車窓から青々とした山並みが見えた。悠々と翼を広げたとんびが一羽、円を描いて飛んでいる。
がたんごとん。
電車が揺れる。
古い車体が震えるたび、稲穂色の髪がさらりと動く。きれいに尖った顎は、控えめな様子で下を向いている。
空をそのまま映したような瞳。
縁取るまつげが、とんびの翼のようにゆっくりと空気をかく。
芸術品のようなそれらが一途に向かう先は、対面にいるトウコではなく、手元に広げた新聞だ。
がたんごとん。
降谷は唐突に言った。
「最近はあんまり聞かなくなったな」
がたんごとん、と断続的に身体を揺らす振動音。「この音ですか?」と訊き返したトウコに、向かいの男は新聞から目を離さず、独り言のように答えた。
「こういう古いローカル線とはちがってさ、都会の路線はほとんどロングレールだから」
近ごろの彼は、しばしば結論を抜いたような話し方をする。
そういうときはトウコのほうでも気を利かせることにしていた。
「レールに継ぎ目が多いんですね」
「そういうこと」
こういうとき決まって彼は、すこしご機嫌になる。
電車特有のこの振動音は、車輪がレールの継ぎ目を走ることによって生まれるものだ。
古い定尺レールは一本あたり二十五メートル。都会のロングレールは二百メートル以上。
一本あたりのレールが長いほど、継ぎ目の数は減る。継ぎ目の数が減れば、音の聞こえる回数も減る。そして、新しい路線になるほど長いレールが使われている―― つまりはそういう話らしい。
がたん、ごとん。
がたん、ごとん。
錆びかけた各駅停車は、ゆっくりと山奥に吸いこまれていく。
File.10 鳥の啼く町(Ⅰ)
ひさしぶりの遠出だった。
出かけるぞ、と車に乗せられて向かった場所は、マンションから半時間ほど離れた駅だった。
駅前のパーキングに車を停めたあと、降谷はあらかじめ買ってあったきっぷをトウコに渡した。
行き先は、ここからかなり距離のあるローカル線の駅名。
そして、なぜかグリーン車ではなく普通車だった。
彼は自分の姿を人目に晒すのを嫌う。理由は言わずもがなだ。
金髪碧眼に褐色の肌。日本人離れした骨格。きわめつけに首の上にはあの顔が乗っかっている。
街を歩けば、うっとり顔とやっかみ顔が嫌というほど視線を寄こす。ひどいときには、空気を読まないスカウトが「芸能界に興味ない?」とかなんとか言いながら、しつこく後をついてくる。
そういった事情もあって、彼はあまり公共の交通機関を使わない。
おもわずきっぷを見つめたトウコに、降谷は鼻を鳴らした。
『何を驚くことがあるんだ。安いほうで行くに決まってるだろ。税金の無駄遣いだ』
そういう台詞が出てきたところを見ると、どうやら安室のほうの依頼ではないらしかった。
降谷零として仕事をするとき、彼は非常に倹約家になる。
キャリアの降谷が金に困るはずはないから、気質の問題なのは間違いない。
ただ、トウコの高級マンションや、都心のトレーニングスペースのような、ある意味らしくない例も存在する。
ああいった金の使い方はおそらく、降谷でも安室でもないもうひとつの顔―― いわゆるバーボンと呼ばれる人物―― を維持するために必要なことなのだろう、とトウコは考えていた。
ああいう組織のメンバーともなれば、組織の仕事以外にも表沙汰にできないビジネスを手掛けているのが通例だ。
好むと好まざるとにかかわらず、それこそ他のメンバーの目をごまかすため、バーボンもまた同じように何らかの手段で、人には言えない稼ぎを得ているはずだった。
となれば当然、それを使ってみせる先も必要なわけで。
ドブ浚いをするには、自らもドブに身を浸さなければならない。綺麗事だけでは、あんな場所に長居することはできない。
したくもない贅沢もまた、仕事の一環というわけだ。
だいたい、ああいう手合いの組織は活動するにしても自己調達・自己負担が基本だ。
たとえば、タクシーの領収書を手に、交通費の精算を頼むバーボン―― は想像しただけでちょっと笑えてしまうだろう。
「なんだ、妙な顔して」
「いや、何も」
肩をすくめたトウコは、気分を変えて周りを見た。
進行方向に向かって二列ずつ並ぶクロスシート。先頭車両と合わせてたったの二両編成だ。
長距離特急から乗り換えた各停だったが、彼ら以外の乗客は、先頭車両の老夫婦だけだった。平日の昼間、ワンマン運行のローカル線など貸切同然である。
これなら、怪しい人影が乗ってきてもすぐにわかる。事故に遭わないぶん、車よりも安全かもしれない。
大好きなFDを諦めて電車を選んだ理由が、ようやく理解できたトウコだった。
降谷がやっと新聞から顔を上げた。
「そろそろ降りるぞ」
目的地は『町』だった。
電車は三十分に一本あるかないかという具合だから、口が裂けても都会とはいえない。しかし、風情たっぷりの古民家や畑に郷愁をそそられるかといえば、そういうわけでもなかった。
山面に沿うように立つ白壁の洋館。迷路のように入り組んだ石造りの路地。
イタリアあたりの街並みを再現したハイソな町―― だったらしいそれは、今やすっかりうらぶれていた。
漆喰は灰色に薄汚れ、坂道の多い裏路地には雑草が繁茂している。どちらも、建設当初はさぞかし雰囲気があったにちがいない。
「元々は華族の避暑地だった場所だよ。ただ、バブル期にバードウォッチングができるという触れ込みで一気に庶民層が流入して……今やこの有り様だ」
顎で山の上腹を指す。
山頂にほど近い場所には、緑に飲み込まれるようにして大きな建造物の輪郭が見えた。
「リゾートマンション?」
「―― になる予定だった。結局完成しなかったけど。ただ、そのためにずいぶんと無理な開発したみたいでね。バブルが弾けるころには、肝心のバードウォッチングはほとんどできない環境になっていたらしい」
皮肉な話だよ、と彼は肩をすくめた。
小声で話しているのは、この町にもいまだ住人がいるからだろう。
急激に開発が進み、急激に衰退する。バブルで栄えた観光地の、典型的な例だった。
無人駅から降りたあと、彼はすいすいと細い路地を進んでいった。
町全体が山腹に張りつくようにして作られている。路地の多くは坂道や階段になっていて、ちょっとしたアスレチックのようだった。
「ほら、手」
大きな段差に差し掛かると、降谷は忘れずトウコの手を取った。
「すみません。もたもたして」
手間を掛けさせてしまった、と恐縮するトウコを見て、降谷は毎回なぜか若干拗ねたような顔になるのだった。
どこかで鳥が鳴いている。
石垣には鮮やかな緑の蔦が蔓延っている。
「レトロ、と表現するのはどうでしょうか」
「いいんじゃないか。最近はそういう人気も出てきてるらしいし」
数は少ないが、ときおり人とすれ違う。たとえば観光に来たらしいカップル。カメラを持った単身者。
見ようによっては、たしかに別の風情もあるかもしれない。
「滅びゆくものは美しい、ってやつさ。そういう考え方、僕はあんまり好きじゃないが」
めずらしく降谷は自分の好みを口にした。
しばらく歩いて辿りついたのは、町外れの邸宅だった。
古い―― とても古い建物だった。
荘重ではあるが、豪勢ではない。街中にあったようなのとはまったく違う、時代を経た重みを感じる。
「竣工は20世紀前半。本来なら重要文化財に指定されていてもおかしくない由緒ある“本物”さ」
「人が住んでるんですか?」
「もちろん。今日はその人物に会いに来た。風見も知らない協力者なんだけどな」
唐突に投下された爆弾発言。度肝を抜かれたトウコを放って、降谷は勝手知ったる家のように敷地内に踏みこんでいった。
「あの、ふる―― じゃなくて安室さん!」
「この場所なら普通に呼んでかまわないぞ。向こうにもそれで通ってる」
「いや、それなら余計に……」
トウコはもじもじした。
「なんだ?」
「私、本当についていってもいいんですか?」
彼が本名を明かすような相手だ。しかも風見にも知らせていない人物ときた。
協力者は通常、信頼した担当以外との接触を嫌がるものだ。
安室の助手としての仕事であればまだしも、そういう関係の話となれば、トウコは下っ端中の下っ端。今年復帰したばかりの佐神巡査部長はすくなくとも、彼の仕事に同伴できるような身分ではなかった。
しかし、降谷は不思議そうに首をかしげた。
「行きたくないのか?一般公開されていない隠れ文化財だぞ」
「そ、そんなの当然行きたいに決まってますけど!」
「だったら黙ってついてこい。僕にだって、聞いていい話とそうでない話を分けるくらいの甲斐性はある」
呼び鈴を鳴らして入った玄関ホールは、雄大な吹き抜けになっていた。
頭上のステンドグラスから、光の欠片が舞い降りてくる。きらきらと輝くそれがたどり着く先は―― ホールの片隅に置かれたグランドピアノだった。
琥珀を溶かして塗ったような自然木の天板。
演奏時に高く持ちあげられるであろうそれは、今はそっと閉じられている。
灰色に沈む屋敷の中で、その美しいピアノだけは、春の気分をまとったように軽やかな色彩を帯びていた。
「お気に召しましたか?」
しずかな声が響く。
階段の上から現れたのは、初老の紳士だった。
降谷がさっと姿勢を正す。
ポアロでやるのとはまた違う、切りつめた美しさのある所作で、彼は一礼した。
「ご無沙汰しています」
「こんなところまでお越しいただいて、申し訳ございませんでした。そちらの方は?」
「部下です。彼女のことは佐神とお呼びください」
杖をついた老紳士は、それでも危なげなく階段を降りてきて、ふたりに向かってあらためて丁寧な礼をした。
「鷲住と申します」
銀の散った髪を撫でつけた男性は、まるでこの屋敷がそのまま人の姿を取って現れたようだった。年齢はそれなりだろうに、背筋を伸ばした横顔には力強さすら漂っている。
彼は茶褐色の瞳を、ピアノに向けた。
「お話しできるような逸話のある品ではございませんが、思い入れは一入でございまして」
「ずいぶんと手を掛けていらっしゃるように見えます」
「ええ。もう弾く者もおりませんが……」
そう言って鷲住はホールの壁に視線をやった。
絵が一枚、掛かっていた。
ドレスをまとった妙齢の女性が幼い少女と並んでいる。
彼らの背後には、茶色いピアノが描かれていた。
「さて、立ち話はこのへんに致しましょう。奥の間を開けてございます」
鷲住が世間話を切り上げたタイミングで、降谷の視線が飛んできた。スラックスの陰で、彼は鷲住からは見えないように器用に指で合図をした。
『終わったら連絡する。それまでは自由時間』
終わるまで外で立っていろ、とは言わない。安室とちがって、降谷はとことんトウコに甘いのだ。
鷲住邸を離れて、町のほうに戻る。
トウコは散策も兼ねて、さっきは通らなかった道に入ってみた。
蔦の這う路地裏。
立ち並ぶ古い建物のあいだを縫って、きらきらと午後の光が降りてきている。
その光景はどこか神秘的で、トウコは絵本の世界に迷いこんだような気持ちになった。
とん、とん、と弾むように階段を降りる。
ハイツ・アサヒもレトロといえばレトロだが、なにせ元がただのアパートである。湯守とも、いっそリノベーションしてしまってはどうか、という話をしたことがあるのだが、結局は世間話で終わってしまった。ふたりともなんだかんだ言って、今のハイツ・アサヒが好きなのだ。
どこかで鳥が鳴いている。
石垣のすきまには、においたつような緑。狭いタイルの隙間をやぶって、空へ空へと手を伸ばす。
乱開発のせいで自然破壊が進んだ、という話だったが、今はどうだろう。
時の止まった町の中、トウコは鳥の声に耳を澄ませた。
冒険気分はすこししか続かなかった。
―― 落ち着かない。
人気がないのも高じると、こんなに妙な気分になるのだと、トウコは顎を擦った。のっそりとした雲がいつしか町の上に陣取ったせいで、差しこむ光も弱くなっている。
建物の背面の窓ガラスは、そろって粉を吹いたように濁っていた。
そのわずかに残された透明の隙間から、誰かがこちらを見つめている―― ふと、そんな気持ちになる。
さっきまでレトロだなんだと言っていたことも忘れて、トウコは歩調を早めた。
ところが曲がり角を曲がったあたりで、妙なものを見つけて、さっそく立ち止まることになった。
「やじるし?」
石垣の最上段に、手のひらサイズの赤い矢印が描かれていた。
それだけならよくある落書きで終わりだったが、今回はそうではなかった。
赤い「→」が示す方向には―― さらに別の矢印マークが描かれているのだ。
今度は青色だった。
追いかけていって、青い矢印を調べる。
青い矢印の先には、また別のオレンジ色の矢印があった。
矢印を追いかけていった先には何があるんだろう―― トウコは俄然興奮した。
カラフルな矢印たちは、抗いがたい魅力を持って彼女を手招いていた。
突如、トウコの中で戦いのゴングが鳴った。
赤コーナー。
調べたい、追いかけたい、あわよくば謎を解明したい。好き放題は雇い主譲り―― 『安室の助手』。
青コーナー。
待機中にけしからん、だいたい危ないものかもしれないじゃないか。いつでもどこでも石頭―― 『降谷の部下』。
対立するふたりのトウコが頭の中で火花を散らす。
互いのアイデンティティを賭けた激しいディスカッション。
しばらくして勝負は決した。
『降谷の部下』にしぶしぶ「危なくないんだったらまあいいけど」と言わしめた『安室の助手』は、意気揚々とカラフルな矢印を辿りはじめた。
それから十分ほど、トウコは周囲を歩き回って、合計六つの矢印を発見した。
このまま手当たりしだいに探しつづければ、以降の矢印も見つけられるかもしれない。
―― が、『安室の助手』としては、そろそろこのあたりで謎解きタイムだ。
スマートな探偵の右腕を名乗る以上、トウコもまたスマートに謎を解かねばなるまい。
「先生、ここは私が解決します!」
誰にも頼まれていないのに、助手はひとりで胸を叩いた。
さて、路地をぐるぐる歩きながら、トウコはこれまでに見た矢印を頭の中で順番に並べてみた。
【1番目】
場所は石垣の上段。向きは右。長さ2センチ。色は赤。
【2番目】
4メートル離れた石垣の中段。右。4.5センチ。青。
【3番目】
9メートル離れた場所にある犬小屋の側面。斜め左上。3センチ。オレンジ。
【4番目】
6メートル離れた軒下。斜め右下。1センチ。緑。
【5番目】
すぐそばにある空き家のドア。下。16センチ。紺色。
【6番目】
かなり離れた路面。上。80センチ。黄色。
描かれていた場所、向き、長さ、色、
このようにすべてバラバラである。
まずは、向きについて―― と気取って推理をはじめたいところだが、これは考えるまでもない。
矢印の向きは、そのまま地図における方角を示している。
上は北、下は南、右は東、左は西、というわけだ。
次は、長さについて―― これもまあ、至極単純な話だ。
長さ2センチの矢印から、4メートル離れて次の矢印。
長さ4.5センチの矢印から、9メートル離れて次の矢印。
ようするに、矢印の長さを2倍した数字が、そのまま次の矢印までの距離を示しているのだ。
「さて、ここで6番目の矢印について考えてみましょう!」
トウコは気取って人差し指を立てた。もちろん周囲には誰もいない。
【6番目】
かなり離れた路面。上。80センチ。黄色。
特徴的なのは長さだ。一気に長くなって80センチもある。
次の矢印があるのは160メートル先ということになるが、さすがにこうなると目測で位置を特定するのはむずかしい。
トウコは偉大なる測量マン・伊能忠敬を見習って、歩幅で距離を測ることにした。
とことこ歩いては、矢印を見つける。すたすた歩いては、矢印を見つける。
トウコはしばらくその作業を繰り返した。説明すると長いので一時早送りをする。
南。10センチ。黄色。北西。50センチ。青。南南東。6.5センチ。オレンジ。南南西。2センチ。オレンジ。北東。25センチ。紺色。東。120センチ。緑。
最後に250メートル近く歩いてたどりついた場所は、両側にレンガ造りの塀が連なる路地だった。
同じようなレンガ模様が続くせいで、目視では次の矢印を探しにくい。
トウコはもう一度、正確に距離を測りなおすことにした。
慎重に歩幅を合わせてきっかり240メートル―― 寸分の狂いもない位置に、7番目の矢印は描かれていた。
【7番目】
レンガ塀の真ん中。向きは下。長さ0.5センチ。
色は―― 紫。
やっときた、とトウコは笑みを浮かべた。
彼女の推理だと、この『矢印ゲーム』は次で終わる。
紫色のペンキで描かれた矢印は0.5センチ。1メートル以内に他の矢印はない。
しかしトウコには、すでに見当がついていた。
とりあえず矢印から南に1メートル移動する。
周囲に人がいないのを確認してから、路上にしゃがみこむ。そして、力強く真下にある路面のタイルを―― 剥がした。
地面にぽこりと5センチ四方の穴があく。
穴の奥には、案の定、最後の矢印が刻まれていた。
ただし、それは今までと比べると、すこし異様だった。
色は墨をなすりつけたような黒。
長い棒線の先に「く」の字がついているのは通常の矢印と同じだが、肝心の「く」の部分が、棒線に対して少々長い。奇妙な形だった。
見ようによっては、鳥の足跡のようにも見える。
トウコは導かれるように矢印の先を見た。
さっきまでは気付かなかった路地の奥に、地下へと降りる階段があった。
地上に立てかけられた看板にはこうある。
―― カフェ・ナハトムジーク。
どこかで鳥が鳴いている。