夜の駐車場。
 男が一人、車から降りてくる。
 助手席からも人影が一つ。こちらのほうは女だった。
 ふたりは慣れた様子で腕を絡めあい、場内の通路を通って建物へと入っていく。歩きながらも、ときおり顔を近づけてはなんだかんだとお熱いご様子だ。
 どちらも、誰かに見られているなどということは夢にも思っていないのだろう。

 カシャリ。
 スモークを貼った車の中から、トウコのカメラが無事に決定的瞬間を捉えた。
 タイトルは『妻ではない女性と意気揚々とホテルに入っていく不倫男』。

「さて」

 彼女はちらりと助手席を見てから、オンになっていた盗聴器の通信を切った。
 ここから先の盗み聞きは、仕事といえども御免こうむる。

「どうして切るんだい」
「どうしてもこうしても。もう十分でしょう」

 行儀悪く助手席のダッシュボードに足を投げだした降谷―― 今回は探偵としての仕事なので、こう呼ぶのはおかしいかもしれないが―― は、いかにも気のない様子で言った。

「クライアントが写真だけじゃ足りない、って言ったらどうする」
「言いませんよそんなこと。が気になるなら、ご自分で聴くなり録るなりしてください」
「へえ、それって助手の仕事を放棄するってこと?」
「いいえ!浮気調査とはいえ、犯罪とは関係のない案件で、不必要に人のプライベートを覗きたくはないって意味です」

 トウコはついさっき撮ったばかりの写真データを指差しながら、隣の男に訴えた。
 本人の顔はもちろん相手の顔まで写っているし、ホテルの名前もはっきりわかる。これ以上の物証は必要ない。
 にもかかわらず、彼は携帯に視線を落としたまま、軽蔑したような声で言った。

「君の場合、それが理由じゃないだろ」
「は?」
「たとえば、これがのほうの案件で、あのふたりが事件に関わる重要人物だったらどうする?」

 トウコはさすがにむっとした。

「馬鹿にしないでください。そういうときはちゃんと聴きますよ。単に優先順位の問題ですから」
「ふうん」

 すこしも「ふうん」と思っていなさそうな声が返ってくる。トウコの手から盗聴に使っていたデバイスを取り上げた彼は、しばらくそのスイッチを眺めていたが、結局電源は入れなかった。

「まあ、今日はこのくらいにしておくか。車を出せ」

 言われるままにキーを捻ってエンジンをかける。ツテで借りたという廃車寸前のバンは、ボボボ、と体調の悪そうな音を立てて駐車場をあとにした。



Chapter.2 ノージィ・パーカーの深謀

File.14 白鳥の歌


 帰りの車の中も、彼はやたらと無口だった。
 ハンドルを駆るトウコをしり目に、携帯ばかり触っている。
 彼女はバレないようにため息をついた。

 いったい、なんだっていうんだ。

 正確な時期はわからないのだが、あるときから彼は急になった。
 つっけんどん。無愛想。不機嫌。
 当たり前のように無視するし、目も合わせないし、歩くときもやたらと早い。こころなしかお行儀も悪くなった気がする。

 それだけならまだいいのだが、困ったことにやたらと突っかかってくるのだ。
 最初の頃のように、トウコのやることなすことに、いちいち嫌味や意地悪を言ってくる。さっきのやり取りなんかはまさにそれだ。
 そりゃあ相手は上司だし、注意されたら素直に従おうとは思っている。でも、あまりに難癖ばかり付けられると、トウコだって参ってしまう。
 
 彼女はちらりと横目で助手席を見た。
 機嫌を損ねた覚えはない。それどころか最近はお互いに忙しくて、ろくに顔も合わせていない。

 長年付き合っていた彼女と喧嘩でもした?
 もしくはフラれた?

 真剣に訊ねてみたい気分だったが、藪蛇が恐ろしすぎてさすがに口には出せない。やっとバイオレンスな関係を卒業しつつあるのに、またコンガに逆戻りしてしまう。

 気分を変えて、世間話でも持ちかけてみることにした。

「レシピ研究ですか?」
「いや」

 短い答えが返ってくる。
 声から測定したご機嫌度は65点。ここ数週間の統計からすると悪くないほうだ。

「じゃあ、さっきから一生懸命に何を見てるんです?」

 じろり、と不穏な視線が頬を刺したが、トウコはたいして気にしなかった。
 彼が熱心にタブレットやスマートフォンをいじっているときは、実際のところ、趣味やポアロ関係の調べ物をしていることがほとんどだ。詳細を訊いても叱られたりはしない。

 彼は、本当に大切な仕事をするときは、そういった類のものを利用しない。最新の電子機器は情報を溜め込みすぎてかえって危ないからだ。
 代わりに使うのはたとえば、通話機能のみのシンプルな携帯。SIMカードを割ればそれでおしまい。

「何だと思う?」

 トウコの予想どおり、彼はにやりと悪そうな声を出した。運転中にもかかわらず、左腕をつかまれる。

「ちょっ、危ない!運転中ですよ!」
「左手を借りるだけだ。ATなんだからめったに使わないだろ」

 『ご職業はなんでしたっけ?』と訊きたくなるような台詞である。トウコは半目になった。
 彼は、運転席から引っ張ってきたトウコの手を、自分の手のひらに載せた。

「いったい何をするつもりで……いててて!」

 最後まで言う前に、手のひらに鈍い痛みが走った。トウコは慌てて手を引っ張りもどそうとしたが、万力のように固められていてビクともしない。

「痛いんですけど!何!?」
「手のツボマッサージ」
「手のツボって……いたたた!」

 容赦なく指圧されて、トウコはおもわず降谷を睨みつけた。

「やるならやるって言ってくださいよ!」
「前を見て運転しろ。危ないな」

 右腕だけで夜の大通りを走り抜けながら、歯ぎしりしたくなった。コノヤロウ。

「ワガママな奴だな。わかったよ、じゃあこういうのは?」

 言葉とともに、左腕からなんとも言えない快感が這いあがってきた。
 ほどよい圧力と、なめらかな皮膚の感触。
 身体は正直なもので、トウコは途端に素直になった。

「あ、はい……とてもいいです……」
「ずいぶん凝ってるね。ここは?」
「そこも……」
「じゃあこれは?」
「……あ……」

 軽い圧とともに撫でさすられて、トウコはつい、とろんとした声を出してしまった。
 はっと気づいて腹に力を入れる。
 危ない危ない、運転中だぞ。

「君の場合よくキーボードを使うからかな、ほぐしがいがあるよ。ここは合谷ごうこく、万能のツボ。こっちは労宮ろうきゅう、ストレス・緊張に効く。それから――

 指圧しながらスラスラと説明を加えていく降谷。どうせスキマ時間で勉強しただけだろうに、この男は何をやらせてもすぐに玄人はだしになる。

「で、なんで急にツボなんですか?」
「別にツボじゃなくたっていいのさ。ものならなんでもね」

 訊いたトウコもぎょっとして、横目で助手席を伺った。

「人間って生き物は、自分をいい気分にさせてくれる相手には口が軽くなる。いい気持ちっていうのは心もそうだし、身体もそうだ」

 笑いもせずにそんなことを言うものだから、トウコはちょっと逃げだしたい気持ちになった。

「さらっと怖いこと言わないでくださいよ。これ以上、私に何を喋らせようっていうんですか」
「君からは、もう何も出てこないことくらい知ってるよ。叩いても逆さに振ってもね」

 君から『は』ときたもんだ。
 トウコは運転しながらもハンドルにぺたりとすがりついた。

「はあ、不穏だなあ」
「そう?変なことを言ったつもりはないんだけど」

 交差点を曲がったあたりで、彼は「停めろ」と指示を出した。周りを見つつ、路肩に寄せる。

 彼はどこからか、えらく高そうな香水を取りだして、車内でさっと自分の身体に吹きつけた。
 耳の後ろ。それから、腰。
 ねっとりと甘いバニラが車内の空気を侵食する。

 「あーね」とトウコは運転席側の窓に顔を背けた。
 まあ、に来た時点でお察しください、だ。

 雑居ビルが肩を寄せあう狭い路地。古い電飾看板がちらちらと明滅している。
 トウコが車を停めた場所は、とある繁華街の外れだった。
 裏手に回っているからこんな景観だが、路地を一本表に出れば、高級料理店やブティックが立ち並ぶ大人の街だ。

 車内で軽く身なりを整えた彼は―― 軽くといっても、一般基準でいえば十分に仕上がっているが―― 鏡に顔を映しながら言った。

「君の仕事はこれで終わりだ。車はいつもの場所に返しておいてくれ」

 前髪をなでつけて、ドアからするりと身を躍らせる。
 見るからに高そうな腕時計が、ビルの電飾を受けてぴかぴか光った。

「お気をつけて」
「ん」

 ドアを閉める際にほんの一瞥くれたが最後、彼はもうトウコのことなんて見えてもいないように、きらびやかな表通りに向かって揚々と歩きだしていった。

「はあ」

 後ろ姿を見送ったあと、ハンドルにもたれてうなだれた。車内には、今も濃厚な残り香が漂っている。

 最近こうやってをさせられることが増えた。
 いや。いいといえば、べつにいいのだ。

 彼がどんな匂いをさせて、誰と会おうが、トウコには関係ない。ただ言われたとおりに送っていって、言われたとおりに迎えに行くだけだ。
 帰りが決まって朝だとしても、場所がホテル街だとしても、戻ってきた彼が少々寝不足の顔をしていたとしても。トウコには関係ない。

「だけど、なんか、妙に疲れる……」

 エンジンをかけたトウコは、のろのろとオンボロバンを発進させた。
 繁華街から出たところで、窓を開けて換気したが、匂いはなかなか消えなかった。

◇◇◇

 ―― 誰かが、歌っている。

 気づいたのは、交差点で信号待ちをしているときだった。

 路上ライブの声とは一風違ったそれに、トウコは車を路肩に寄せた。
 時刻は夜11時。通行量はそれほど多くない。

 トウコはハンドルから手を離し、開けっ放しにしていた窓を通して、車の周囲に耳を澄ませた。
 大音量のパチンコ屋。喧嘩をする男。馬鹿みたいに笑いつづける大学生のグループ。
 その間をすり抜けるようにして、たしかに歌声が聞こえてくる。

 男の声だ。
 歌詞も伴奏もない。メロディだけのそれは、強いていうなら鼻歌に近かった。

 どこかで。どこかで聴いたことがある。
 トウコは迷ったすえ、車から降りた。理由はわからないが、そうしなければならない気がしたのだ。

 表通りを離れて、裏路地に入る。
 方向を確かめながら、音の発生源へと近づいていく。

 明るい悲しいような旋律。 鼻歌のようにかすかなのに、はっきりと耳に飛びこんでくる。
 トウコは夢中になって聞きいった。
 声にも曲にも、いつかどこかで聞いたような不思議な懐かしさがある。
 でも、どこで聴いたのかかはわからない。曲名も思いだせない。

 歌は路地の向こうから聞こえてくる。
 トウコは気付けば、走りだしていた。
 なぜこんなことをしているのか自分でもわからない。わからないが、どうしてもこの歌の主に会わなければならない。そんな気持ちが湧きあがってくる。

 走って、走って、走って。
 辿りついた場所は、細くて狭い裏路地だった。そこらじゅうに転がるゴミ袋やダンボール箱を押しのけて進む。
 路地の奥に、眩い光が見える。
 歌の出どころは、あそこだ。

 そのときだった。
 逆光のなかに、長く伸びた影がちらりと動いた。

 男だ。

 歌う人影は、何か楽器のケースのようなものを背負っていた。
 あとは、そんなに年がいってなくて、髪が短くて、背が高くて―― ああ、それからちらりと見えた顎のあたりには無精髭―― それくらいしかわからない。
 トウコはいっそう慌てて影を追った。

「待って!」

 路地を駆け抜けて、光に飛びこむ。
 息急き切ってたどり着いたその先は、駅近くの通りだった。
 飛びだしてきたトウコに、通りすがりの女性グループが「きゃっ」と騒いで距離を取った。疲れた背広のサラリーマンは興味なさげに横目で通りすぎていく。

 ―― いない。

 大きな荷物と高い身長。ひと目でそれとわかるはずなのに、どこを探しても見当たらなかった。

「どういうこと……?」

 夜の街の真ん中で、トウコはひとり立ち尽くした。
 


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