File.16 視線(Ⅱ)
「トウコさん?」
声をかけてきたのはメガネに黒ハイネックの男、沖矢だった。細い目をいっそう細くしながら、彼はトウコを見下ろした。
「こんなところで奇遇ですね。お買い物ですか?」
「あー、はい。今日はお肉が安いので……」
唐突な質問にうろんな目になった彼女だったが、見ればたしかにスーパーの前だった。即席の言い訳で店内に逃げこもうと試みるも、残念ながら相手の方が一枚上手だった。
「やはりそうでしたか。私もセールの日はたまに来るんです。ご一緒してもよろしいですか?」
空っぽのエコバッグを取りだして、狐のように笑う男。
よろしくないです。トウコは頭を抱えたくなった。
一、二ヶ月前に阿笠邸の近くで出会ってから、エンカウントすること数回。トウコの何が気に入ったのか(もしくは気に入らないのか)、会うたびに妙に距離を詰めてくる。
「い、いや、選ぶのに時間がかかるタイプですし……」
「私で良ければアドバイスさせていただきますよ。これでも料理は得意でして」
「あー、えーと」
「カートにしますか、カゴにしますか?」
「カゴで……」
今までこの界隈に出没したことはなかったのに、とトウコはオアシスを失った砂漠の民のように天を仰いだ。
彼女は、この男がなぜかどうにも不得手だった。
店内に入ると、彼はカートを押しながら、当然のように彼女の後ろををついてきた。
「トウコさんはここにはよく来るので?」
「帰り道なのでたまに……」
「ということは、お住まいは三丁目ですか?」
最初に会ったときの意趣返しなのか、プライベートをガンガン推理してくる黒ハイネック。長身の男(それもそれなりに男前)が、カートを押しつつ女子大生に迫る図は、なかなかインパクトがあるようで、買いまわり中の主婦たちがこそこそと耳打ちしはじめた。
「いや、そういうわけではなく。あー、ここからちょっとバスに乗って、ちょっと行ってから、もうちょっと行ったところです」
「ホォ、なるほど」
納得したようにうなずく沖矢に、彼女はげっそりした。押しても引いても手応えゼロ。何を考えているのか、いまだにぜんぜん理解できない。
しかし、どこまでもニコニコ顔で着いてくる男に、トウコも折れざるをえなかった。
「昴さんは、よくお料理されるんですか?」
「ええ、得意料理はビーフシチューです。今度ごちそうしましょうか?」
まさにそのビーフシチューを作るのだろう、カートにはすでにニンジンやらジャガイモやらが入っている。
「まあ、機会があれば」
「おや、ビーフシチューはお嫌いですか?」
「そういうわけじゃないですけど……」
「お好きなものは?」
「ポアロの、ハムサンド」
本音半分、『これで諦めてくれないかな』という気持ち半分でトウコは答えた。
しかしその途端、それまで何を言っても腕押しされた暖簾のようにへらへらしていた沖矢が、わずかに表情を引き締めた。
「そういえば、トウコさんはポアロの常連だとか」
「はい。紅茶が好きで」
「あそこの店員については?」
「店員?」
変な質問をする人だ、とトウコは首を傾げた。
「女性に人気の店員がいると聞いたもので」
「あー、安室さんのことですか」
やっと合点がいった。ようするに『トウコも彼目当てなのか?』と訊きたいわけだ。
「べつに安室さんに会いに行ってるわけじゃありませんけど、面白い人ですよね。ああ見えて熱血漢だし。ちょっと天然なところもあるから、話してると楽しいし」
「ホォ」
沖矢はなぜか感心したように、顎に手をやった。「熱血漢、天然、」とか何とか、ぶつぶつと小声で唱えている。
逃げるなら今がチャンスだ、とトウコはぴっと片手を上げた。
「考えごともあるようですし、私はこのへんで」
「トウコさん、ひとつお訊ねしたいのですが」
突如、開き気味の糸目が顔を覗きこんできた。やけに真剣な様子に、トウコはぎょっと後退った。
「な、なにか?」
「たとえばの話です。トウコさんは、もし彼が―― 」
ピンポーン、と店内放送のチャイムが鳴った。
『これよりお肉のタイムセールを始めます。お客様はぜひお肉コーナーまでェ』
「わっ、はじまりますよ昴さん。ここからは骨肉も相食む戦争の時間です!各々健闘しましょうね!」
「ちょっと待っ……」
「ではまたいずれ!」
言いかけた沖矢を放って、トウコはすたこらさっさと逃走した。
ぜいぜいと息を吐きながら、トウコは身体を『く』の字に折り曲げた。
「なんとか、逃げられた」
勘違いのないように言っておくと、トウコは別に沖矢のことを嫌っているわけではない。
紳士的な物腰と、爽やかな見た目、打てば響く頭の良さ。犯罪者にありがちな妙な気配もない。初対面のときから変わらず親切に接してくれる彼は、まちがいなく『いい人』だ。トウコ自身、本当は仲良くしたいと願っているし、むしろ毎度こんな態度で申し訳ないとすら思っている。
なのに、なのに。近くに寄られるとなんだか逃げたくなってしまうのだ。
「『反りが合わない』っていうのとも違うし」
強いていえば、居心地が悪い、というのに近いかもしれない。嫁いだばかりの嫁が、姑に家事をじっと見られるときの気分。たとえるならそんな感じ。まあ、嫁いだことないんだけど。
「うーん」
昔、似たような気分を味わったことがあったような、なかったような。むしろしょっちゅう感じていた気持ちのような。
トウコはひとり首を捻ったが、結局その感覚を思い出すことはできなかった。
「まあ、いっか」
害がないならそれでいい、とトウコはどこかの金髪トリプルフェイスが好きそうなキザな台詞で思考を締めくくった。
どさくさに紛れて確保したセール肉を片手に提げて歩きだす。『お肉が安いので』と言った手前、手ぶらでは帰れないのが彼女だった。ウソつきは巨悪のはじまりなのだ。
肉を使ったメニューを考えながら、せっせと足を動かす。夕方の路地には、しだいに闇が迫りはじめていた。夜の間は、いつ『彼』や風見からの仕事が来てもいいように、在宅しているのが習慣だ。
そう思って、半ば小走りで角を曲がったときだった。
尾けられている。
確信めいた直感がトウコの脳裏を走りぬけた。おもわず立ち止まりそうになったが、なんとかこらえて歩きつづけた。
いつから?
角を曲がる直前に確認したときは、絶対に誰もいなかった。トウコだって、腐っても風見の部下なのだ。どんなときも身辺の警戒は怠らないようにしている。
まずは、落ち着くことからだ。
トウコは背後の尾行者に気付かれないように、ごく小さく息を吐いた。
尾行に気付いた素振りを見せれば、尾行者は高確率で撤退する。追い払いたいだけならそれでいいが、彼女の場合はそうはいかない。
可能なかぎり、相手の情報を集めなければ。
トウコは表通りに向かいつつも、まわり道をはじめた。尾行者とふたりきりにならないよう人のいる道を選び、かつ、相手の気配がわかるよう人混みは避ける。
足音が聞こえるような距離ではないものの、尾行者は確実に彼女を追ってきているようだった。トウコは緊張していることを悟られないよう、ごくリラックスした足取りで角を曲がった。
カバンから携帯を出すふりをしながら、さりげなく周囲を確認する。近くを歩いているのは、今さっき追い抜かしたサラリーマンがひとりだけ。見える範囲に尾行者の姿はない。
もうすこし行けば、美容院がある。入ったことはないが、奥の鏡が前面道路に向いていることは知っている。
素知らぬふりで前を通って、すぱっと面を割ってやる。
そう思って最後の角を曲がろうとしたときだった。
とん、と誰かが突然トウコの肩を叩いた。
彼女は「わっ!」と比喩でなく飛びあがった。後ろを見てはいけないということも忘れ、おもわず背後を振りかえる。
立っていたのは、さっき追い抜かしたサラリーマンだった。
「あの、ハンカチを落とされましたよ」
ブリーフケースを抱えた男は、そう言って、おっかなびっくり落とし物を差しだした。
「ハンカチ……?」
「ええ、そうです。道に落ちていたものですから」
淡いブルーのそれは、たしかにトウコの持ち物だった。
ハンカチを受け取ろうともせず、呆然と突っ立ったままの彼女に、男はますます焦った顔になった。『肩を叩いたの、もしかして痴漢っぽかったかな……?』という心の声がそのまま顔に書いてある。
トウコは慌てて頭を下げた。
「すみません。わざわざありがとうございました」
「わ、私はこれで……」
「ちょっと待ってください!」
男がびくりと立ち止まった。『まさか本当に痴漢扱い?』という悲痛な叫びが聞こえてきそうな様子である。慌てる男の様子などまるで気にせず、トウコはその背後に視線をやった。
日が落ちて、薄暗くなった路地。
人影は、ない。
「貴方の他にもうひとり人が歩いていたと思うんですけど。その人はどんな方でしたか?」
「もうひとり?」
「はい。せめて性別だけでも」
『一緒に警察に行こう』と言われなかったことに、男はひどく安堵したらしい。緊張を解いた彼は、額の汗を拭いつつ、首をかしげた。
「何か勘違いされてるようですけど……私とお嬢さん以外のほかにはいませんでしたよ。ずっと」
その日のうちに、トウコは風見に連絡を入れた。
報告を聞いた彼は、案の定ひどく不審げな声を出した。
『まったく何もわからない?』
「はい……」
本当なんだろうな、と念を押すように言われ、トウコは小声になった。
姿も目的もわからない尾行者。あげくのはてに、魔法のように影形なく消えてしまったとなれば、『それは聞く価値のある報告か?』という言外の詰問もけして的外れなものではなかった。
今となってはトウコ自身ですら、自分の勘違いだったのかもしれない、というような気持ちになってきているのだ。
『曖昧な報告はするな、と言いたいところだが、一応は心に留めておく。君の場合は元々の事情が特殊だからな』
何かあればすぐに連絡するように。
風見はそれだけ言ってさっさと電話を切ってしまった。当然のことながら、『彼』の話題は欠片も出てこなかった。
トウコは、ぽすん、と携帯をベッドの上に投げやった。通知画面はあいかわらず、うんともすんとも言ってくれない。
わざわざ『心に留める』などという言い方をした以上、彼にはもちろん報告するのだろう。そうやって自分の判断で連絡が取れる程度には、風見は彼の現状を把握している。
把握することを、許されている。
そこまで考えたところで、トウコは自分を心底軽蔑した。
「バカじゃないの」
降谷がトウコよりも風見を信頼しているのなんて当然も当然、それこそバカらしいほどに当たり前のことだ。風見は降谷の腹心で、トウコは元犯罪者の変わり種。どこまでいっても正当な立場には立てないし、まっとうな人間として認められることもない。
本物には、なれない。
当たり前のことを忘れはじめている自分が滑稽になって、トウコはぎゅっとクッションを抱き寄せた。
それから数日間は、とくに何も起こらなかった。
尾行者がふたたび現れることも、彼が連絡を寄こすことも。
尾行があれきりで終わってしまったのは意外といえば意外だったが、同時に「こんなものかもしれない」という感覚もあった。なにせ普段トウコが任されている仕事は雑事ばかりだ。尾行しようが振ろうが叩こうが、たいした情報は出てこない。
それよりもさらに高度な情報、つまり彼女の出自に関わる内容を嗅ぎつけたがゆえの尾行だった、と疑ってみることもできるが、いずれにせよあまり生産的ではないだろう。
そのあたりの情報を管理しているのはトウコの『上』であり、彼女以上にキレる彼らがそんなヘマをするとは思えないからだ。
二度目は考えなくてもいいのかもしれない。
そんなことを思いはじめたころ、彼はふらりと現れた。
「尾行されたんだって?」
降谷は部屋に入るなり、上着を脱ぎすてながら言った。荒っぽくネクタイを緩めたかと思うと、同じようにベッドの上に放りなげる。
「はい、一度だけですけど」
「防犯カメラは調べたか?」
トウコは首を横に振った。
「尾行された区間はちょうどカメラが置かれていない場所で……」
「声をかけてきた男については?」
「そちらは手前のカメラに映っていました。ですが、とくに怪しい様子はなく、おそらくは無関係かと」
「ふうん」
彼に対して、要領を得ない、聞きようによっては言い訳がましい返答をしなければならないことが、辛かった。
衣装室のクローゼットから着替えを取りだす後ろ姿を見ながら、トウコは無意識に両手をきゅっと握りあわせた。
「降谷さん、あの……」
「時間がない。あとにしてくれ」
降谷は振りむきもせずにそう言った。着替えを抱えて衣装室へと向かう。
言葉の行き場をなくした彼女は、黙ってデスクのイスに腰を下ろした。開け放された隣室からは直に着替えの音が聞こえてくる。トウコはパソコンの画面を眺めながら、ぼんやりと衣擦れの音を聞いていた。
私服に着替えて出てきた降谷は、脱ぎ捨てたシャツやスラックスを顎で指した。
「それ、クリーニングと洗濯」
「はい」
トウコは慌ててイスから立ち上がったが、一方の降谷は、立ち止まりもせずに洗面室に消えた。
十分近くドライヤーを使って、身だしなみを整えた彼は、手早く小物を身に着けて玄関に向かった。革靴に片足を突っこんだ段階でようやく、彼は思い出したようにトウコのことを振りかえった。
「いつも通りに過ごしていろ」
「はい」
「僕への連絡は今後もなしだ。いいな」
「……はい」
ひさしぶりにまっすぐ向いた青い瞳は、何もない雪原のように、ひどく無感動な色をしていた。