98 悪童の教え(Ⅰ)
「脇がガバガバだぞ!ほら!」
脇腹に強い衝撃が来て、ひっくり返る。なんとかギリギリで受け身だけは取ったものの、敵はすぐそばまで迫っていた。
目を閉じるよりも早く、頭の上にナイフが振り下ろされた。
「はい、死亡」
ぽかりと頭頂を打ったそれは、もちろん木製の訓練用だ。だが、私は頭を抱えて床にへたりこんだ。
「痛い……もう無理……」
「痛くねェ。ちゃんと手加減してんだからよ」
「ちぇっ」
「見えないところで舌打ちすんな」
ウォーカーはもう一度、ナイフの先っぽで私の頭を小突いた。たしかに、絶妙に手加減されていて、引っぱたかれたところよりも転んで打った膝の方が痛い。
「ごめん、冗談だって。でもさ、この三十分でもう二十回くらい繰り返してる気がするんだよね。立ち会いから地べたにダイブするまでの、このスムーズな流れ」
「通算392回目な」
「たった一週間で四百回近く死ぬなんて、哀れだねイチル」
「正確には後半の三日でその数字……前半は筋肉痛で死亡……」
ウォーカーが通算の数字を述べると、横で見ていたフライとダンピアが哀れむような視線を寄越した。
彼らから訓練を受けはじめて、かれこれ一週間になる。ダンピアの言うとおり、週の前半は筋肉痛でまともに動けなかったので、実働日数は三日ほどだ。
現時点では、392回も粘っている自分を褒めてやりたい気持ちが半分、392回やっても何も変わらない自分にげっそりする気持ちが半分といったところだ。
ウォーカーがため息をつく。
「わかる、わかるぜ。お前の気持ちはよ。だからこうしてわざわざ訓練に付きあってやってるんだし。でも、こういうのはやっぱり向き不向きってのがあってだな」
「あるよね、得意不得意」
「得手不得手……」
三人組が異口同音に言う。
まあ、そうだろう。彼らからすれば、とびっきりの運動音痴が今になって「強くなりたい。稽古をつけてほしい」と言いだしてきたのだから。なお、私の名誉のために言っておくと、向こうの世界の水準で私の運動能力は人並みである。
「そこまで言うならさ! なんかこう、運動能力とか関係なく使える技ってないの? 前に鬼ごっこでシャンク……じゃなくて、船長がやってた『ドゥゥン!』って気合いで敵だけを気絶させるやつ」
「あーはいはい、覇気ね、覇気」
ウォーカーは耳の穴を小指でほじったあと、フウッと気怠げに指先のゴミを吹いた。
そして、叫んだ。
「無理に決まってるだろバカァ! 船長は世界でも三指に入る覇気の使い手なんだぞ!あんな真似、七武海クラスでもそうそうできねェわ!」
「そ、そうだったんだ! 私、あれ見るまで覇気のこと知らなかったから、てっきりそんなもんなのかと……一番近くにいたのに私のことは通り抜けて、他の皆だけ気絶したから便利だなあって。いつか私もやってみたいなぁって……思ってたんだけど……どうやら違うみたいだね?」
途中から、三人がそれぞれ現代アート像のように苦悩しはじめたので、私の語尾は悲しい感じに終わった。
「生まれてはじめて経験したのが“四皇”の覇気で、それも特定人だけすり抜けさせるとかいうレアパターンだった場合、こういうやべェのが爆誕しちまうんだな……」
「ねえ、覇王色の覇気って普通の女の子が『便利そう! あれしたーい!』って憧れる感じのものだったっけ? え? 俺の言ってること間違ってる?」
「環境の暴力……」
いつもの『これだからイチルは』大会が始まってしまいそうだったので、慌てて自分をフォローした。
「いやいやいやっ、まぁそうだよね。船長は特別だもんね!? でも、レッド・フォースだとほとんど皆使えるんでしょ? ってことは、習得法も確立してそうだよね。そういうのをちょこっと知りたいなって―― 」
「ない。ありません」
にべもない。
「じゃあ、大衆向けの小技とかは……?」
言った途端、皆が俯いた。ウォーカーの肩がぷるぷると震えはじめる。
あっ、これ良くないやつ。
「お前は本当によォー! 覇気は身体を完璧に使いこなせるやつが、さらに鍛錬を続けた先に習得するもんなの! 使えるだけでも相当すげえの! 中小海賊団なら船長でも覇気使えねェことなんてざらにあるんだからな! 大衆向けの覇気ってなんなんだよ!」
「さすがイチル、相変わらず“偉大なる航路”を舐め散らかしてるな……」
「おそろしい子……」
常識人ウォーカーは「ウガー!」と狂人のように叫び、フライとダンピアは揃って危険物を見るような目を向けてきた。
そんなに? そんなに常識のないこと言った?
私は肩をすくめた。
「わかったよ。ラクするのは諦める」
「そうしてくれ。いろいろと追いつかねェ」
「私ボケキャラのつもりないんだけどな……まぁ、『強くなりたい』っていうのも言葉の綾だしね。ただ、自分の身くらい自分で守りたいなって思って」
いや、守れたら嬉しい。いや、いつか守れたらいいのになぁ、と、どんどん尻すぼみになりながら、私はちょっと遠くの空を見た。自分で言いだしたことながら、さっそく無謀の香りがする。
「ねえねえ、私って具体的にどこがダメ?」
「どこがどうっていうよりもなァ。根本的に」
「希望なし……」
ウォーカーとダンピアが目を合わせてため息をつく。しかし、ぱっと手を挙げた者がいた。フライである。
「そうそう、それについて! 実は俺、さっき気づいちゃったんだよ。誰から見ても、イチルが全然伸びそうにない理由」
意外な人物の意外な発言に、ウォーカーをはじめ皆が首を傾げた。
「体力と運動センスの圧倒的欠如だろ?」
「俺もそう思ってたんだけど、そういうのはやっていくうちにある程度改善できるだろ。実際に動き自体はちょっとずつ良くなってる。だから、それが根本原因じゃないんだよ」
こちらに向きなおったフライは、私の目を覗きこむようにして言った。
「ねえ、イチル。なんで攻撃しないの?」
「え?」
「これまで一度もウォーカーにナイフを向けてないよね。慣れてないから上手くできないだけかと思ってたけど、たぶんそうじゃない。イチルにはそもそも攻撃する意思がまったくないんだ。違う?」
私ははっとして、手の中の訓練用ナイフを見下ろした。
「力を持たない人間が、敵から身を守る方法は大きくわけて三つだ。ひとつめは抵抗しないこと。ふたつめは、とにかく逃げること。でも、相手の要求に応じることで余計に危険な目に遭うこともあるし、力や技術で勝る相手からは、そもそも逃げきれないことも多い。だから、みっつめはもっと確実で手っ取り早い方法だ。わかる?」
視線が自然と床に落ちた。わかっている。私はそれを知っている。
私は息を吸って、小さく答えた。
「……相手を、殺してしまうこと」
「そうだ」
フライはあっさりと頷いた。
「実際のところ、人を殺すのに大層な力や技術はいらない。イチルみたいに無害そうな人間ならなおさらね。油断させたところに、こっそりナイフを取りだして、急所を力いっぱい刺せばいい。それで大抵の相手は死ぬ」
「……そうだね」
私は、静かに息を吐き出した。人を殺すのに力や技術は要らない。覚悟すら要らない。
必要なのは“状況”だけだ。
フライは諭すように言った。
「どんなに努力したところで持って生まれた限界を超えることはできないよ。この海でイチルにできることは限られてる。だから、イチルに死んでほしくない俺たちとしては、確実な方法を教えるべきだと思ってるわけ」
「うん」
「でも、イチルは相手を殺さないどころか大きな怪我もさせないで、そのうえで自分も生き延びたいと思ってるんだろ?」
あえてはっきりさせずにいたことを眼前に突きつけられて、喉の奥が締めつけられた。
それでも一応、唇を噛んで悪あがきのように言ってみる。
「でも、その……殺してしまったら、敵の仲間に報復されたりして、余計に危険じゃないのかな」
「普通はね。だから皆、おとなしく相手の好きなようにさせるんだよ。奪われるものがあっても、命さえ助かれば、って。でも、イチルは違う。船にさえ逃げ戻ってこられたなら、どんな奴らがどんな報復を企もうが、何の意味もなさない。わかるだろ?」
私の身は絶対的に守られる。“四皇”の―― “赤髪”の庇護の下にある限り。
何から何までフライの言うとおりだった。
私は今度こそ観念した。
「ごめん。私、中途半端だった」
俯いてしまいそうなのを堪えて、顔を上げる。
「そのあたりのこと、わかってたのにあんまり深く考えないようにしてた。失礼なことしてごめん。皆は真剣に受けとめて協力してくれたのに」
誰も傷つけずに、自分の身を守る。それがいかに現実とかけ離れた願望なのか。頭のどこかでわかっていたからこそ、『強くなりたい』という曖昧な言葉で誤魔化してしまったのかもしれない。
私は告白した。
「私、たぶんまだ、覚悟できてないんだ」
すでに人を刺してしまった人間が口にして良いことではないだろうが。
自分で言っておきながら、情けなくて背中が丸まった。
「ンなこと、別にどうでもいいんだよ」
ウォーカーの、灰色の目がこちらを向く。狼のような強い瞳だ。
「誰もお前に、そういう覚悟は求めてねェ。船長たちだけじゃなくて俺らだってそうだ。そもそも、覚悟できてるとかできてないとか、そんなことはイチルの心の中の問題で、俺らが口を挟むようなことじゃねェんだよ。フライが言ってんのは、ちゃんと話せ、ってことだ。イチルがどうしたいかで、俺たちのやり方も変わってくる」
ダンピアと共にフライがうんうんと頷く。
「さっきも言ったとおり、イチルの希望を叶えるのは簡単じゃないよ。ただでさえ、女ってだけでハンデがあるのに、そういう制約までついちゃうとなるとさ。でも、俺たちはこれでも“赤髪”のクルーだし。なあ、ウォーカー」
フライの言葉にウォーカーはため息をついた。
「ほんっとに面倒なやつだよな」
「……ごめん」
「謝んなって。褒めてんだよ」
ウォーカーが残りのふたりに視線を投げかえす。フライとダンピアはそれぞれのやり方でニヤリとしてみせた。
「簡単じゃないほうが面白くていいだろ? ま、元悪ガキの本領発揮ってとこだ。力も技術も覚悟もないヤツの戦い方ってやつを、とことん叩きこんでやるよ」
「にしても、お前って賢そうな顔したアホだと思ってたけど、意外と考えててびっくりした」
「意外な知性……」
ウォーカーとダンピアが、感心したような視線を向ける。向かう先はもちろんフライである。
「え、ふたりの中で俺ってそんな立ち位置だったの? 三人組の頭脳枠のつもりだったんだけど」
ぎょっとした顔のフライに、ウォーカーがやれやれと首を振った。
「痩身優男イコール知的、っていう安直な発想しかできない時点で、お前に頭脳キャラは無理だ」
「な……! そんなことないもん!」
「そんなことある」
「俺が頭脳担当、ダンピアが真面目担当、ウォーカーが筋肉担当! これで完璧だろ?」
今度はウォーカーが目を剥く番だった。
「ハァ!? テメェ何にもわかってねェな!」
「い、いきなりでかい声出さなくても―― 」
「いいか、長編になるほどストーリーよりも登場人物の魅力が物をいうんだよ。主人公だけじゃなくサブまで作りこまなきゃ読者はついてきてくれねェ! 今時見たまんまのキャラ付けじゃ生き残れねェんだよ。もっと属性を盛れ! 世は大ギャップ時代だ! わかるか!」
こだわりがマシンガンのように連射される。瞳孔をかっ開いたウォーカーに怯えたフライは、隣にいたダンピアにすがりついた。
「わーん、ダンピア! ウォーカーがおかしくなってるぅ」
「いつものこと……ウォーカーは創作過激派……そして時々オカン……」
ダンピアはダンピアでなかなか聞き捨てならないことを言っているが、白熱しているウォーカーの耳には届かない。
「主人公だけじゃない。悪役にもサブにもちゃんとファンがつかなきゃなんねェ。理想はあいつもこいつも全員大好きってやつだ!」
ウォーカーが、ドン! とSEが入りそうな勢いでそう言い放つ。
すると、これまでいまいち反応の薄かったダンピアが、突如ぴくりと肩を揺らし、怪しげな専門用語をこぼした。
「全員大好き? つまり……『箱推し』?」
「ああ。『箱推し』ってのは知らねェが、全員まとめて大好きってことが大切なんだ」
その途端、ダンピアがカッと目を見開いてウォーカーを見た。
「箱推し……!」
「わかってくれるか、ダンピア!」
「わかる! とても尊い……! ほのぼの日常オールキャラ!」
方向性は違うが、なんとなく同志の匂いを嗅ぎ取ったふたりはがしりと熱く握手を交わした。
「イチル俺、急に疎外感が。もしかして三人組解散?」
すがるような目でこちらを見てくるフライに、私は遠い目になった。
心配。
赤髪海賊団の未来が、とても心配。