だとは思うけどな」
いつの間にデッキに上がってきたのだろう、ルウの返答を補足するようにヤソップが言った。ルウと同じく厚手のコートを着ているが、着膨れてはいない。
「アレを手に入れてから、たしかに多少気楽にはなったな。海賊の死因で一番多いのは、水に関係するもんだ。海の真ん中で水が尽きて干からびちまったり、腐った水を飲んで病気になったり……戦いで死ねるやつは贅沢モンってことだな」
話しながらも、視線は手元に向いている。なにやら小さな部品をいじくり回しては、寒風に晒している。低温下での耐久テストでもしているのだろうか。
新たにポケットから取り出した小さなパーツの穴を覗き込みながら、ヤソップは続けた。
「とはいえ、そんなに使い勝手の良いもんでもねェ。数回使えば能力は落ちるし、真水にできる量も限られてる。船の動力が落ちて濾過も煮沸もできなくなったときの緊急用だ」
ようやくパーツの調整が終わったらしく、ヤソップは甲板に目を向けた。甲板上ではいまだにクルーたちが忙しなく働いている。
「だから、こうやって雨や雪から地道に水を集めるのは大事な仕事なんだ。面倒だからって楽なやり方にばかり頼ってっと、いざってときにろくなことがねェ」
ヤソップらしい一言に、ルウが飄々と応じる。
「ヒッヒッヒ、海水を簡単に真水に変えられるなんてことになりゃあ、つまんねえことを考える連中が出てくるらだろうしな。さっきヤソップが言った通り、結局は『賢明な判断』ってこった。イヒヒ」
「つまんないこと?」
「そりゃあ―― 」
言いかけたところで、雪掃除中の若衆がヤソップを呼ぶ声がした。積雪のせいで大砲の挙動がおかしいらしい。
「おうおう、今行く。下手に触るなよ」
ヤソップは高い船首楼から身を躍らせ、濡れた甲板に危うげなく着地した。
あちらの世界であれば、「ヒュウ」と口笛のひとつでも吹きたくなるような身のこなしだが、この海では取り立てて騒ぐようなことでもないらしい。
大砲の様子を見たヤソップは、人手が必要だと考えたらしく、デッキに向かって叫んだ。
「おい、ルウ!テメェも降りてきて手伝え」
「イヒヒ、クソ真面目なこって。んじゃあな」
ルウもまた巨体を軽々と持ち上げて、甲板に降りるかと思いきや、厨房があるほうにスタコラサッサと去っていった。
甲板からはヤソップの叫び声が聞こえる。苦労性の海賊というのもなかなか珍しいのではないのだろうか。
「古代都市ナルヴァドが存在したとされる島―― これからは便宜上、イル・ナルヴァと呼称する」
ベックマンは私が作った例の海図のうち、三日月型の島を指して言った。
今からちょうど半月ほど前、ハラントゥーガを発って数日ほど経過した後のことである。船長室で行われた会議の参加者は、私の他にはシャンクスとベックマンだけだった。
「イチルの描いた海図と、航海用の海図を俺なりに照合してみた。イル・ナルヴァはこのあたりに存在する可能性が高い」
ベックマンは、今度はテーブルに広げた大海図の一点を指差した。
ハラントゥーガで作った地図はかなり簡易なもので、おおまかな距離や方角しかわからない。航海を行うために、現実の情報との照らし合わせは必須だった。
ベックマンが指した箇所は、“偉大なる航路”の中央から、少し南に寄った海域だった。
もちろん、イル・ナルヴァは一般的には伝説上の島だとされている。イル・ナルヴァがあるはずのその場所には何の島影も描かれておらず、羊皮紙本来のつるりとした薄茶色を晒していた。
もっと現代的な、たとえば学校の教科書で見るようなカラーの地図であったなら、鮮やかな青色に塗りつぶされていたに違いない。
頭の中でカラーの地図を想像した私は、前にベックマンにハラントゥーガの件で球体儀を見せてもらったときのことを思い出した。
「ええっと、つまり、ハラントゥーガとは違って“凪の帯”上にはないってことですよね? ということは、ハラントゥーガよりも行きやすい場所なんでしょうか」
イル・ナルヴァがあるという箇所は、偉大なる航路の両端をなぞるラインとは、かなり離れた場所にある。
ベックマンは頷いた。
「その通り。イル・ナルヴァが“凪の帯”上にないというのは間違いない。小島ほどもある海王類に追い回される心配はないだろう」
「じゃあ、今回はわりと安全に―― 」
良い知らせに身を乗り出した私だったが、言い終わる前に背後から声が割って入った。
「が、小島ほどもある“別の何か”に追い回される心配はあるってことだな、ベック? 」
至極楽しそうな声である。私は振り向いて、意地悪な声の主を恨めしく睨んだ。
「すぐそういうこと言う!」
「事実だからな」
会議のメンバーとは名ばかり、シャンクスはだらしなく臙脂色のソファに寝そべっていた。退屈そうに豪奢な金色のタッセルをいじっていた彼だったが、何を思ったか急に立ち上がって、私のすぐ後ろに来た。
「ほら、そこに描いてあるだろ」
「どこ?」
「ここ」
シャンクスはわざわざ私の肩に腕を載せるようにして、海図を指さした。重い。
しかし、ベックマンの手前、これ以上話を脱線させるのも憚られたので、私は黙ってシャンクスの指先を追った。
「この蛇みたいな記号のこと?」
シャンクスが指差した先には、とぐろを巻く蛇のような絵柄があった。よく見れば、地図のあちこちに同じ記号がある。
そして、イル・ナルヴァがあるという海域の付近には、一際大きな蛇が描かれていた。
シャンクスは頷いた。
「イル・ナルヴァの近海は、“太古よりの軛”が最も頻繁に発生する海域だ」
“太古よりの軛”。前にもどこかで聞いた名前だ。
「たしか、ものすごく大きい渦潮なんですよね?」
船に乗るからには―― というより、“偉大なる航路”にいるからには知っていて当然の知識なのだろうが、ベックマンはそれでも教師のように目を細めた。
「ああ。とぐろを巻く蛇は渦潮の印。その中でも、“太古よりの軛”はもっとも大きく危険なもののひとつだと言われている。直径は数十キロ、前触れなく現れては多くの船乗りの命を奪ってきた化け物だ」
「数十キロ!?」
美浜から隣町まで行っても片道八キロ。そもそも鳴門の渦潮がたしか直径二十メートルかそこらだったはず。
「Oh my gosh……」
がっくり落とした私の肩を、シャンクスは労るようにぽんぽんと撫でた。
ベックマンは煙草に火を付け、薄い煙をくゆらせた。
「風よりも速い浪に巻き込まれれば、舵は途端に利かなくなる。“太古よりの軛”の出現に前兆はないが、発生頻度の低い時期はある程度わかっている。時機を待ったほうがいい、というのが俺たちの考えだ」
そして、ベックマンは例のごとく、私が口にする前に私の疑問に答えてくれた。
「もちろんレッド・フォースは並の船じゃねェ。船も、クルーもな。だから、浪や風を壊して強引に進むこともできなくはない」
「が、船乗りの友は浪と風、ってな。浪や風に嫌われるような真似をするとろくなことがねェ。ロジャー船長曰く、『波風を立てるな。浪と風だけに』」
ハハハ、と白い歯を見せて笑うシャンクス。予期せず、伝説級の偉人のオヤジギャグを耳にしてしまった私は、その名言もとい迷言をそっと心のポッケに封印した。身内って怖いね。
「とにかく、イル・ナルヴァに向かうのはもう少し先になるってことですね」
「あと三ヶ月だ。三ヶ月すれば潮流が弱まって大渦が発生しにくい季節になる」
わかりました、と頷いた。
以前の私なら、帰り道探しが遅くなると聞けば、相応に焦りと不安を感じただろう。だが、今は不思議とそういう気持ちにはならなかった。
元の世界に帰りたいという気持ちは変わっていない。むしろ、帰らなければならないとさえ思っている。
だが、前のように帰ることだけをがむしゃらに考えることはできなくなった。
私はたしかにこの世界の異物だ。でも、触れればすり抜ける幽霊ではない。私の言葉は誰かに届き、私の行動は誰かに影響を与える。
そのことを当の私が無視してはいけないと思うようになったのだ。
「お、食堂の鐘が鳴ったな」
シャンクスが切り上げるようにパチンと膝を打った。
「さて、腹が減ってはだ。メシ食いにいくぞメシ。あー、頭を使うと疲れるなァ」
「ずっとゴロゴロしてただけじゃん……全部説明してくれたのベックマンさんじゃん……前だって海図の見方を教えてやるとか言って結局ヤソップさんが―― 」
「時にイチル、今日の昼メシは?」
「えっ、お昼のメニュー? アカメノ……なんてったっけ……ツボタコ?のソテーだって言ってたよ。ほら、一昨日捕まえたでっかいやつ」
「アカメノツボイワオオタコだな。オレンジ色のでっかいやつ」
「それそれ。ここの魚介類、名前が長くて難しいんだよねえ」
「こんだけ海が広けりゃな。生き物の種類が多いほど、名前も増える。見つけたやつが勝手に自分の名前付けたりするしよ」
「へえ……じゃなくて。話変わってない? シャンクスのサボりの話は?」
「ちなみに俺が新種の魚を見つけたら、アカゲノヨンコウスゴスギウオとかにしたい。お前が見つけた魚はマイゴノコムスメチョロスギウオだな。な、ベック」
私たちのやり取りを聞いていたベックマンが、笑いとともに煙を吹き出した。
「二人揃うとまるっきりガキみてェな会話しかしねェな、あんたら。さっさとメシ食ってこい。俺は資料を片してから行く」
ほいよ、とシャンクスは調子良く答えて、私の手を引っ張った。デッキに出れば、白く輝く海とまぶしいくらいに青い空が出迎えてくれる。
騒がしくなってきた食堂を目指して、私たちは少し慌てて階段を降りた。
が、案の定、足を踏み外しかけて、太い隻腕のお世話になる。
「お前は、ほんっとに……」
「まあまあそう言わずに。よっ、アカゲノヨンコウスゴスギウオ」
「……もっと言って」
「アカゲノオッサンチョロスギウオ」
「良い度胸だ。俺手づから海のもずくにしてやろう」
「やめっ、ちょ、ごめんて!ギブ!ごめーん!」
「ごめんですんだらインペルダウンは要らねェ」
「じゃあ、せめて藻屑にして!」
食堂に向かう途中のクルーが、シャンクスにシメられる私を見て、腹を抱えて大笑いしている。陸が近いのか、その頬を掠めるようにして海鳥の翼が白くひらめくのが見えた。
私は、今日もやっぱり帰れない。
それでも、私は今日もこの世界で、食べ、眠り、生きている。