「たっだいまあ」
玄関ドアを開けた途端、嗅ぎなれた我が家のにおいがした。
荷物を下ろして窓を開ける。バルコニーの手すりにもたれると、初夏の風が穏やかに吹きとおっていった。
一年とすこしして戻ってきたマンションは、出ていったときとすんぶん変わらない懐かしさで、彼女の帰りを出迎えた。
File.2 青い瞳のガーネット(Ⅰ)
午前中をまるまる使って荷解きを終えたトウコは、一息つこうと真新しいカーペットに腰を下ろした。もちろん片手にはよく冷えたアイスティー。
これで少しは元の様子に近づいただろう、と彼女は部屋を見まわした。
パソコン、背の低いサンスベリア、お気に入りのポスター。数は少なくなったものの、できるだけ前と同じ位置に配置した。
一年前の『家出』―― すくなくとも彼は例の騒動をそう呼んではばからない―― の際、トウコは私物を文字どおり毛ほども残さず撤去してしまった。
その後も本配属になるまで寮暮らしだったため、特に問題はなかった。
のだが。
トウコは「うう」とカーペットに顔を埋めた。
「……はずかしい」
あれだけ徹底的に証拠隠滅・原状回復しておいて、あっさりリターン。ティーンズも真っ青のおセンチ断捨離である。
さよなら、思い出。
さよなら、愛しき日々。
君は僕を忘れてくれるだろうか。
―― みたいな。
「ああー!」
誰も見ていないのをいいことに、床をゴロゴロ転がった。
「プチ家出なんかじゃないもん。当時としては合理的な選択だったもん……」
簀巻きのように転がりついた先で、トウコはふと床の隅に目を止めた。
手を伸ばして、指先でなぞるように表面をさらう。
しかしどれだけ念入りに擦ってみても、指先にホコリはつかなかった。
一年近く放っておいたにもかかわらず、だ。
床だけじゃない。天井の隅、窓のサッシ、棚の裏。見れば見るほど、そうであるはずの場所がそうでない。
帰ってきたとき、キッチンやトイレに使われた形跡はなかった。トウコ以外の私物も一切ない。
この一年間、ここを利用する目的で訪れた人間はきっといない。
―― 別の理由で来た人はいるかもしれないけど。
トウコはホコリひとつ落ちていないフローリングにぺたりと頬をつけた。
「ほんと、大事なことは全然言わないんだもんなあ」
トウコのいない間にいそいそと掃除する男―― 思い浮かんだ後ろ姿につい苦笑が浮かんだ。もうたっぷり半年は会っていない。
あちらが忙しいのはいつものことだが、ここ最近は彼女自身にも余裕がなかった。何から何まではじめてことばかりだったのだ。
トウコはこの一年間のことを思い出してみた。
入校後、まずは六ヶ月の初任科。
新人のたるんだ価値観を一掃する、基礎カリキュラムだ。
あまり良い言い方ではないが、適性を判断するある種のふるいも兼ねているという。全体研修の中では一番キツいのではなかろうか。
それが終わったら一旦学校を離れ、三ヶ月の職場実習へ。各署地域課の所属となり、交番勤務を経験した。
その後もう一度学校にリターンし、初任補修科で二ヶ月。
さらに地域課にリターンして四ヶ月の実戦実習。
以上、計十五ヶ月。
入庁するルートによって必ずしも同じではないが、これで一応は一人前だ。
『この子』ともお別れだなあ、とトウコは処分する予定のダンボールから、顔写真のついたIDカードを取り出した。
ぱっと見るとどこかトウコに似ていて、よく見るとまったくの別人だとわかる、そんな不思議な顔立ち。
『赤羽幸恵』は、トウコが学校に通うためだけに作り出された人物だ。変装したトウコの顔貌と存在しない経歴を持つ、架空の人間。
役目を終えた彼女の今後は、『配属後、体調を崩して退職』―― ざっとそんなところだろう。
ぼんやりと天井のあたりに視線を漂わせながら、なんとも言えない息を吐いた。
赤羽幸恵。赤羽ユキエ。
漢字は多少ちがう。だが、偶然につけられた名前でないことは明白だった。
そして、わざわざそれを選んだのは、彼女ではない。
だいたい、このマンションにしたってそうだ、とトウコはすこしぶすくれた。
元々、『家賃が払えない』という理由で不法占拠―― じゃなくて、お貸しいただいていた物件である。諸々の事情が解決した以上、トウコを住まわせ続ける理由はない。彼女自身も当然出ていくつもりでいた。
しかし、結論から言えば、彼はトウコを追い出さなかった。それどころか、驚愕のおまけまでついてきた。
「まさか、正式に部屋の管理人に任命されるなんてね……」
と、トウコは指を顎に当てたポーズで格好つけて言ってみた。
まさか、である。
ここは元来、彼のセーフハウス兼、着替え場所だ。
洗濯・クリーニング・定期的な清掃など、手間のかかる雑事を引きうけてくれる相手がいれば便利は便利にちがいない。どこぞの喫茶店員が、助手をこきつかうにしても、決まった密会場所があればスムーズだ。
でも、それにしたって、わざわざトウコを選んで続投させる必要性はないわけで。
「家賃も要らないって言われちゃったし」
あくまでも仕事場、という理由でショバ代支払いの申し出も却下された。
ありがたい反面、社会人としてはなんだか落ち着かない気持ちになってしまうので、相当額はこっそり積み立てておくつもりだ。
何から何まで。なんというか。
またしてもぷかりと浮き上がってきた思いに、トウコは瞳を伏せた。
実は、警視庁でのオリエンテーションが終わった翌日、トウコはさっそく風見から『任務』を言い渡されていた。
危険性は高くないものの、おいそれとは口にできない類の、非常に特殊な『任務』だ。
なんだかなあ、と本日三回目になるため息をついたとき、柱時計がポーンと軽い音で時刻を告げた。
午後二時。
昼食は食べていない。
『約束』まではまだまだ時間がある。
しばらく考えを巡らせたあと、トウコは身体を起こした。
そうだ、久しぶりにあそこに行こう。
ポアロに行くのは一年ぶりだった。
久しぶりに歩く米花町の町並みは、最後に来たときとほとんど変わりない。
目につく違いといえば、駅近ビルの一階テナントがコンビニからドラッグストアになったことくらいか。
警察学校に通うあいだ、周囲には『留学に行く』と伝えてあった。突然消えては怪訝に思う人間も出てくるだろう、という上からの指示である。
「忘れられてたらどうしよう。いや、さすがにそれはないか」
ぶつぶつ呟きながら、記憶をたどった。
店全体に漂う、古くて優しい木の香り。お腹の底をくすぐるようなコーヒー豆のにおい。茶葉のにおい。
着いたら真っ先に、「アールグレイのホットひとつ、ミルクつきで!」だ。
居ても立ってもいられなくなり、トウコはいっそう早足になった。
一年ぶりの極上ティータイムに向かってまっしぐら。
声が聞こえてきたのは、そんなときだった。
「うーん、もう!」
若い女の声だった。焦れたようなそれは少し先の路地から聞こえてくる。
曲がり角から顔を出したトウコが目にしたのは、すこし変わった二人組だった。
「もうちょっと、あともうちょっとなのに……」
つぶやきながら自動販売機の足元にかがみ込んでいる人影がひとつ。紺色のブレザーとスカートは、地元の高校のものだ。
そして、お尻を突きだして地面に這いつくばる彼女のまわりを、オロオロと歩き回る人影がひとつ。
ランドセルを背負ったメガネの少年だった。
「も、もういいよ、蘭姉ちゃん。博士にまた作ってもらうからさ!」
「阿笠博士だって忙しいんだから、そんなに簡単に諦めちゃだめよ。わざわざ探偵団用におそろいで作ってもらったんでしょ?」
「でも」
「それに、もうちょっと頑張ったら取れそうなんだから」
そう言って、女子高生は握った木の枝で、自動販売機の下をガサガサやった。スカートがめくれて太ももがあらわになる。
ランドセルの少年は見てはいけないものを見たように、大慌てで両手を振った。
「ス、スカートが―― じゃなくて、制服が汚れちゃうよ!」
なんとなく状況がわかってきたトウコは、見るに見かねて声をかけた。
「あのう、何を落とされたんですか?」
自販機と格闘していた少女がはっと顔を上げた。
前髪がつやりと弾む、整った顔立ちだ。
トウコは、おや、と顔には出さず驚嘆した。
一方、慌てて立ち上がった少女は、木の棒を放り出して気恥ずかしそうに事情を説明した。
「子ども用のピンバッジを落としちゃって。奥のほうに転がっていったみたいなんですけど、狭いし、見えないしで」
「大きさは?」
「これくらい!」
ボーイソプラノが割って入る。
ランドセルの少年は背伸びをしつつ、指で小さな輪を作っていた。
「なるほど」
状況を把握したトウコは、カバンを漁り、いくつかの商売道具を取り出した。
「ビニールテープと、ドライバー?」
みんな大好き・七つ道具。
ドライバーがあれば大体の物は解体できるし(何を解体するのかは聞かないでほしい)、ビニールテープは拘束・絶縁など非常に便利に使えるため(何を拘束するのかも聞かないでほしい)、トウコは外出の際かならずこういった道具を持ち歩くようにしている。
首をかしげる女子高生の前で、トウコは慣れた手つきでプラスドライバーの先端部を取りはずした。
少女がさっきまで手にしていた木の枝を拾いあげ、ビニールテープを使って枝の先にドライバーの先端部を固定する。
「はい、完成」
出来上がったのは、枝の先にドライバーの先端部がくっついただけの簡素な道具だった。
「さて」
トウコはさっきの女子高生と同じような格好で、自動販売機の下に木の枝を突っこんでゴソゴソやった。
手応えを感じたところで、慎重に棒を引っ張りだす。
あ、と女子高生が小さな歓声を上げた。
木の枝の先には、予想のとおり、小さな金属製のバッジがくっついていた。
「すごーい!さっきまで、いくらやっても取れなかったのに」
「えへへ。でもそんなに難しい話じゃないよ」
首をかしげる彼女の前で、トウコは持ち主の少年にバッジを返した。
手の中のそれをちらりと見た彼は、年相応の仕草でひとしきり首をひねったあと―― どこか確信めいた口調で言った。
「もしかして、磁石?」
ぴんぽーん、と指を立てたトウコだったが、内心すこし驚いていた。
見たところ小学生といっても低学年のようだ。この年齢じゃ、磁石という言葉すら知らない子どもだっているのに。
トウコは驚きを顔に出さないようにしながら、ふたりに仕組みを説明した。
「作業のときにネジを落っことさないよう、ドライバーの先端部分は磁石になっていることが多いんだよ。これくらいのピンバッジなら、簡単にくっついちゃうの」
「へえ、そうだったんだ!」
はなやいだ声をあげる女子高生とは対照的に、少年は読めない瞳でトウコをじっと見上げている。トウコと目が合うと、彼はモジモジした様子で口を開いた。
「えーっと、うーんと、なんだか不思議だなあ」
「不思議?」
「だって、ドライバーは工事や作業をするときの道具でしょ?そんなものを持ち歩いてるってことは、お姉ちゃんは工事会社の人なのかな?」
さっきとは打って変わって、好奇心いっぱいの無邪気な瞳だった。
だが、トウコはなぜか一瞬どきりとしてしまった。
―― 疑われてる?
そして、その逡巡がいけなかった。
こんな小さな子に疑われるはずがない―― そんな当然の思考を持つより数瞬早く、トウコの中で半自動的にスイッチが入った。
命令中枢が、おそろしい速度と精密さで『正解』をはじきだす。
喉の奥から、歌うような軽い声が出た。
「どうしてでしょう。当ててみて?」
口角は上がり気味。頬は好奇心たっぷりにえくぼを浮かべている―― 気付いたときにはもう、トウコの顔はそういう形に調整されていた。
危険回避のためだけになされる、無機質で機械的なチューニングだ。表情と声音のすべてが無意識のうちに最適化され、彼女の意思が介入する余地はない。
にもかかわらず、そうやって出力された所作は、トウコ本人にすら『自分は心の底からそう思っている』と錯覚させるほど、自然で人間味あふれた形をしている。
騙すことも、偽ることも、演ずることも必要ない。
彼女はいつもありのまま。
「えっと……」
少年はどこか面食らったように口をつぐんだ。頬にわずかな赤みがさしている。
感情の内訳は、ちょっとした後ろめたさと気恥ずかしさ―― たとえば『何の罪もない一般人』にあらぬ疑いをかけたことを恥じている、とか。
そう認識した瞬間、ふっと力が抜けるように身体のコントロールが戻ってきた。
対象の変化を感知して、稼働していた『 』がふたたび休眠状態に入ったのだ。
糸が切れたようにどっと疲れが襲ってくる。
そして同時に、言いようのない怒りが湧きあがってきた。
よりにもよって、こんな小さな男の子に?
見境がないのもいい加減にしてくれ。
どんな悪態でも足りないような気持ちだった。
幼少期、言葉にするのもおぞましいありとあらゆる手段を用いて、トウコの中に植えつけられたもの―― 『 』はその根であると同時に、結実だった。
こうやって思いだしたようにみじろぎしては、トウコの平和をかき乱す。それが穏やかな日常の一場面であればあるほど、やりきれない思いになる。
彼女の中に巣食う膿。
トウコが己の中に潜む異常性をよりはっきり認識するようになったのは、佐神トウコとして、この平和な国に生きるようになってからだった。
条件反射でもなく、二重人格でもない。
彼女の中に存在しながら、彼女自身には指一本触れられないブラックボックス。無理に言葉にするならば、『 』はそういう類の何かだった。
『 』についてトウコが知っていることはたったひとつだけ。
これは―― 。
「あっ、わかった!DIYでしょ?」
明るい少女の声が、トウコを現実に引き戻した。
トウコは一瞬前に考えていたことをすっかり忘れて、機嫌良く「当たり!」と答えた。
「こうやっていろいろ作るのが趣味で。まさか、こんなところで役に立つとは思わなかったけど」
「なーんだ」
予想していたとおりの、ありきたりな答えだったらしい。少年は退屈そうに頭の後ろで手を組んだ。
「『なーんだ』じゃなくて!その前にお姉さんに言うことがあるでしょ、コナンくん」
「おねえちゃん、ありがとう」
素直に礼をした少年につづき、少女のほうもぺこりと頭を下げた。
「ありがとうございました。もしよければ、何かお礼をさせてもらえませんか?」
「いえいえ、このくらい別に」
「でも、服……汚しちゃったし」
少女の視線がいかにも申し訳なさそうにトウコの膝元に落ちる。
つられて見ると、薄青のワンピースの裾に泥汚れがついていた。
困ったような顔の女子高生と、それを見上げて困ったような顔になっている少年。
トウコはすこし考えてから「じゃあ」と切り出した。
「ひとつだけ、お願いごとを聞いてもらえませんか?」
「お願いごと?」
トウコはうなずいて、今度こそ本当の笑顔を見せた。
「あなたにしかお願いできないことです―― 毛利蘭さん」