白い廊下に靴音が響く。
静穏なリノリウム。どこまでも整然と並ぶ窓ガラス。
トウコはこの場所に来るとき、きまって真っ黒なスーツを着る。
新人だからということもある。だがそれ以上に、ここは彼女にとってあまりにも重要で、あまりに神聖な―― ある意味、今でも近づきがたい場所なのだ。
最大限の慎重さに身を包んではじめて、この廊下を歩くことが許される。
誰かにそうせよと言われたわけではない。外からみた彼女は今や一点の曇りもなく『佐神トウコ』のはずだったし、そうでなければならなかった。
だからこれは、彼女の意識の問題だった。
前から人が歩いてきて、通りすぎる。
ここに来るようになってすでに二ヶ月近く、誰かに声をかけられたことはない。当然、疑いの目を向けられたことも。
彼女は保護されている。もしかすると、本来あるべきかたち以上に。
この最近の出来事を思うと、ついそんな気持ちになってしまう。
腕時計を見れば、まだ四時すぎ。
風見に会う時間まで、もうすこしある。
トウコは近くの休憩所に入り、自販機に小銭を入れた。転がり出てくるホットティー。
缶を両手で転がしながら、彼女はソファに腰かけて、最近の出来事に思いを馳せた。
File.13 ふたたび、回廊にて
遡ること、数日。
時刻は七時半。場所はポアロ。
外から見えない奥の席で、トウコはしずかにティーカップを傾けていた。
店内にはまだ誰もいない。開店準備をしている彼を除いては。
カチャカチャと食器を洗う音。立ちのぼる湯気。
静穏で、ひそやかな朝の空気。
留学から帰ってきてこちら、トウコは時おりこうして開店前のポアロに顔を出している。安室がひとりでシフトに入っている日限定の、特別なティータイムだ。
「特別扱いはしない」と言いながら、彼はそのようなトウコの来店を咎めない。それどころか黙って特製のモーニング―― もちろんドリンクは逸品のアールグレイ―― を出してくれる。
ハムサンドに歯を立てると、レタスがしゃきりと新鮮な音を立てた。
彼はそれが聞こえると、他のことをしていてもわざわざ振りかえってトウコの顔を見るのだ。
「今日もおいしいです」
「それは良かった」
来るたびに繰りかえされる短い会話。
彼のサンドイッチが美味しくなかったことなんて一度もないし、今後もきっとないだろうけど、トウコはこのやりとりを気に入っている。
そして、きっと彼も。
ポットに湯を注ぐ音。
何かを焼く香ばしい匂い。
「おかわりは?」
「はい、お願いします」
忙しいから自分でやって、と言われたことはない。どんなときでも、わざわざポットを持って席まで来てくれる。そのことについて訊ねると、かならず『店員としては当然のサービスだよ』という返事が返ってくる。
でも、トウコが思うに、開店前に客を店に入れたうえ、手厚くもてなす店員はいない。
特別扱いなのだろう。やはり。
たとえば、彼女の背景や事情、立場、その他諸々の『普通』ではない事柄が、彼にある種の憐憫を催している。
取りこぼされた彼女の過去を、今ある現在の何かで埋めようとしてくれている。
取りこぼされた―― いや、今も取りこぼされている子どもたちの象徴として。
そういう、ことなのかもしれない。
淹れたての紅茶でカップを満たしてくれるあいだ、トウコはウインドウの外を見ていた。
平日の朝である。
ビル街を一生懸命に早足で歩く会社員、ベランダで布団をパタパタやるお母さん、ねむい目をこすりながら登校する小学生、のんきにあくびをする犬、青々と夏葉を伸ばす桜並木。
おそらくはどこにでもある、ありふれた、何の変哲もない朝だ。
『どの口が言う、お前ごときがおこがましい』と。たとえば、そんなふうに罵られたってかまわない。彼女がまともな生き方をしてこなかったのは事実だし、それは今後も一生責められてしかるべきものだからだ。
ただ、それでも彼女は言いたい。
この景色のためなら、私は何だってできるんだ、と。
だからトウコは振りむいた。
大好きな景色を見つめる、あの大好きな青い瞳を、今日も今日とて心のカメラに収めるために。
しかし、そこから先に起こったことは彼女も予想外だったし、たぶん、彼にも予想外だった。
紅茶を入れていたはずの彼は、カカシのようにテーブルのそばにつっ立っていた。ポットを抱えた手は、ぼんやりと傾けられたまま、カップに紅茶を垂れ流している。
そして何より変なのは、彼が、いつものようにガラスの向こうを見ていないことだった。
彼の瞳がまっすぐに見つめているのは、トウコだった。
いつものあのキラキラと弾けるような光は、見えなかった。青い瞳は、春の海のように平然と凪いでいて、何らの感情も表してはいない。
しかし彼女には、なぜかその静けさが、さざめきを隠すベールのようなものにすぎないと、手に取るようにわかるのだった。
彼はトウコを凝視していた。
彼は驚いていたし、ショックを受けていたし、困ってもいた。トウコの言葉で言い換えると、何か取りかえしのつかない、ひどく重大で深刻な事実に到達してしまったような、そんな顔だった。
早朝。
止まった時間の中で通じる視線。
痛いくらいに一直線に向けられる瞳。
何を言うべきかわからず、でも何か言わないといけない気がして、トウコは口を開こうとした。
ガチャン。
陶器が発したささやかな悲鳴に、彼はめずらしく「あっ!」と声を上げて跳ねのいた。下がってきていたポットの口が、とうとうカップにぶつかったのだ。カップはもちろんソーサーからも溢れだしたオレンジ色の水たまりは、テーブルの上にも下にも広がって、ちょっとした洪水になっていた。
「ご、ごめん!雑巾取ってくるから」
普段の冷静さをまるっきり欠いた彼は、流し台に持っていくべきポットを目の前のトウコに押しつけて、ばたばたとカウンターに戻っていった。慌てるあまりにテーブルの足にもつまづいている。
トウコはポットを抱えたまま、そんな彼をぽかんと眺めた。
妙なことといえば、その翌日もそうだった。
大学の帰り、トウコはぶらぶらと家路に着いていた。
まっすぐに帰らずに、すこし遠回りになるルート。以前から知っていた道だが、使うようになったのはごく最近だ。
留学から戻ってきて以来、トウコの行動範囲は前よりもずいぶん広くなった。
心が変われば、環境が変わる。環境が変われば、行く場所も変わる。
そして、行く場所が変われば、出会う人も変わる。
そんなことを考えてみたとき、後ろから声がかかった。
「トウコねえちゃん!」
振り向いた先には、ランドセルをしょった小学生の姿があった。
「コナンくん。この前ぶりだね」
「トウコねえちゃんこそ。あ、そうだ。この前はチケットありがとうございました」
年齢にしてはひどく卒のない受け答えをして、コナンはぺこりと頭を下げた。
「おや、チケットをくださったのはその方ですか?」
誰もいないところから、声が聞こえた。
と、トウコは一瞬本気でそう思った。
そのくらいに、その男は平然とそこに立っていた。
細い、というのが第一印象だった。糸目と呼んでもさしつかえのないような、切れ長の目。端の上がった細長い眉とあいまって、高い知性を感じさせる。
それでもどこかマイペースに見えるのは、顔にかかる若干無粋な近視メガネのおかげだろう。
安室のような華やかさはないが、全体としては、瑕疵のない整った顔。言ってしまえば、典型的な『記憶に残りにくい』顔だった。
「私の顔に何かついていますか?」
いつの間にかすぐ近くまで来ていた男に、彼女は内心動揺した。
しかし、彼女もさすがにプロである。それをそのまま顔に出しはしなかった。
「いえ、ちょっとびっくりしてしまって。コナン君のお父さんってこんなに若かったんですね」
「よく言われます」
「……ってそうじゃないでしょ、昴さん!」
にっこり微笑んだ男に、コナンが横からツッコんだ。やれやれ、と若干疲れたように男を指さす。
「この人は沖矢昴さん。話すと長くなるんだけど、前に少年探偵団の事件で知り合った人なんだ。ホームズの特別展も昴さんと一緒に行ってきたんだよ」
「はじめまして、気軽に『昴』と呼んでください。元太君たちからたまに話は聞いていますよ、トウコさん。チケットをくれた女性というのは、貴女のことだったんですね」
繊細そうな見た目にもかかわらず、当然のように右手を差しだしてくる。日本人にしては、やけに握手に慣れた様子だ。外国で暮らした経験があるのかもしれない、とトウコは無意識にその手を見つめた。
「はい、赤羽トウコといいます。コナン君とは、一緒に事件に巻きこまれた関係?」
と、同じく手を差しだしながら、トウコはコナンに同意を求めた。
「ホォ、事件ですか」
「心配しなくても、危ない目には遭わなかったよ、昴さん。たまたま刑事さんがいて、その人が解決しちゃったんだ」
沖矢は興味深そうな声で相槌を打った。
「そうだったんですね。大事がなくて良かったです。コナン君に何かあれば、私は今日から野宿ですから」
「野宿?」
冗談を言った沖矢に、トウコが訊きかえす番だった。
「じつは住んでいたアパートが火事になりましてね。彼に口を利いてもらって、今の場所に居候させてもらっているんです」
「……ってことは阿笠邸の近くにお住まいなんですね」
訊ねたトウコに、コナンと沖矢はすこし驚いた顔をした。
「どうしてそんなふうに?」
「さっき元太君たちから、私の話を聞くことがあると仰っていましたよね。 行動範囲の狭い元太くんたちと普段から話ができる時点で、米花町の人なのはほぼ確実……ただ、私はこれまでポアロや米花公園で昴さんの姿を見たことはありません……となると、元太くんたちが出入りする場所のうち、残るは阿笠邸周辺―― ここのすぐ近所かなって」
ふたりはそろって彼女を凝視していた。向けられているのは、探るような視線だ。
コナンの友人なら、こういう話も楽しんでくれるかも……と一種のサービス精神で口にしたことだったが、予想とは違う空気の変化に、トウコは慌ててフォローを加えた。
「……って推理できたら格好いいんですけどね。残念、じつはカンニングでした。えへへ」
頭を掻くと、どこか不穏な空気を漂わせていたふたりが、途端にぽかんとした。
「カンニング?」
「恥ずかしながら。じつは私、前に元太くんたちから聞いたことがあるんですよ。昴さんのお名前」
ウソではない。トウコはたしかに元太たちの会話の中で、『昴さん』という名前を聞いたことがある。
本当に……名前だけだが。
ま、すべてを親切に教える必要はない。名前を知っていたのは本当のことだ。これぞ、安室&降谷にもっぱら不評だった彼女の十八番『トウコ、ウソつかない』である。
フフ、と沖矢が噴きだした。
「そういうことでしたか。たしかに私が貴女の話を聞いたことがあるなら、当然その逆もあるでしょうね。まさかこんなに可愛らしい方が探偵志望なのかと思ってびっくりしましたよ」
「そういうせりふが出てくるところを見ると、昴さんもやっぱりホームズ愛好家なんですか?」
「そうでなければ貴重な特別展への同行のお許しはいただけませんよ。どんな物も価値がわかってこそですから……ねえ、コナン君」
沖矢の言葉にコナンは深くうなずいた。特別展、いたく気に入ってくれたらしい。
「喜んでもらえてよかったです。チケットをくれた友達にも伝えておきますね」
何を隠そうチケットをくれたのはトラである。会員制チケットを惜しげもなく人にやる太っ腹具合はさすがに財閥系御令嬢といったところだ。
うなずいた沖矢だったが、ふと顎に手を当ててトウコの顔を覗きこんだ。
「それはそうと―― トウコさん、普段はどんなお仕事を?」
「仕事?」
「ええ。最初は学生かと思ったのですが、お話ししてみるとずいぶんと落ち着いていらっしゃるので」
仕事、という単語に過敏なトウコだったが、よく訊かれることではあったので、まったく普通に答えた。
「大学生です」
「おや、そうだったんですね。じつは私もなんです。工学院に在籍していまして」
コナンが横から小声で「東都大学だよ、東都大学」と助言をくれる。
「つまらない人間ですよ、私は。彼や阿笠博士に比べればね」
そう言って沖矢はコナンに視線をやった。
「さて、そろそろ帰らないと阿笠博士が心配しそうですね」
「じゃあね、トウコねえちゃん。余ったチケットがあったらまた教えてね!」
コナンに関しては、最初からこのひと言が言いたかっただけにちがいない。
ちゃっかりした小学一年生に別れを告げて、背を向ける。
そうして、二、三歩歩いたときだった。
「青い紅玉」
「え?」
「秘められたものを暴きたくなるのは、人の性か?」
知らない声だった。トウコはおもわず振りかえった。
周囲に人の気配はない。
ここには、誰もいない。
―― この、沖矢という男を除いては。
コナンを先に行かせた男は、ひとり、影のように佇んでいた。
細められた目の奥から、何かがこちらを覗いている。たとえば、彼であって、彼でない何か。
トウコがそんなことを考えかけたとき、男は、フ、と口角を上げた。
「どんなものも真に価値がわかってこそ……私もシャーロキアンの端くれでしてね。ありがとうございます。楽しかったですよ」
彼はそう言って、何事もなかったかのように立ち去っていた。
「こんなところにいたのか」
はっと気付くと、休憩所の入り口に風見の姿があった。トウコは肝をつぶして時計を見たが、まだ約束の時間にはなっていなかった。
「着いていたのなら、顔を出せばいいのに」
「お邪魔になってしまうかと思って」
「そういうときは一本連絡を入れろ。部屋の準備はできてるんだ。移動するぞ」
トウコが風見から任されている仕事は、それほど重要でもなければ、急を要するものでもない。問題なく終わった旨を伝えれば、それで事足りる。
面接という名の現状報告は、実際にはすぐに終わった。
狭い面接室から出た彼らは、ふたたび廊下を歩きはじめた。ダークグリーンのスーツ姿が三歩前を行く。
長い廊下。あたりに人の気配はない。きつい西日が、窓ガラスを通してリノリウムを朱に染めている。
何の前触れもなく、彼女は口を開いた。
「風見さんは、私に言いたいことがあるんですよね」
規則正しい足音が、ほんの一瞬、遅れる。しかし、彼は何事もなかったかのように歩きつづけた。
「何のことだ」
「本当は前にこうして廊下を歩いた時に。もっと言うと、彼が私をここに連れてきた時に、言いたかったこと」
今度こそ、足音が止まった。
「聞いてどうする」
「私も、言いたいことがあるんです」
風見は緩慢に振りかえり、彼女を高い位置から見下ろした。西日の影になって、表情は伺えない。
きつく差しこむ朱色の光のなか、しばらくして、彼は重々しく口を開いた。
「俺は……憂慮している」
感情の伺えない声だった。あえて目的語が抜かれていたが、トウコにはその指し示すものが正確に推測できた。
「あの人が動かせる人間は多い。だがそれはかならずしも、彼の地位が強固であることを意味しない」
風見の表現は婉曲的だった。
「そうでなくても、携わる任務のゆえに、その能力のゆえに……その生まれのゆえに。彼は常に危うい立場にある。功績を称える笑顔の裏で、誰もが血眼になって探しているんだ。彼の息の根を止めるための『傷』を」
若くして有能であることは、諸刃の剣だ。それを用いて汚れ役に徹しているとなればなおさら。
羨望、嫉妬、恐怖。英雄を殺す者は、いつだってその身の内から現れる。異なるもの、突き出たものは排斥される。それは警察といえども例外ではない。
彼は今このときも薄氷の上に立っている。風見の言っているのは、そういうことだった。
「上は、我々には及びもつかない世界だ。たったひとつ。たったひとつの『傷』で全てを失う。そして、あの人は、こんなところで消えていい人間じゃない」
彼は次の言葉を口にするために、すこしのあいだ準備をした。それは、今日見てきたすべての表情が、実は計算された精緻な作り物だったのではないかと思えるほど、機械的で無機的な感情の切り替えだった。
「君の存在は『傷』だ。彼の意思がどうであれ、俺はその事実を忘れるつもりはない」
どこか遠くから都会の喧騒が聞こえる。差しこむ夕日の中に、ふたり分の影が佇んでいる。
「だから、貴方はみずから進んで請け負ったんですね。私の、監視を」
教育係。それは彼女を近くで見張るための、最も体裁のよい口実だ。
降谷が彼女をここに呼んだこと。安室が今も彼女に接触していること。風見はそれらの判断に干渉できない。だから、自らトウコの教育係を申し出た。
おそらくは降谷本人にも、その本心は伏せたまま。
「あの人の判断を疑うわけじゃない。だが、俺にもまた意思があり、自分が正しいと信じる行動を取る。それは一人の警官として当然のことだ」
たとえ本人の意に背いたとしても、彼女が害になるならば、風見は彼女を排斥する。
彼女の暗い過去が、彼の潔白を汚さないように。
彼女への哀れみが、いずれ彼自身の躓きとならないように。
風見は精巧なマネキンのようにじっと彼女を見下ろしていた。
トウコはゆっくりと瞳を伏せたあと、小さく笑った。
「良かった。私もです。私もいつも、そんなことを考えています」
彼は、無感情な目をほんのすこしだけ見開いた。
「自分を貶めたいわけじゃありません。もらった新しい人生はこれからも全力で大切にするつもりです。でも、そのうえでも風見さんの言うことは、ひとつ残らずそのとおりなんです」
トウコは唇を噛んだ。
「私のせいで、彼が使命を果たせなくなる……私は、これだけは絶対に受け入れられない」
もしも万が一、そんなことになったら、彼女は永遠に自分を許せないだろう。トウコがトウコであるかぎり、それは、絶対に、許容できないのだ。
お前が何を知っている、たかだか二年やそこら一緒にいただけのお前に彼の何がわかるのだ、と。
しかし、風見はそんなことはひと言も口にしなかった。ただ黙って、固く握った彼女の白い手を見つめていた。
「だから協力してください。万が一、そうなってしまったときには」
トウコはためらいなくその続きを口にした。風見はその声を、その表情を、どこか呆然としたように聞いていた。
オレンジ色の廊下。
やはり、人は誰もいない。
彼はしばらくしてから、答えた。
「わかった。協力しよう」
「ありがとうございます」
これは風見とトウコの契約だった。
おそらくどちらかが死ぬまでは解けることのない、未来永劫、『彼』には知らせることのない、特別な約束。
「……君とは約束ばかりしている気がするな」
「風見さんは何があっても守りとおしてくれそうですから」
張りつめていたものが切れたように、風見はため息をついた。
「だったら、ひとつだけ補足しておくことがある」
「補足?」
「君はどうやら忘れているようだが、俺は君の教育係であり、監視役であり、上司だ」
突然何を言いだすのかとトウコは風見を見上げた。
「さっき言ったことは全て本心だ。君の監視は続けるし、必要であればそれなりの処置も講ずる。しかし、君の教育係を申し出たとき、俺はあの人に『佐神は俺が一人前に育てます』と言ったんだ。わかるか?」
ぽかんとしているトウコに、察しが悪いとでも言いたげに、言葉を並べたてた。
「自分で言うのもなんだが、俺は約束はかならず守る男だ。だから、君のことを見捨てるときは……立場上、俺が一番最後になるな。個人的には非常に残念で厄介なことだが」
そうしてようやく、彼はすこし口角を上げた。
それは、クールで皮肉げで、それから彼にはやっぱり非常に残念で厄介なことだろうが―― びっくりするくらい、面倒見の良さそうな顔だった。
しばらく黙って突っ立っていたトウコだったが、何度か目を瞬かせたあと、息を吐きだした。目頭が熱くなるような喜びに、彼女はくしゃっと破顔した。
「私、風見さんの部下になれて良かったです」
風見はいつもの淡々とした声で答えた。
「その言葉、覚えておけよ。一年後に同じことが言えるかどうか」
「それはどういう……?」
「特別にスパルタでいくってことだ。降谷さんは君を特別に甘やかすからな」
元気だった眉毛が、ぎゅううんと下がっていくのがわかる。
それを見て、口の端をぴくりとさせた風見だったが、廊下の端に人の姿を認めて、すぐにいつもの仏頂面に戻った。
「行くぞ、佐神」
「はい!」
廊下はずっと続いている。
先は、まだまだ、長い。