女とともに路地から現れたのは、降谷だった。
File.18 視線(Ⅳ)
トウコは、はっと息を詰めてしまいそうになるのをこらえて、路地の男女を注視した。
まずひとりは、若い女だった。
まず目につくのは栗色のロングヘア。肩のラインに沿うようにして、やさしく優雅に波打っている。長めのスカートを履いて、露出を控えた出で立ちだったが、窮屈そうに押し出された白いサマーニットの胸を見れば、スタイルの具合は簡単に想像がついた。
顔立ちは色白でたおやか。にこやかにほほえむその顔は、妖艶さよりも繊細さや穏やかさといった言葉が似つかわしい。
歩くたびに、長いまつげがつやりと可憐に揺れる。
女優とまではいかないが、ファッション雑誌のモデルくらいなら、なんなくこなせそうな女性だった。
そして問題のもうひとり―― 隣の美女にすこしも見劣りしないばかりか、むしろひときわ強い存在感を放つ男だ。
明るい髪と眼の色が周囲の視線を惹きつけてやまないその人物は、見慣れないブランド物ばかりを身に着けてはいるものの、何度見ても、やはり、彼だった。
彼は柳腰の女に手をまわし、ゆったりと散歩するような歩調で路地を歩いていた。女のほうも安心しきった様子でエスコートに身を任せている。
ふたりは、数歩ごとに耳元で何事かを囁きあっては、くすくすといかにも楽しそうな笑い声を立てていた。
その姿からは、古くからの幼馴染のような、気のおけない親密さが見てとれた。
彼女はどこかあっけにとられて、ふたりの様子を眺めていた。
誰だろう、とは思わなかった。女のほうは、多少秀でた容姿ではあるが、たとえば前に見たベルモットという女のような『裏』の気配を纏ってはいない。
善良で、一般的。立ち振舞いには育ちの良さすらにじみ出ている。それなりに裕福な家庭で、愛情たっぷりに育てられた女の子、という感じだ。
どこからどう見ても民間人。しかもかなり真っ当な。トウコのアンテナが、ここ数年の平和ボケで完全にダメになってしまっているのでなければ、だが。
トウコの感覚を裏付けるように、女は、これほどまでに熱心に見つめているトウコの視線にまるで気づいていない。
コツコツ、とパンプスの踵で丁寧に石畳を鳴らしながら、女はまつげを上げた。
「今日のサプライズ、すごく嬉しかった。忙しいのにわざわざありがとう」
「それは良かった。僕のほうこそ、久しぶりに楽しい時間を過ごせたよ。最近本当に忙しくってさ」
「仕事熱心だものね」
「あはは、そんなふうに言ってくれるのは君だけだよ。要領が悪くて時間がかかってるだけさ」
「またそんなことばっかり言って」
くすぐったそうに笑いあうふたり。女性の側にも媚びた様子はなく、互いをきちんと尊重する対等な関係のようだ。
どちらも心底会話を楽しんでいる声で、嘘を言っているようには聞こえなかった。
仕事の可能性は、もちろん十分にある。しかし同時に、それとは無関係の―― たとえば、大学時代の同期だとか、以前命を助けたこのある依頼人だとか―― を想像しても、すこしもおかしくはないように思われた。
だからこそ、彼女は少々動揺していた。
降谷のプライベート、とくにそういう話は、彼女にとって完全に未知の領域だった。
直接訊ねたことはもちろん、話題として触れたことすらない。
独り身だとか、仕事人間だとか、彼女が普段彼に対して言っているあれこれは、真偽を考えたこともない、ただの戯言にすぎないのだ。
これまでろくに考えてこなかった事柄について、彼女は今更ながら必死に頭を働かせた。
その結果、彼女は至極単純な事実に思い至ることになった。
それはつまり、こういうことだ。
彼ほどの男性に、そういう相手がひとりもいないというほうが、よほど不自然な話ではないだろうか、と。
いくら他人に明かせない特殊な仕事をしているからといって。
ストイックで、他人に心を許さないように見えるからといって。
命を捨てても守りたいものがあるからといって。
彼が恋をしないと誰が決めた。
彼女は、いつの間にか詰めてしまっていた息を、無理やりに吐きだした。
何をやってるんだ、私は。
どっちでもいい。そんなもの、どっちでもいいに決まっている。仕事だろうがプライベートだろうが、彼女には関係ないし、知る権利もない。
たとえば仕事だったとして、詳細を知らされていない時点で関わるべきでない案件だということだし、本当にプライベートな話なら、それこそ、首を突っこむ権利なんてない。
彼女は安室の助手であり、降谷の部下である。しかし、それ以上でもそれ以下でもない。彼女に踏みこむ権利はなく、彼にも踏みこませる義理はない。
それはこうやって、降谷が彼女のことを知り、身内に引きいれた今になっても変わらない。
彼女と降谷は、どこまでいってもそういう関係だ。
トウコは踵を返し、反対方向に向かって歩きはじめた。
胸の中には、後悔と申し訳なさが混じったもやのようなものが広がっていた。自分の迂闊さに、苛立ちすら感じる。
わざとではなかったにせよ、出歯亀なんてするんじゃなかった。下世話だし、何より本人に対して失礼だ。
そうわかっているのに、トウコは今なお、見知らぬ女性に腕を絡ませる彼の動機を探ろうと、背後の会話につぶさに耳を傾けているのだった。
女のほうが柔らかな声で言う。
「次はいつ?」
「君が望むならすぐにでも。実はもう次の店も見つけてあるんだ。知人が経営しているフレンチなんだけど、きっと気に入ってもらえると思う」
「やったあ。嬉しいな」
隣を歩く男の答えに、女が華やいだ声をあげる。
その歓声があまりにも明るくて裏表のないものだったので、彼女はさらにうつむいた。
善良で清らかで、眩しい。自分にはひっくり返ったって出せない声だ。
しかしそんな思考も、そのあとのふたりの行動によって、跡形もなく消し飛んでしまうのだった。
表通りまであとすこしというところまで来て、女はしずかに足を止めた。
「本当はもうすこし一緒にいたかったけど……お仕事ならしかたないね」
わずかな寂しさをにじませつつ、女性はそれでも前向きな声で別れを告げた。相手に寄りかかることも縋ることもない大人びた態度だ。
去り際、「無理はしないで」と瞳を伏せるようにほほえんだ彼女に、男が息をのんだ気配がした。
「―― 待って」
男の喉からこぼれ落ちたそのひと言は、ひどく真摯で、焦がれるような色すら帯びていた。
その瞬間、彼女は『どうして自分はいつもこうなのだろう』と思った。
見たくないもの。見ないほうがいいもの。そういったものが近づいてきたとき、彼女は決まって選択を間違える。自分から、袋小路に入りこむ。
彼女はいつだって、逃げたいものから逃げられない。
呼びとめられて女が振りかえったのと、声につられてトウコが後ろを見てしまったのはまったく同じタイミングだった。
背後を振りかえったトウコが見たのは、覆いかぶさるようにして、女の顎を捉える彼の姿だった。
はじめはついばむように、やさしく、あたたかく。次第に熱く、性急に。何度も何度も、角度を変えて繰りかえされるそれ。
「あ……」
うめきのような短い吐息は、男にすがりつく女のものだったのか、それとも逃げそこねたトウコ自身のものだったのか。
とにかく、トウコはその声で我に返った。そして、そんな彼女に、人並み外れて用心深い彼が気付かないはずはなかったのだ。
一心不乱に唇を貪っていた男が、女の顎に手をかけたまま、視線だけを投げて寄こした。
闇に光る青い瞳。
不思議なことに、そこには焦りも驚きもなかった。もしかしたら、降谷ははじめから、彼女がここにいることを知っていたのかもしれない。
感情の伺えない瞳だったが、ただひとつわかるのは、彼はけして彼女の行いを許していない、ということだった。
降谷は、責めも怒りもしないかわりに、別の方法でトウコを罰した。
腕に力を込め、女の腰を強く引きよせる。
「ん……なに?」
女がとろんと口を開いた瞬間、彼はさっきまでの丁寧な交歓が嘘のように、荒々しく、女の唇を食んだ。息をする暇も与えず、激しく交わされるキス。
細腰を掴む腕の力と熱に、女の瞳が潤みはじめる。半開きになった唇から、どちらのものともわからない、赤い舌が、のぞいた。
「……あ……ん」
すがりつくような喘ぎが漏れてもなお、男は女を解放せず、いっそう強く求めつづけた。
しばらくして、女の身体がくたり、と腰から崩折れた。浅く息を吐きながら、濡れた瞳で男を見上げる。赤くにじんだ女の目じりに指を這わせ、彼はささやいた。
「これから予定は?」
「今夜なら別に。でも、急にどうして―― 」
「我慢できなくなった」
長い中指が、焦れたように女の背すじをなぞる。
「し、仕事があるんじゃ―― 」
「何とかするさ」
いまさら女が拒むはずもなかった。
力の入らない女を抱きかかえるようにしてタクシーを止めた彼は、そのまま後部座席に乗りこんで、明るい表通りに消えていった。
それっきりだった。
しばらくその場に立ち尽くしたあと、彼女はふらふらとおぼつかない歩調で、彼らのいた路地まで歩いていった。
狭く暗い路地には、いまだ残り香が濃厚に漂っている。鼻孔を通って体内に入りこんでくる、男と女のにおい。むせかえるようなその甘さに、彼女はなぜか苦味さえ覚えた。
誰もいない路地。ぼんやりとして何も考えられない頭の中に、いつか耳にした友人たちの言葉が響いていた。
トウコ自身にも、またトウコが置かれている現状にも、完全に無関係なはずのその問いは、どういうわけか、透明なささくれのように心の奥に引っかかってたまらないのだった。
『彼が、他の女の子と仲良くしてたらイヤだと思う?』