寒い季節でないのが幸いだった。

 土砂降りのなかを走って、ふたりはなんとか目的のホテルに辿りついた。
 ただ、『欧風リゾート』の謳い文句は過去の遺物―― 実際に目の前にしたそのホテルは、築云十年の老朽建築物だった。

 裾を絞りながらエントランスに入ると、フロント係が、またか、と無念そうなため息をついた。今日はすでに床拭き三昧なのだろう。

「すみません。ツインで予約している安室です」
「二階のつきあたりです。鍵はこちらを」

 ついでに固くてバサバサのタオルも手渡され、ロビーで身体を拭いていくように言われる。
 ふたりがタオルを使うあいだじゅう、フロント係は自分の言いつけが守られるかどうか、目を皿のようにして監視していた。

 さて、厳しいボディチェックをくぐり抜け、客室まで辿りついたふたりだったが―― 部屋のドアを開けて、一時停止した。

「これは……」

 室内の様子にトウコは目をぱちくりさせた。隣の降谷はもはや完全に沈黙している。
 それもそのはず。

 ツインで予約していたはずの部屋には、なぜかベッドがひとつしかなかったのだ。



Chapter.1 時計の針は二度回る

File.12 鳥の啼く町(Ⅲ)


 ガチャリ、と彼にしては強めに受話器をおいて、降谷は「だめだ」とうなだれた。

「もう空室はないそうだ」

 濡れた格好もそのままに、フロントに抗議の電話をかけていた彼だったが、結果は芳しくなかったようだ。
 湿った前髪をガシガシと掻く。

「なんだってこんな間違いを……」
「まあいいじゃないですか。どうせここしかなかったんだし、一応は二人用ダブルだし」

 携帯をいじりながら答えたトウコだったが、途端にぎろりと睨まれた。まるっきり狂人を見るような目だ。
 くわばらくわばら。トウコはあわててお口にチャックした。

 ホテル側がダブルをツインだと勘違いして伝えた―― ようはそれだけの話なのだが、彼には許しがたい手落ちだったらしい。

「ったく、こういう小さなミスがそのうち大事故につながるんだ。サービス提供者としての意識が……」

 とかなんとか、彼にしては珍しく、しばらく文句が止まらなかったが、嘆いたところで仕方がないとは思ったらしい。
 諦めたようなため息を最後に、きっぱりと顔つきを変えた。
 口は開かないまま、視線だけで指示を伝えてくる。

 ―― 君はこっち、僕は向こう。

 ふたりはそれぞれ席を立ち、家具や出入り口を調べはじめた。

 不審者なし。危険物なし。
 ドアの開閉よし。脱出経路よし。

 盗聴器対策のため、降谷が携帯で音楽を流し、トウコがFMラジオを持って部屋中を歩きまわる。手の届くコンセントについては手持ちのドライバーで分解、不審な機器が仕掛けられていないか確認する。

 ひととおりのセキュリティチェックを終え、どちらからともなく「ふう」と肩の力を抜いた。

「シャワー、浴びてきたら」

 言われて思い出した。そういえば濡れたままだった。
 トウコはあわてて自分の身なりを確認したが、それほどみっともないことにはなっていなかった。
 ワッフル地の分厚いトップスは、すでに半分ほど乾いて肌から浮きあがっている。濃色だから透けてもいない。

 白地のブラウスだったら、大惨事だっただろう。
 そう思って、ふと降谷に視線をやったトウコだったが、あらためてその姿を見て目を剥いた。

 彼のほうは―― 大惨事だった。

 水を吸った白いシャツに、肌の色がそのまま透けて貼りついている。
 服の上からでも見てとれる、筋肉の優美な隆起。太い肩周りと二の腕はぎちぎちと布と擦れあっていて、いかにも窮屈そうだった。
 すこし視線を下げれば、いち、に、さん、し、ご、ろく、と数えたくなるような、それは見事な腹直筋。
 ジャグジーでも目にしたはずのそれは、布を一枚通すことで、まったくの別物―― それもどちらかと言えば危ない方面の何か―― に変貌していた。

「どうした?」

 荒っぽい形の手が、苛立たしげに前髪を搔きあげる。
 髪から飛んだ水滴が、ぴしゃり、と形の良い上唇を濡らした。

 トウコはなんだか見てはいけないものを見てしまった気持ちになって、顔を背けた。

「お、お先にどうぞ。私は髪を洗うのに時間がかかりますから」
「すぐに出る」

 降谷もいい加減、濡れた格好が鬱陶しかったらしい。譲られるままに着替えを持って、あっさり部屋を出ていった。

 後ろ姿がバスルームに消えたのを見届けて、トウコはあらためて肩の力を抜いた。
 雨の中を走っていたときよりも、ここに着いてからのほうが疲れた気がする。なんでだ。

 イスに腰をおろして、室内を見まわす。
 想像していたよりも広い部屋だった。
 もちろん床は歩くたびにギイギイ鳴るし、壁紙だって汚れ放題だ。家具の上にホコリがたっぷり溜まっているところを見ると、普段は使っていない部屋なのだろう。
 
 今度はベッド近くの床に視線を落としてみた。
 汚れた木の床には、うっすらとだが、四角く日に焼けた跡が残っている。ちょうどベッドくらいの大きさだ。
 もともとツインの部屋だったが、客が減ったために閉室。ついでに廃棄予定のダブルベッドを放りこんでおいた―― 案外、そんなところかもしれない。

 シャワールームからは、あいかわらず水の流れる音がする。
 壁が薄いせいか、蛇口をひねる音まではっきりと聞こえる。他には、シャンプーの容器を動かす音。シャワーカーテンに水がかかる音。
 耳に届く音から、シャワーを使う降谷の動きを―― 最終的にはシャワーを浴びている姿まで―― 自然と想像してしまい、トウコはあわてて頭を振った。
 なんというか、ええと。肖像権の侵害だ。

 きゅ、と蛇口を閉める音がする。降谷はほんの十分ほどでバスルームから出てきた。

「待たせたね。ゆっくり入るといい」

 シャワーが熱かったのか、ズボン以外は身に着けていなかった。
 タオルで乱暴に髪を拭いながら、ベッドに腰を下ろした彼は、片手でリモコンを操作しテレビをつけた。
 たまたま映ったバラエティ番組をBGM代わりに流す―― なんてことは彼にかぎってありえない。案の定、降谷はすぐに生真面目な顔のニュースキャスターとにらめっこをはじめた。

 外出先だろうが変わらない彼に、トウコはすこし安堵した。

◇◇◇

 シャワーを浴びて出てくると、降谷はとっくにテレビを消して、ベッドの上で携帯電話に見入っていた。

「熱かっただろ。あのシャワー、うまく温度調節できないみたいだ」
「ええ。でも大丈夫でした」

 と答えてから、トウコはベッドでくつろぐ彼の頭の先から足の先まで見回して、ちょっと口を尖らせた。

「ひとつ訊きたいんですけど―― どうして着替えなんて持ってるんです?」

 の上に、いつの間にかTを着ていた降谷は、携帯から目を離してトウコを見上げた。

「どうしてって。今日みたいなことはもちろん、変装にも使えるし、場合によっては要救助者に着せたりもできる。常に一着は持ち歩いてるよ。だいたいそれを言うなら、僕だって訊きたいことがあるんだが」

 降谷はちょっとぞっとしたような様子で、トウコの右手を指差した。

「君、どうしてなんか持ってるんだ?」

 トウコの右手に収まっているのは、正真正銘、はんだごてだった。中学の技術の時間に使うアレである。
 彼女はきょとんと首をかしげた。

「どうしてって。温度調節器の調子が悪かったから、お風呂に入るついでに基盤を直したんです。急なコンパネ製作はもちろん、壊れた電子機器を修理することもできますし。常に一本は持ち歩いてますよ」

 と、トウコにとってはごく当たり前の話だったのだが、降谷は「はあ……」と遠い目になった。ちなみに着替えの持参については、言わずもがなである。

「これまで色々な部下がいたが、外出先ではんだごてを出してきたのは君くらいだ」
「そうなんですか、ありがとうございます」
「素直に喜ぶな」

 肩をすくめてから、彼はトウコにイスに座るように命じた。備えつけのドライヤーを引っぱりだして背後に立つ。
 降谷は黙ってトウコの髪を乾かしはじめた。

 ブオオン、と温風がうなる音。古いドライヤーに特有のすこし焦げたような匂い。
 髪を掴みあげては、櫛通すように指を滑らせる。
 頭皮に当たる感触に、トウコはついウトウトしてしまいそうになった。

 外からは、今も雨の音が聞こえてくる。

「あとで何か買いに行かないか?」
「そういえば、下に売店がありましたね」

 観光ホテルとして建てられた名残か、ロビーには土産物屋を兼ねた売店があった。電気は消えていたが、この天気だ。頼めば開けてくれるかもしれない。

 時計を見れば、時刻はいつの間にか夜の八時を過ぎていた。
 
「何か食べる物があるといいな」

 降谷は最後にもう一度、トウコの髪に指を通してから、ドライヤーのスイッチを切った。

 

   

 ロビーでお願いすると、フロント係は意外にも快く売店を開けてくれた。部屋の種類を間違えたのはさすがにマズかったと思っているのだろう。

 寂れた売店は空き棚ばかりで、ろくな品物がなかったが、とりあえず水と缶詰類は確保できた。ホコリを払って確認した賞味期限も、まだギリギリオッケーだ。

 部屋に戻ったふたりは、トウコが持参していた携帯食と合わせて、簡単な夕食をとった。
 テーブルが小さいので、並んでベッドに腰掛ける。

「プチ遭難状態ですね」
「電気があるから、どっちかっていうとキャンプだな」

 降谷は缶詰をつつきながら答えた。
 この町に来てから、彼はすこし様子がちがう、とトウコは感じていた。
 どことなくぼんやりとして、口数が少ない。すぐそばにいる彼女にだってほとんどわからないくらいの変化だが、彼は今日、ずっと何かに気を取られている。
 まるで―― とても大切な何かを、思い出しているような。

「あの、降谷さん――
「なんだ?」

 いつもと変わりない声で訊きかえされて、トウコは言おうと思っていた言葉を別のものにすり替えた。

「……お味噌汁、飲みますか?」
 
 マグカップに湯を注ぎ、レトルトの味噌汁をふやかす。
 ふたりでずずっ、と啜ると、なんだかそれだけで満たされた気持ちになった。お味噌は偉大だ。

 食後のコーヒーもデザートもないため、夕食後はすぐに歯磨きの時間になった。
 アメニティにも歯ブラシが含まれているのだが、トウコは念のため持参していたものを取りだした。一応、二本ある。

「新品ですよ?」
「紋切り型の台詞は吐きたくないが……君のカバンは四次元ポケットか?」
「歯ブラシ二本分くらい大した分量じゃありませんよ。歯を磨く以外にもいろいろ使えますし」

 電子機器の修理とか、鍵穴の清掃とか、と歯ブラシの利便性を説きはじめたトウコに、降谷はやれやれと両手を広げた。

 

◇◇◇

 雨の音がする。

 外は夜。テレビはニュース以外はろくな番組が入らない。
 携帯は充電中。降谷は携帯中。
 セキュリティについても、さっき部屋に帰ってきたときに再度チェックはしておいた。万が一、寝ているあいだに誰かが侵入してきても、こちらが気付くのが先だろう。
 イスの上で両足をぶらぶらさせたあと、トウコは言った。

「すこし早いけど、寝ませんか?」
「……そうだな」

 携帯から目を離して、彼は若干億劫そうに今いるベッドに視線を落とした。
 ふたりがずっと目をそらしてきた事実―― ベッドがひとつしかない、という問題はいまだ解決していない。

 ソファがあれば良かったのだが、それすらももう用意できない状態らしい。車で来ていれば、車と部屋で別れて眠ることもできただろうが。

 毛布は借してもらえたが、洋館の宿命として床は土足だった。
 はじめからそのつもりだったトウコは、あっさりと口を開いた。

「私が床で――
「僕が床で寝るよ」

 トウコは眉を上げた。

「降谷さん、今日は疲れてるでしょう。ベッドを使ってください」
「僕が?馬鹿言うな」
「だって、やけに大人しいですもん。明日も仕事でしょうし、すこしでも体力を温存したほうがいいです。私、ブランケットを取ってきますね」
「何を勝手に――

 立ち上がったトウコを、降谷がつかんで引きとめる―― が、いかんせん彼は男で、彼女は女だった。
 引っ張られた拍子にバランスを崩したトウコは、そのままベッドに倒れこんだ。

 しっとりと熱い肩口に唇がぶつかる。「あ!」という短い叫びは、男物のシャツに吸いこまれて消えた。
 跳ねるように顔を上げれば、ほんのすぐ鼻先に彼の顔があった。

 視線がつながる。
 受け止められたトウコは、その足の上に座ったまま、ぽかんと目の前の降谷を見つめた。
 彼もまた呆気にとられたような顔でトウコを見つめている。

 ざあざあ、と雨の音。
 大きく重い手が、ぎしり、とシーツに皺を作った。

「君は――
「あっ、そうだ!」

 ひらめいたのは、その瞬間だった。
 
 どうして気付かなかったんだろう!
 彼女は自らの『発見』に歓声を上げたくなった。ぱたりとベッドに寝っ転がったトウコは、ベッドの壁側までコロコロと移動してから、言った。

「ダブルなんだから、はんぶんこして寝ればいいんですよ!」

 トウコは大の字に寝っころがったまま、ばーん、とこれ以上なく胸を張った。

「……は?」
「たしかにダブルなんて言っても、大人が二人で寝るには少々狭いです。ですが、寝られなくはない!ほらこうやって私が奥側に詰めれば……」

 トウコは言いながら、壁ぎりぎりのところへにじり寄って、スペースを空けてみせた。
 壁に貼りつくようすれば、二人で寝ても、ある程度の間隔は確保できる。
 一方の彼は、新種の生物でも見つけたような顔になっていた。

「君さあ……」
「まあまあ、一回試してみましょうよ」

 今度はトウコが降谷の手を引いた。
 予想していたのか、彼の身体はほとんど抵抗なくベッドに転がった。古いスプリングが、ギイギイとうるさく文句をいう。

 こちらを見ている降谷の前で、トウコはころりと背を向けた。

「こんな感じでいこうと思うんですけど、どうでしょう?」

 トウコの背中を見ながら、何を思ったのか。しばらくして、背後で諦めたようにマットが沈んだ。
 背中がほんのりあたたかくなった気がしたが、直接触れあっている感触はなかった。

「うん、意外と大丈夫ですね」

 壁を見ながら、トウコは笑った。
 この位置取りなら彼も安心できるだろう。何かあっても、トウコが邪魔で初動が遅れることはない。彼女も彼女で窓のほうを警戒できる。

 そう言うと、背中のほうから不本意そうな声が返ってきた。

「僕はまだ賛同してないぞ……」
「まあいいじゃないですか。どうせこれしかなかったんだし、一応は二人用ダブルだし」

 まぶたを閉じると、雨の音が聞こえた。

 疲れていたこともあり、彼女はすぐに浅い眠りについた。
 身体は寝ているのだが、耳や頭は起きている。五分か十分ほどして、ふと目覚めた彼女は、部屋の明かりが消えていることに気付いた。

 しかし背後の気配は、まだ眠っていないようだった。

「トイレに行ったときに、もうひとつ追加で警報機を置いてきました。トウコ印の優秀な子です」

 目を閉じたまま、おぼつかない声で言う。案の定、降谷は寝ていなかったらしく、「うん?」といつもの声で答えた。

「だから、安心してください。危ないものなんて、私がぜんぶ追っ払っちゃいますから」

 ―― ふ。
 と、しばらくして、小さな笑い声が聞こえた。

「君は本当に準備がいいな」

 今日一日の真剣さと神妙さを、すべて解き放ったような、屈託のない声だった。
 何がそんなに面白かったのか、彼は喉の奥でいつまでもくつくつと笑っていた。

 すこしして、シーツの擦れる音がしたかと思うと―― 背中に体温を感じた。

「あんまり壁のほうに寄るな。冷えるだろ」

 丸めた背中同士がぶつかる。
 背中ごしでもわかる、ごつごつとした背すじ。
 安らぎとは程遠い感触のそれが、トウコには無性に懐かしく、幸福なものに思われた。

 ―― おやすみ。

 どちらが先に口にした言葉だったのか。
 雨の音を聞きながら、トウコは深い眠りに落ちた。


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