例の尾行者がふたたび現れたのは、その翌朝のことだった。
File.17 視線(Ⅲ)
―― 舐めるような視線。
大学への登校中、バスから降りた直後だった。トウコはおもわず背をぴくりとさせたものの、何事もなかったかのように歩きつづけた。
高校生のグループががやがやと騒がしく通りすぎていく。ビルの間から朝日が差しこんできている。
あいかわらず仔細の読みとれない奇妙な気配だったが、時間帯が昼間ということもあって、前ほど不気味には感じなかった。
トウコは歩きながら、冷静に分析した。現状、考えられる可能性は三つだ。
ひとつめは、風見やその周辺の情報を引き出したいがためにトウコを追っている場合。
彼女が風見の部下であるということはとくに隠されていない。ガードの固い風見より新人のトウコをターゲットに選ぶのは当然のことだろう。個人的には、一番ありそうなパターンだと思っている。
ふたつめは、トウコの身元や降谷とのつながりを嗅ぎつけており、その確証を得るために―― もっと言えば、それを使って降谷に揺さぶりをかけるために―― トウコを追っている場合。
最悪のパターンといえるが、だからこそ、そうならないように『上』は十分に対策を講じているはずだ。そういう点では最も発生しにくい事態かもしれない。
そして、みっつめ、と考えて、彼女はため息をついた。そんな物好きがいるかはさておき。
みっつめは―― 単にトウコ個人に対するストーカーだ。大学かどこかで見かけてずっと追いかけていました、という。
『トウコさん、僕はずっと君のことが……!』
ぶるっ。
トウコは背中を震わせた。
なんという悲劇。なんという惨劇。通話履歴から防犯カメラまで丸裸にしてくるような機械オタク系インドア女に片思い。本当にそんな人間がいるのだとしたら、今すぐに正気にもどれと言ってやりたい。趣味と思考が残念すぎる。
彼女はもう一度身震いしてから、頭をリセットした。
とにかく、だ。
こうやって何度も接触してくるところをみると、相手はトウコを舐めきっている。腹立たしいことこの上ないが、向こうがその気ならこっちもトコトン舐めかえすまでだ。
いつもどおりに過ごせ。降谷だってそう言っていた。
いいだろう。やってやる。
徹底的に普通に過ごす。トウコのお家芸だ。
その日から、トウコと謎の尾行者は、付かず離れずの鬼ごっこを開始した。
登下校中。買い物中。
唐突に寄こされる得体のしれない視線。さりげなく周囲を確認しても、人混みだったり建物が邪魔だったりして相手の姿は視界に入らない。
見えない相手は不気味だったが、手を出してこないのであれば、壁のシミと同じだ。
徹底的に、無視。ムシ。無視。
もちろんトウコのほうでも隙あらば身元を暴いてやる心算ではある。降谷の許可が出ている以上、カメラ覗きも解禁だ。
しかし相手もなかなかやり手のようで、徹底的にカメラの死角をついてくる。大学やスーパーなど同じ建物内にも入ってこない。トウコが防犯カメラを覗けることは知らないだろうに、気合の入った立ち回りだ。
どれだけ付きまとわれようが、無視。ムシ。無視。
気づく素振りも見せてはいけない。普通の大学生はプロの尾行に気づいたりしない。
ただ、仕事場であるマンションの場所を知られるのは嫌だったので(あそこは降谷のセーフハウスでもある)、しばらくの間は仕事も自宅であるハイツ・アサヒですることにした。
そんな生活をつづけること二週間。
いかがわしい視線が本当の意味で『壁のシミ』になってきたころに、それは起こった。
授業が終わって大学を出ると、めずらしく例の尾行者はいなかった。
尾行といっても常にそばにいるわけではなく、一日に一回か二回、気が向いたようにふらりと現れては後ろをついてくるというものだ。とくに登下校時はお気に入りらしく、これまでも登校時か下校時のどちらかはかならず追ってきていた。
にもかかわらず、今日にかぎって気配がないということは……とトウコは考えを巡らせた。運良く風見からの依頼が入らなかったこともあって、ここ二週間のトウコは、大学と家を行き来するだけのただの女子大生だった。見るべきものなど欠片もない。
やっと飽きてくれたかな、とトウコはひさしぶりにのびのびとした気持ちで帰途についた。
その瞬間だった。後頭部に、ぞっとするような視線が突き刺さった。
いつもより気配が鋭いとか粘着質だとか、そういう、話ではななかった。
トウコは戦慄した。
―― すぐ後ろに、いる。
あいかわず足音は聞こえない。だが、たしかにいる。
これまでのような曖昧なものではなく、自分の存在を誇示するような気配でもって、今この瞬間もじっと彼女を見つめている。
しまった。
いつかは諦めるだろう、という考えの甘さを彼女は今さら思い知った。相手は諦めるのではなく、方法を変えたのだ。より積極的で、より強引なやり方に。
大胆に近づいて、情報を強奪する。尾行がバレてもかまわない。顔を見られてもかまわない。
なぜなら、『死人に口はない』から。
ドッドッ、と心臓の音が全身に響いた。
これほど接近した今になっても、男女の別すらわからない。意図的にそれだけのことができる手練ならトウコに勝ち目はない。気づかないふりをしている余裕はなかった。
今はとにかく、逃げなければ。
トウコは相手を刺激しないよう、ごくリラックスした足取りで角を曲がった。視線はぺたりと彼女の背後にはりついてくる。
大丈夫、と何度も自分に言い聞かせた。
顔を覚えられたら殺すつもりかもしれないが、殺す気で尾けてきているわけではない。トウコの殺害もしくは拉致が目的ならば、初回の時点でさっさと実行していただろう。
大丈夫。
大丈夫。
だいじょうぶ。
だい、じょうぶ。
意思に反して、怯えた脳が勝手に想像を膨らませる。たとえば―― 姿も意図もわからないどす黒い影が、どこまでも彼女の背中を追ってくる。
どこまでも、どこまでも。
気味が悪い。
気持ち悪い。
―― こわい。
あたたかい季節だというのに今にも息が凍りつきそうだった。
永遠にも思える時間のあと、ようやく表通りが見えてきた。街角の喧騒が聞こえてくる。トウコは祈るような気持ちで一歩一歩進んでいった。
どれだけ後ろが気になっても、振りかえってはいけない。顔を見てしまったら、きっともう家には帰れない。
あとすこし。もうすこし。
あと、ほんのちょっと。
最後の三十メートルを耐えぬいたトウコは、もうそれ以上我慢できず、表通りに走りでた。
驚いてこちらを見る女。男。子ども。しかし、そんなことはお構いなしに、彼女は人混みの中に飛びこんだ。
背後を確認する余裕はない。追ってきているかどうかもわからない。
それでもトウコは、無我夢中でアーケードの下を走りぬけた。こんなに必死に走ったのは生まれてはじめてかもしれない。
表通りに面したデパートに駆けこんだあと、売り場を抜けて、非常口のドアを押し開ける。非常階段の一段目に崩れおちるように座りこんだあとはもう、そこから一歩も動けなかった。
堰をきったように身体の震えが戻ってくる。ガチガチと歯の根が合わない。
―― なんだ、あれは。
トウコだって素人じゃない、危ない橋ならこれまでだって渡ってきた。
だが、あれは、決定的にちがう。この日本であんなものに出会うとは思わなかった。
誰かの命令で、彼女の持つ情報もしくは命を狙っている―― そういうよくある手合いじゃない。探偵、殺し屋、スパイ。どれでもない。
あれは、もっと意味のわからない何かだ。
手も足も、震えて震えて止まらなかった。知っている番号に手当たりしだいに電話をかけて『助けて』と叫んでしまいたかった。
それでも、震える手が探しあてたのは、たった一件だけ、『店長』と書かれた連絡先だった。
迎えになんて来てくれなくていい。助けてくれなくていい。
ただ、ほんのひと言でいいから。
声が、聞きたい。
トウコはしばらくその切なる思いと葛藤した。
しかし結局、彼女の指先が通話ボタンに触れることはなかった。
諦めて携帯電話を片付けようとしたとき、ギイ、と非常ドアの開く音がした。うなだれていた彼女は、弾かれたように顔を上げた。
「トウコさん?」
ドアから顔を覗かせたのは、なんと、沖矢だった。
「昴さん……」
「大丈夫ですか?顔が真っ青ですよ」
沖矢は心配そうな顔で、こちらを覗きこんできた。トウコは普段のことも忘れてその袖にすがりつきそうになったが、かろうじてその場で立ちあがる程度に抑えた。
声がかすれないように気をつけながら、彼女は小さな声で訊ねた。
「どうしてこんなところに……?」
「それはこちらの台詞ですよ。買い物中にアーケード街を走っていく姿をお見かけしたんです」
「……お恥ずかしいところを」
「いいえ。この様子だと追ってきて正解だったようです。歩けますか?」
「ええ」
支えてくれようとするのを片手でやんわりと制するも、沖矢は有無を言わさずトウコの肩に手をまわしてきた。
おもわずびくりとしてしまった彼女だったが、沖矢のやり方が嫌味のない外国風のものだとわかると、すこしだけ身体の力が抜けた。
人目を避けつつ店内に戻り、そのまま近くにあったカフェに伴われる。
「何があったんです?」
何も言わず奥まった席を取った彼は、トウコを座らせてから、真剣な口調で切りだした。
「体調が悪くて―― 」
「体調の悪い人は、あんな勢いで人混みを走ったりしません」
ぴしゃりと返した沖矢に、彼女は瞳を伏せた。
―― どうすればいいんだろう。
あったことを話してしまっていいのだろうか。話すことによって、目の前のこの人に迷惑がかかるのではないか。
あの影が、トウコの周囲の人間にまで襲いかかるようなことがあれば―― 。
「私なら大丈夫です、トウコさん」
心を読んだような言葉に、おもわず顔を上げた。沖矢はいつもと変わらない、穏やかな笑みを浮かべていた。
「秘密は守ります。もちろん、どうしても嫌なら無理にとは言いませんが……話すことで楽になることもありますよ」
肌の上からゆっくりと染みこんでくるような深い声。思っていたのとは違う意味の『大丈夫』だったが、トウコはどこか緊張が解けたような気分になった。
たしかに、彼の言うとおりかもしれない。やり方にこだわるあまり、精神的に追い詰められていては本末転倒だろう。
話すことでプラスになることがあるのなら―― 。
彼女は迷ったすえ、言ってはいけないところは誤魔化しつつ、悩みごとを打ち明けることにした。
「どこまでも後を追ってくる……ですか」
「はい」
ふむ、と沖矢は顎先を触った。
「男か女かもわからないというのは厄介ですね。警察には相談しましたか?」
「一応は。でも、取りあってはもらえませんでした」
取りあってもらえなかった、というと風見には悪い気がするが、現状の説明としては間違っちゃいない。
沖矢はコーヒーを飲みながら、思いだしたように言った。
「ポアロに行くのはどうですか?」
トウコは首をかしげた。
「ポアロに?」
「いるじゃないですか、ひとり。こういう問題を解決してくれそうな人物が」
「毛利先生のことですか?」と訊きかえしかけて、トウコは、彼があえて『ポアロ』と言った意図に気付いた。
おそるおそる伺うようにして言う。
「まさか、安室さん?」
「ええ。トウコさんもご存知でしょう?彼の副業のことは。彼に相談すれば、解決の糸口が見つかるかもしれませんよ」
沖矢はなぜか、我がことのように誇らしげにウインクした。しかし、トウコは目を泳がせてから、うつむいた。
「それは……ええっと」
「おや。お気に召しませんか?駆けだしの探偵だそうですが、腕はたしかだと聞いていますよ」
いかにも不思議そうに首をかしげる沖矢に、トウコはテーブルの木目を数えながら、たどたどしく答えた。
「じつは安室さんには以前、個人的な依頼をしたことがあるんです。ポアロでもお世話になっていますし、信頼はしているんですが……」
「ではなぜ?」
トウコは言おうか言うまいか、すこし迷った。
「最近……すこし、話づらくて」
「それは、どうしてですか?」
ある種、無礼とも思える勢いで重ねられる質問に対し、それでもトウコは真面目に答えを検討した。
連絡してくるなと言われているから。
必要なことは風見に報告すべきだから。
立場が違いすぎるから。
いろいろな理由が思い浮かんだ。
しかし、どれも、考えれば考えるほど『ポアロに行く』『安室と話をすること』を直接禁ずるようなものではないように思えた。
トウコは力なく頭を垂れた。
「理由は、わかりません」
「……そうですか」
沖矢はそれ以上、追及してはこなかった。
「では、この話はなしにしましょう。人通りの少ない道は歩かないこと。引きつづき警察には相談すること。いいですね?」
「はい」
「それから―― 」
沖矢はごそごそと懐を漁り、手帳とペンを取りだした。メモのページを丁寧に破りとり、何かを走り書きする。
「私の番号です。何かあったらいつでも連絡してください」
「ここまでお世話になるわけには……」
恐縮するトウコの手に、沖矢はひどく慣れた仕草でメモを握りこませた。
「お気遣いなく。トウコさんには悪いですが、こう見えて百パーセントの親切心ではありません。私も興味があるんです」
「興味?」
彼は細い目をいっそう細めて笑った。
「ええ。隠された青い紅玉に」
家まで送っていくという沖矢の申し出を丁重に辞退したトウコは、疲れた身体を引きずって、ひとり夜道を辿っていた。
夜とはいえ、通りは十分に明るい。
闇色のアスファルトには、電光看板の光がぴかぴかと飛び跳ねている。
防犯カメラのない場所や人の少ない場所を避けて歩いているうちに、彼女は自然とここに入りこんでいた。
光と闇の踊る街。奇しくも、最近までよく出入りしていた歓楽街だった。
一般的に、夜の繁華街は治安が良くないとされる。
しかし、こういう場所の住人は鼻が利くうえ、縄張り意識も強い。余所者が入りこめば、誰といわず、その監視をはじめる。『危険な余所者』に追われているかもしれない今のトウコには、かえってそういう周囲の目がありがたいのだった。
週末の夜だけあって、人の数は表通りに負けず劣らず多かった。
その中にはちょっと怪しい人間―― 白い粉の入った袋をこっそりやり取りしているような方々も一部混じっているのだが、例の尾行者に追いかけまわされることを思えば、そういう連中のあいだを歩くほうが、まだ安全に思えた。
力を抜けば今にも倒れてしまいそうなほど、トウコは疲れていた。
早く家に帰りたい。早く帰って寝たい。頭を占めるのはそんなことばかりで、だからこそそうなったのかもしれなかった。
自らもよく知る、間違いのない道ばかりを選んで歩くうち、気付けば、ある場所に辿りついていた。
繁華街の外れ―― 通りを一本表に出れば料亭や高級ブティックが立ちならぶその場所は、降谷の送迎の際、いつも車を停めていたポイントだった。
思いだすのは、濃厚なオーデ・パルファム。それから、足早に立ち去っていく後ろ姿。
自分でも良くわからない気持ちに襲われたトウコは、彼が彼女にやったように、きっぱりと踵を返した。
―― 早く帰ったほうがいい。たぶん、すごく疲れてる。
そうして駅に向かって足を踏みだそうとしたときだった。
どこからともなく、ふわり、と甘いバニラが香った。記憶にあるものと寸分たがわないそれに、トウコは条件反射的に行動を起こした。
とっさに物陰を探して身を隠す。
きらびやかな路地から現れたのは、若い男女だった。トウコはその姿を見た途端、はっと口を押さえた。
若い女に寄りそうようにして歩いてくるのは、降谷だった。