Chapter.2 ノージィ・パーカーの深謀

File.15 視線(Ⅰ)


 あの夜の歌う人影は、数日経ってもトウコの頭を離れなかった。

 大学の廊下を歩きながら、彼女は考えた。

 報告の必要は、ない。
 引っかかるものがあったから追いかけた、というのはその通りだが、その『引っかかるもの』は危険な類のそれではなく、どちらかといえばトウコの個人的な事情から来るものだったように思う。
 知人に似た相手を見かけて後を追った―― 言葉にするならそういう感じだ。

「そうはいっても、あんな知り合いなんていないんだけどなあ……」

 トウコは人差し指で顎をつついた。
 声の感じからして、だいたい二十代から三十代。歌が上手い。男。

 不可解なのは、どんなに記憶をひっくり返しても思い当たる相手がいないことだ。
 そもそも若い男という時点で、トウコの人生にはほとんど無縁だ。いや、これは冗談抜きで。

 “学校”では、ある程度の年齢になると男女別に分けられていたし、脱走後はひたすら隠れて暮らしてきた。
 十歳くらい年上の男性の知り合いなんて、それこそ降谷や風見くらいしか思いつかない。

 現場の防犯カメラを覗けば、顔や身元がわかるかもしれない―― が。

「不正アクセス禁止法違反……3年以下の懲役または100万円以下の罰金刑……」

 トウコはモソモソとつぶやいて、今しがた思いついたアイデアを頭から抹殺した。法律的にも職業的にも完全にアウトだ。
 思いだせそうで思いだせないこのモヤモヤ。なんとかしたいところだったが、有効そうなやり方はぜんぶ『アウト』だった。

 ―― しかたない、忘れよう。
 トウコはあっさり諦めた。

 気にはなるが、逆に言えばその程度だ。危険なものは、どんなにうまく隠しても、どこか嫌な匂いがする。すくなくともあのときの人影から、そういう印象は受けなかった。

「ま、何かあれば連絡があるだろうし」

 といいつつも、あの日以来、一度も連絡のない『彼』である。
 こちらから連絡することは許されていないので、連絡を取りたければ、向こうがその気になるのを待つしかない。

 ―― いつもみたいに何か頼んでくれたら、ついでに相談できるのにな。

 ふと、そんなを考えている自分に気付いて、足を止めた。
 相談?何のために?
 結論の出ない話―― しかも仕事とは無関係の話題で、貴重な時間を割いてもらうのは非合理的だし、相手に失礼だ。トウコも彼もそういうのは好きじゃない。
 わかっているのに、なんとなくそうしたい気分の自分に気づいて、彼女は唇をとんがらせた。

「……変なの」

 もう一度、受信通知を確認してみたが、届いていたのはメルマガとレポート課題の連絡だけだった。
 ふう、と息を吐き、トウコは携帯電話を片付けた。

◇◇◇

トウコ

 空き教室の前を通りすぎようとすると、ドアからにょきっと人の腕が生えた。
 ぎょっとしたトウコに向かって、白い手が盛んにおいでおいでをする。

「ホラー映画みたいなんだけど……」
「いいから集合」

 ドアの隙間からぴしゃりと返したのは、プレデターズの一員・イタチだった。
 口を開こうとしたトウコに「しい」と人差し指を立て、彼女は教室内を顎で示した。

 がらんとした教室の真ん中には、人影が三つ。
 トラ、クマ―― それから知らない女の子だ。

「だれ?」
「トラの部活の後輩。マリンちゃんっていうんだって。カワイイわよね」

 トラとクマの正面に腰を下ろしているのは、なるほど、イタチの言うとおり、小づくりで黒目がちな女の子だった。
 シフォン袖の白いブラウスがよく似合っている。ちょこんとイスに腰かけた姿は、動物で例えるならまさしく『ウサギ』だろう。

 マリンちゃんを取り囲むプレデターズ残りの二頭……ではなく、残りの二人に、トウコは「うげえ」と眉を下げた。

「今度は、あんないたいけな子を連れこんで……」
「失礼ね、アンタ。相談に乗ってあげてるのよ」

 イタチはそう言って、トウコを三人の元へ連れて行った。

「おっ、トウコじゃん」
「おひさしぶりぃ」

 トラとクマが愛想よく手を振る。騒がしいふたりの後ろで後輩のマリンちゃんがびくりと怯えた顔になった。

「肉食獣が獲物に群がる図……」
「なに?」
「なんでもない」

 トウコは「気にするな」と片手を振ってから、オドオドしているマリンちゃんに話しかけた。

「はじめまして、トラの友達のトウコっていいます。ごめんね、急にお邪魔して」
「い、一年生の白河マリンです。虎ノ小路さんの後輩です」

 いつの間にか隣にやってきていたトラが、がっしりとトウコの肩を抱いた。

「心配しなくても、コイツの口の堅さは超一級だから」
「それどころか、言えって言っても言わないしぃ」
「スパイも顔負け、拷問されても大丈夫よん」

 順番に所感を述べるプレデターズ。
 身元から何からじつはぜんぶバレてるんじゃないか、と思ってしまうトウコである。
 一方、マリンはお行儀よくイスに座って、両手を胸の前で合わせた。

「い、いいえ、そんなこと……虎ノ小路先輩のご親友なら、信頼できる方に違いありません」

 トラは誰もが羨む超ウルトラ名門家の一人娘にもかかわらず、お高くとまったところがない。面倒見がいいのも相まって、後輩からはちょっと引くほど人気がある。
 このマリンという子もそういう『虎ノ小路組』のひとりだろうが、彼女は彼女でそれなりのお嬢様に見えた。
 我が校はなんだかんだで名門校だ。派手な奴らが目立ちやすいだけで、こういうタイプの箱入り娘もたくさんいる。

 トウコを強引に席に座らせたプレデターズは、不安そうなマリンを囲んで相談会を再開した。

「で、どういう状況なんだっけ」
「……として見られていないような気がするんです。でも、私自身もどう思っているかわからなくて」

 マリンは瞳を伏せて、消え入るように言った。
 しかし、あまりにも小声だったので、トウコは最初の部分を聞き逃してしまった。きょろきょろと周囲を見るも、他の三人はちゃんと把握しているようだ。

「だから苦しいのね」
「はい、そうだと思います」
「問題の彼って年上ぇ?」
「四年生なので、三つ上です」
「じゃあ、今からテストしてみよっか」

 トラがぴんと人差し指を伸ばす。
 途中から入ったこともあって、さっぱり話題に追いつけない。マリンの表情を見るかぎり、ひどく深刻な話だということはわかるのだが。
 『苦しい』『問題』『彼』という単語が出てくるということは、男性から何らかの被害を受けているのだろうか。ストーカーとか?
 今さら訊くに訊けないトウコは、マリンと一緒にトラの声に耳を傾けた。

「目を閉じて、まずは彼の顔を思い浮かべてみて」
「はい」

 マリンが真面目に目を瞑ったので、トウコも慌てて真似をした。
 『問題』『年上』『彼』―― そんなキーワードにヒットする人物はひとりしかいなかった。
 大変ありがたいことに、トウコの周囲にいる年上男性は、その『ひとり』を除きみんな人格者なのだ。
 トウコは言われるままに、ぽわぽわと例の金髪男を思い浮かべた。

「まず……笑いかけられるとドキドキする?」

 頭の中の金髪男がにこりと笑う。
 トウコ―― ドキドキした。主に恐怖と不安感で。
 彼がいい顔で笑ったときは、もれなく酷い目に遭うことになっている。トウコ調べ。

「はい、ちょっと心臓が苦しくなります」

 胸を押さえて答えたマリンに、トウコは衝撃を受けた。
 なんのテストかわからないが、マリンもトウコと同じらしい。
 まさか彼女も、俺様男から過酷なイジメを受けているのだろうか。

「たしか一緒に車に乗ったことがあるって言ってわね。助手席に乗った感想は?」
「ドキドキして、隣を見られませんでした……」

 トウコは隣のマリンを凝視した。
 同じだ。
 トウコも降谷のFDには『今度こそ死ぬかもしれない』と思って乗っている。
 彼がアクセルを踏みこむたびに、心臓がバクバクして、横を見る余裕なんて全然ない。

「じゃあ、手を握られたらぁ?」
「それも同じです。苦しくて……なんだか逃げたくなってしまうんです」

 ああ、なんてことだ。マリンちゃん、君もそうだったのか。
 手を握られると、トウコもすごく逃げたくなる。うかうかしているとゴリラ顔負けの握力で、人間グリッパーの刑に処されるからだ。

 トウコだからいいものの、一般の女の子がそんな目に遭っているなら一大事だ。
 トウコは自分の立場も忘れて、おもわずマリンに話しかけた。

「ふたりでいると、いつもそんな感じなの?」
「はい。でも彼には悟られないようにしています。良い人だから、気にしてしまうかもしれませんし」

 マリンは濡れたようなまつ毛を伏せた。
 一方のトウコは、ガーンと棍棒で頭を殴られたような気分になっていた。

 なんて―― なんてよくできた子なんだ。
 まだ若いのに、すこしの文句も言わないどころか、自分をいじめる相手のフォローまでしている。
 こっちなんて暇さえあれば、どうやってギャフンといわせてやろうか考えているのに。

 大丈夫だ、まだ間に合う。
 トウコはもう命綱を握られてしまっているから逃れようがないが、マリンちゃんならいくらでもやり直せる。
 日本に奴隷制度はない!立ち上がるんだ、今すぐに!

 トウコはイスから立ち上がった。

「マリンちゃ――
「まちがいなく、コイだね」

 カポーン。
 頭の中に突如、優雅な日本庭園と、池を泳ぐ立派なニシキゴイの姿が浮かんだ。

 コイ?

 なんでいきなりコイなんだ、いくら聖母マリンちゃんだって、真面目な話を茶化されたら怒るだろう。
 そう思って、目の前の女の子の顔を見たトウコだったが、なぜかマリンは恥ずかしそうな顔をしているだけだった。

「やっぱり、そうなんでしょうか」

 胸の前で組み合わされた手。ほんのりと色づいた頬。
 その顔を見て、ようやく頭の中からコイが泳いで出ていった。
 代わりに最近見たドラマの一シーンが浮かぶ。

『ずっと一緒にいて』
『もう離さない』

 トウコはようやく自分が大きな勘違いをしているらしいことに気づいた。
 固まっているトウコをよそに、トラがとどめの質問をする。

「あたし的にはこれが一番わかりやすいと思うんだけど……」
「はい」
「彼が他の女の子と仲良くしてたらイヤだと思う?」

◇◇◇

「ああ……」

 会合が終わったあとも、トウコは勘違いの件を長々と引きずっていた。
 もうちょっとで大恥をかくところだった。
 いきなり『マリンちゃん!勇気を出して警察に行こう!』なんて叫んだ日には、お前が勇気を出して警察に行けと言われてしまう。

「それならそうと言っておいてくれればいいのに。そしたら私だって……」

 はあ、と深い深いため息が出た。
 自覚があるのであまり人には知られたくないが、こういう類の話題について、トウコはとことん無能だった。
 身近な相手になればなるほど、リアリティが増せば増すほど、うまく想像できない。
 自分については、言わずもがなだ。

「恋愛ねえ……」

 トウコは試しに、自分がなるところをイメージしてみた。

 ケース・その一。
 身近な男性の代表格・風見。
 シチュエーションは仕事帰り、人のいない駐車場だ。

佐神、話があるんだが』

 どこか憂いを帯びた表情。彼にはめずらしく緊張した雰囲気だ。

『はい。ここで大丈夫ですか?』
『いや、機密事項だ。場所を変えたい』
『第四会議室はどうですか?今日の午後は空室になってます』
『そうか。じゃあ15時から予約しておいてくれ。ああ、そうだ。予約に行くついでに、このリストに載っている資料のコピーも頼む。二十人分だ。個人情報にかかわるところは黒塗りで。ああ、それと、コピーに行くならついでに――

 頼みごとは十件以上に及んだうえ、最後には『ああ、もうこんな時間だ!頼んだぞ』と言いおいて駆け去っていった。
 おしまい。

「さっぱりだな……」

 恋愛に至るどころか、想像の中でもかわいそうな風見だった。

 ケース・その二。
 トウコは次に、この前出会ったばかりの高木を思い浮かべてみた。
 彼にはもう心に決めた人がいるらしいが、トウコには若い男性の知り合いが少ないので、特別出演してもらう。
 場所はポアロからの帰り道、夕方の公園だ。

『これから、ちょっと時間ある……かな?』
『はい、何かご用ですか?』

 視線を右往左往させて、はにかんだ様子の高木。右手でしきりに頰のあたりを掻いている。

『ここじゃなんだから、向こうのベンチで――
『高木君!?やっと見つけたと思ったら、こんなところで何やってるのよ』
『さっ、佐藤さん!これには深い訳が――
『携帯もつながらないし、報告書も途中だし!深い訳もクソもないわよ。さっさと戻って続きをやりなさい!』
『はあーい……』

 首根っこを掴まれて連行される高木。その後いくら待っても、彼が戻ってくることはなかった。
 南無。

「相手のいる人はダメだな……」

 特別出演してもらっても、結局ふたりのラブコメになってしまった。

 トウコはその後もクラスメイトや院生の先輩や知りうる限りの男性で―― あげくの果てには俳優やアイドルにも触手を伸ばし―― 自分が恋愛をしているところを想像をしてみたが、だいたい似たりよったりの結果になった。

 何やってんだ、私。
 なんだか下卑た気分になってきたとき、まだ試していない相手がひとり残っていることに気づいた。

 トウコにとっては、最も身近で最も関わりの深い男性ひと
 どうして今まで忘れていたのかわからない。

 下世話なことだと思いながら―― 同時にひどく失礼なことだとも思いながら―― 『彼』についても、同じように考えてみた。

 もしもトウコと降谷が――

トウコさん?」

 後ろから急に声をかけられて、考えていたことが全部まとめて吹っ飛んだ。
 大慌てで振りかえった先にいたのは、沖矢だった。


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