地下への階段を降りていく。
 錆びた鉄扉を押し開けると、店名どおりのしずかな音楽が流れてきた。
 


Chapter.1 時計の針は二度回る

File.11 鳥の啼く町(Ⅱ)


 中は思っていたよりも小綺麗な空間だった。
 カウンター席だけの小さなカフェ。
 棚にはアルコールの瓶が隙間なく並べられている。ポアロと同じで夜はバーになるのかもしれない。

「あら、めずらしいお客様ね」

 一瞬、誰に話しかけられているのかわからなかった。
 凛々しく快活で―― それでいて、シルクような艶めいた質感を感じさせる―― おもわず惹きこまれるような不思議な声音だった。
 七色の声の主を探して、トウコは店内を見回した。

「こっちよ、こっち」

 カウンターの陰で小首をかしげる人影がある。店員らしき白シャツのエプロン姿を目にしてようやく、トウコは相手が女であると知ったのだった。

「あの……こんにちは」
「いらっしゃい」

 客の声に応えて、女が照明の下に顔を出した。

 おそらくは、外国人だった。
 白い肌に、色味のすくないブロンドの髪。見たところ白人系だが、それにしたって瞳が特徴的だった。

 金色にかぎりなく近いアンバー。

 これほど黄色味の強い虹彩は、トウコもはじめてみる。
 固まっているトウコを見つめて、女はおかしそうに笑った。

「ちょうど良かった、暇してたのよ。お名前は?」
「……トウコ、です」
「へえ、トウコっていうんだ。私はサラ。よろしくどうぞ」

 注文より先に名前を訊ねた妙な店員は、にっこり笑ってメニューを差しだした。親切にもコーヒーのページが開いてくれる。
 しかしトウコは先をめくって、いつもの品を注文をした。

「アールグレイのホットをお願いします。ミルク付きで」
「紅茶?」

 彼女はなぜか驚いたような顔をしたが、すぐに「ちょっと待ってね」と準備をはじめた。
 店内に流れるしずかなBGM。ジャズでもなければ、ポップスでもない。

「こんな場所で聞くと、けっこう新鮮でしょ?」
「ええ」

 ショパンの夜想曲第2番。誰もが一度は聞いたことのある、最も有名な夜想曲ノクターンだ。

「だから『ナハトムジーク』なんですか?」
「『カフェ・ノクターン』だと捻りがないし、何より響きがシックすぎるもの」

 彼女はネイティブ顔負けの流暢な日本語で言って、人懐っこくウインクした。

「あの矢印を書いたのはサラさんですか?」
「そんなにかしこまらないで。サラでいいわ。年もたぶん、あなたとそんなに変わらない」

 できあがった紅茶をトウコの前に置きながら、彼女は肩をすくめた。

「質問に対する答えは、イエス。だって、ああでもしないと誰も来てくれないんだもの」

 だったらもっとわかりやすく看板を出せばいいのに、と思ったトウコだったが、金髪の店員はそんなことは気にも留めていないようだった。
 「ねえ」とカウンターから身を乗りだす。

「ここにいるってことは、貴女には解けたんでしょ。私に説明して?」

 最初に聞いたものとは打って変わって、無邪気な子どもそのままの声だった。
 出題者本人に説明する必要があるとは思えなかったが、答え合わせも兼ねて、トウコは説明をはじめた。

 

   

 結論から言うと、『矢印ゲーム』のミソはだった。

 三次元において点の座標を示すには当然、三つのベクトルが必要になる。
 高校数学で言うところの、X座標・Y座標・Z座標―― もっとわかりやすい言い方をすると、縦・横・奥行き。

 今回の場合は、それぞれ、
 矢印の『向き』が『横』方向、
 矢印の『長さ』が『奥行き』の方向、
 そして、『色』が『縦』方向について、次の座標を示していたというわけだ。

 ただし、ここでひとつ問題が出てくる。
 ―― 色を使ってどうやって位置情報を表現するのか?

 これに対する答えも同じく『色』にあった。

 トウコはここに辿りつくまでに、かなりたくさんの矢印を発見した。
 使われていた色は、最後の黒を除けばぜんぶで七色。
 見つけた矢印の個数からして、色かぶりは当然発生するし、実際にほとんどの色は二回以上重複して使われている。
 しかし、 よく思いかえすと、なっていないものが存在する。

 例外は、赤と紫。

 この二色は、どういうわけか、一回ずつしか使われていないのだ。

 赤の矢印は、スタート地点に。
 紫の矢印は、ゴール間際に。

 これこそが謎を解くためのヒントだった。

 さて、そろそろ予想がついてきただろうが、この世界には赤からはじまって紫で終わる、七色のものが存在する。

 そう、虹だ。

 大気中の水滴がプリズムとなり、太陽光を屈折、さまざな色の光帯へと分解する―― これが虹の原理だ。
 このとき、赤い光ほど曲がりにくく、青い光ほど曲がりやすい性質を持っているため、虹は、かならず空の高いほうから、
『赤・橙・黄・緑・青・紺・紫』
 と同じ順番で並ぶことになる。

 これを矢印に適用させると?
 たとえば、赤やオレンジの矢印は電柱や軒などの高い地点を差し、逆に青や紺の矢印は地面に近い地点を差す、ということになる。

 『矢印ゲーム』の途中、紺色の矢印が示していた先は路面だった。
 紺色は下から二番目の色だ。
 であれば、紫色が指すのは下にちがいない―― そういうふうに考えて、トウコは地面のタイルを剥がしたのだった。

 

   

 トウコの説明を聞いて、彼女は残念そうに口を尖らせた。

「なあんだ、間違ってたら笑ってあげようと思ってたのに」
「意地の悪い出題者だなあ」

 かしこまるなと言われたので、トウコも先ほどから気安い口調に変えている。
 意地の悪い出題者、というのは一応、本音だった。
 なにしろあの『矢印ゲーム』、単純な謎解きに見えてじつはかなり性質が悪い。

 まず序盤、あえて矢印の方向と色を合わせてある。
 矢印が方角、色が高さを示しているとわからなくても、なんとなく矢印に沿って進んでいけば次の矢印が目に入るような仕組みだ。
 また矢印の意味を正確に理解せずに進むと、続きのないハズレ矢印に行きあたるような引っかけもある。
 謎の意味を考えようともしない者は、ある程度進んだところで、徹底的に振るい落とされるわけだ。

「なんていうか、考え方がねちっこいよね」
「失礼ね。巧妙って言って」
「ただでさえ隠れ家みたいな場所なのに、誰も来なくなっちゃうよ」
「でも、貴女は来てくれたでしょ?」

 琥珀色の瞳がくすりと笑う。
 この瞬間、トウコは奇妙な感覚に襲われた。
 既視感。いや、もっと鮮烈な何か。

 違和感があるというなら、最初からそうだった。
 馴れ馴れしすぎる態度なのに、すこしも嫌な気がしない。それどころか、旧友に再会したようにポンポンと軽口が飛び出てくる。

 この店―― いや、目の前の女の雰囲気が、そんな気分にさせているのかもしれない、とトウコは考えた。

 たとえば、吸いこまれるような金色の瞳。
 間違いなく可憐な女性の声なのに、ときおり子どもや老いた男性が喋っているように聞こえることさえある。
 七色の声を持つ彼女は、そんなトウコを見て、いっそうおかしそうな顔になった。
 
「そんなに深刻に考えないで。正直そんなにお客が来ても困るのよ」
「どうして?」
「店がパンクしちゃうわ」

 五席しかないカウンターを見て、彼女は茶目っ気たっぷりに両手を広げた。

   

トウコはどうしてこの町に?」
「知り合いが来たいって言うからついてきたの」
「へえ。彼氏がいるのね」

 トウコはうへえ、と眉を下げた。本人が聞いたら噴飯ものだ。

「彼氏だったら間違っても、私をひとり放置したりはしないと思うよ」
「たしかにそうね」

 ティーセットを磨きながら、彼女は素直に同意を示した。

「でも、こんなところまで二人きりで来るくらいだから、ただの友達ってわけでもないんでしょ。放っておかれて悲しくないの?」
「別にあんまり。用事が終わったら連絡するって言われてるしね」

 強がりではなく、本心だった。
 彼は仕事でここに来たのだし、トウコもそれをわかってついてきた。上司に席を外せと言われて、渋る部下がどこにいる。

「じゃあ、こういうのはどう?」

 彼女は白っぽい髪を耳にかけて、トウコを覗きこむようにした。

「このまま彼が、貴方を放ってどこかに消えてしまうの」

 まばたきも忘れて、トウコは目の前の女に見入った。

「貴方のことなんて『もう要らない』って言って、二度と迎えに来ない。泣こうが喚こうが貴方は置いてけぼり―― たとえば、そうなったとしたら?」

 金の瞳が挑むような光を帯びる。黄味がさらに強くなり、まるで猛禽の眼にように見えた。

 時の止まった店内には、いつしか、知らない夜想曲ノクターンが流れていた。
 ショパンのものでもなく、他の有名作でもないそれ。作曲者の名前さえ思い浮かばないにもかかわらず、どこかで聞いたことがあるような、不思議に懐かしい曲だった。
 
 しずかなメロディに耳を傾けながら、トウコは口を開いた。

―― うん。そういうこともあるかもね」

 淀みのない返答に、女は面食らったように顎を引いた。

「それでもいいの?」
「それでもいいというか、どうにもできないというか」

 当然のことを掘り下げられて、トウコはすこし困ってしまった。

 そもそも、降谷とトウコは対等ではない。
 彼にはトウコを思いどおりにする権利があり、その逆はない。彼がそうすると決めたら、トウコは黙って従うだけだ。それがたとえ彼女自身のことであっても。
 彼が彼女を『生き返らせた』あの日から、彼女はそう決めている。

「信じてるのね。彼のことも、自分のことも」

 女は雪のようなまつげを伏せた。

「どういう意味?」
「どんなことが起こっても彼は変わらない。だから自分も変わらない。そういうふうに思ってる」

 トウコには見えない何かが見えているように、女は言った。

 たしかに、そうかもしれない。
 彼が彼でなくなる―― たとえば、与えられた使命を放りだして私情に走る―― なんてことは想像すらできない。
 彼はこれからも変わらずトウコ扱っていくだろうし、そうであるかぎり、トウコもまた変わらない態度でしたがっていく。
 彼が彼であるかぎり、彼の意思はそのままトウコの意思だ。
 それを信頼というのなら、たしかにそうなんだろう。

 ふたりの歩く道は、わずかなズレもなく平行で―― だからこそ、これからもずっと続いていく。
 ぶつかることもなく、交わることもなく。

「そういう、ものだから」
 
 そうつぶやいた。
 しかし、彼女は最後まで気付かなかった。
 それを口にした瞬間、ほんのわずかな違和感が―― まだ生まれてもいない透明のささくれが、胸の奥を掠めたことに。
 トウコは、気付かなかった。

 ぶーん、と携帯が鳴った。
 画面を開くと、やはり降谷からだった。

「噂をすれば影かしら?」
「うん、そろそろ帰る時間みたい」

 そう言ってトウコが席を立とうとすると、女は不思議なものでも見たように首をかしげた。

「わかってると思って言わなかったんだけど……今からじゃ帰れないわよ」
「え?」
「ほら、すぐに聞こえてくる」

 ぽつ、ぽつ。
 小さな木の実が落ちるように、音の粒が生真面目に地面を打ちはじめる。
 雨だった。
 カフェの女はあっさりとレジの支払いトレーを裏返した。

「お代は結構。急いだほうがいいわ」
「でも――
「いいの。その代わりひとつだけ訂正させて」

 女が掠めるように言う。
 それは今までで一番、人間らしい声だった。

「信じてるんじゃなくて―― 諦めてるのね」

   

 雨脚はどんどん強くなり、あっという間にどしゃぶりに変わった。追い討ちをかけるように雷まで鳴ってきて、トウコは焦りを募らせた。

 雨粒が弾丸のように手足を打つ。
 この天気のなか、小さな折りたたみ傘はあまりに無力だったが、トウコはそれでも往生際悪く柄を握りしめた。

 待ち合わせの駅前に着くころには、足元や髪はびっしょりと濡れそぼっていた。
 無人駅の軒先を見れば、雨宿りをしている先客がいた。

「遅くなってすみません。電車、間に合いそうですか?」

 振りかえった降谷も、また大差ない姿だった。傘をぶらさげてはいるものの、雨を凌げたようには見えない。

「残念ながら手遅れだ」
「え?」

 水滴の滴る顎で、駅構内を示す。
 無人駅の中央部には、来るときにはなかった立看板が置かれていた。
 掲示された内容に、トウコは何度か目を擦った。

「運行、休止……?」
「トンネル近くで土砂崩れがあったらしい。今日中の復旧は絶望的とのことだ」
「……なんと」

 まさかの事態に、さすがの彼女も言葉を失いそうになった。

「他の交通手段は?」
「道路の方も通行止めだそうだ」
「ということは……」
「考えているとおりさ。僕の考えが甘かった」

 降谷は肩をすくめた。

「手分けして泊まれる場所を探すぞ。この町に営業中のホテルがどれだけあるかは不明だが」

 不幸中の幸い、山奥にもかかわらず携帯電話は無事だった。検索にヒットしたホテルに片っ端から電話をかける。
 ところが。

「おかけになった番号は――
「番号をお確かめのうえ――

 なんと七件かけて五件が不通。残る二件もすでにシングルは満室になっているという。
 この急な雨で予約が殺到したらしい。寂れた町とはいえ、それなりに観光客がいたようだ。

 複数のホテルと根気よく交渉して、降谷はやっと電話を切った。

「なんとか部屋は確保できた。ただシングル二部屋じゃなくて、ツインになる」
「やった!これで野宿は避けられますね」

 即答したトウコに、降谷は面食らったような顔をした。

「……気にならないのか?」
「何がです?」

 今日はこういう展開が多いな、とトウコは思った。当たり前のことを言っただけで、どうしてこうも変な顔をされるのか。

 首をひねっている彼女に、降谷は「もういい。何でもない」と少々投げやりな返事をした。

「とにかく現地まで移動するぞ。話は全部それからだ」


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