細い路地を入っていった先、待ちあわせ場所は隠れ家のようなレストランだった。

 ひっそりと佇む建物は地味ながらもいかにも『一見さんお断り』といった風情である。今一度トウコはドアの前で自分の着衣をあらためた。
 買ったばかりのちょっとお高いワンピース。
 ほつれなし、シワなし、汚れは―― まあ、よく見なければわからないだろう。

 『まともな格好をしてこい』の具体的な内容がわからなかったため、悩んだすえの『まともな格好』だったが、これでよかっただろうか。ドレスはさすがにやりすぎな気がしたし、女のスーツは物々しすぎるし。

 約束の時間まであと十分。
 にかぎって店の前で待つような不用心なことはしないだろう、とトウコは覚悟を決めてドアを開けた。

 

Chapter.1 時計の針は二度回る

File.5 青い瞳のガーネット(Ⅳ)


 扉の向こうは、照明を抑えた瀟洒なエントランスだった。
 和の雰囲気を取り入れたモダンな内装。ツヤのある天然木が目に美しい。
 どこからか黒服を着こなしたレセプショニストが現れて、何を言わなくても案内をはじめる。
 連れられて行った先は、一番奥の個室だった。

「時間ぎりぎりだな」

 引き戸を開けて、真っ先に視界に飛びこんできたのは壁に掛かったスーツ・ジャケットだった。クロークを使わないのはいつものことだ。
 仕立ての良いネイビーは、普段着ているビジネス用ではないものの、それほどフォーマルな印象は受けなかった。
 スーツやドレスを着てこなくて正解だった、ととりあえずほっとしてから、トウコはようやく先客に視線を合わせた。

「すみません。行き道でちょっとしたトラブルがあって」
「強盗犯を捕まえろと言った覚えはないが?」

 淡い照明の下、琥珀色の髪が揺れる。
 とくに嬉しそうでも不機嫌でもなさそうな顔で―― 降谷はトウコを出迎えた。半年ぶりの再会だったが、たいした感慨はないらしい。

「あいかわらず早耳ですね」
「あそこは僕の管轄テリトリーだ。どんなことでも耳に入るさ」
「私のことも?」

 降谷はじろりとトウコを見た。

「僕あっての君の立場だ。警察学校だろうが外出先だろうが、僕には君を監督する義務がある」
「それがたとえ高級レストランであっても」
「そう。たとえ仕事とは無関係の、ちょっとした祝いの席でも」

 ここで降谷はようやく表情らしいものを見せた。形のよい眉は微動だにしないものの、どこか笑いたいのをこらえているような顔だった。

「お元気そうでなによりです」
「元気なもんか。朝から晩まで働きづめで、イスに座る暇もない」
「座りっぱなしより立ちっぱなしのほうが健康にいいらしいですよ」
「一年かけて矯正しても、減らず口は減らなかったらしいな」

 それでもやはり不機嫌ではないらしく、降谷は明るいブルーの瞳をトウコに向けた。

「さあ、前置きはもういいだろ。どこぞの不届き者に待たされたせいで、喉が乾いてしかたない」

 長い指が焦れたようにグラスの持ち手をなぞる。トウコも合わせて手元の器を持ちあげた。

「乾杯」

 

◇◇◇

「おいしい!このドレッシング、何が入ってるんでしょう」
「醤油とわさび。あとはたぶんヘーゼルナッツオイル」

 皿の上で和風パテを切りわけながら、降谷はこともなげに言った。
 マナーに則りフォークとナイフで食べるのかと思いきや、それがどうしたと言わんばかりに備えつけの箸を使っている。

「また自分で真似して作っちゃうんですか?」
「ここのシェフとは個人的な縁があってね。さすがにそんな無粋はしないさ」

 気遣いがありそうに聞こえて、よく考えると全然そうでもないセリフである。
 この人はそういえばそういう人だったな、とトウコは若干引き気味に思いだした。

「ハンバーグ、また作りに来てくださいよ。ストレス解消がてら」

 降谷はすこし意外そうな顔をした。

「ふうん。君のほうからお呼びがかかるなんてね」
「いやその……あのマンションは降谷さんの持ち物だし、今までどおり好きに使ってもらってかまわないのになー、って」
「僕が君に遠慮するって?」

 反語疑問文。そうだな、するわけない。

「歯に物が詰まったような言い方はやめろ。君が気になっているのは家賃のことだろ」

 どストレートに言い当てられて、トウコも観念した。

「だって降谷さん、近頃ぜんぜん使ってないじゃないですか。このままじゃ私の占有物になっちゃいます」
「利用したいのはやまやまだけどな、どこかの誰かが非常識きわまりない家出をかましたせいで、家具どころか床や壁の傷まで―― それについてはどう思ってる?」

 トウコはぎくりと仰け反った。それは言わない約束だ。

「と、とにかく、今後も私がメインで使わせてもらう以上、すこしくらいは出させてもらいたいんです。今はそれなりにお金もありますし……」
、だと?」

 降谷の目がぎろりとトウコに向いた。
 新しい仕事をはじめるにあたり、トウコはそれまでやっていたアルバイトをすべて辞めた。公務員になる以上は当たり前のことだ。

 セキュリティシステムの開発から、クラッカーへの直接対処まで、主な得意先は海外だったが、辞めると言ったらクライアントには大層泣かれた。
 そして、最大の収入源だった宅天市場のネットショップは―― そのまま店ごと売り飛ばした。これが思ったよりも良い金になった。

「そのうえ、ハイツ・アサヒを含む『佐神トウコ』所有の不動産も手元に転がりこんでいるときた」

 これも、しかり。
 トウコは今や名実ともにハイツ・アサヒの大家オーナーだった。青田など古い住人は本当の『佐神トウコ』を知っているので、管理はこれまでどおり湯守にお願いしている。

「君の場合、受け継いだもので私腹を肥やす気はないだろうが、資産は資産だ。ぶっちゃけ君、僕より持ってるんじゃないのか?」

 責めるような圧力に晒されて、トウコは視線を泳がせた。さすがに彼の懐具合なんて知らないけれども。

「いいか。あのマンションにまつわる事柄について、君への配慮はいっさい含まれていない。追いだすつもりならとっくの昔に追いだしてるし、払わせるつもりならとっくの昔に払わせてる」
「……承知しました」
「素直でよろしい」

 降谷は軽い手つきでワイングラスを持ちあげた。トウコも倣ってグラスに口をつけた。

「一年ぶりにから戻ってきたわけだが、もうポアロには顔を出したか?」
「ええ。毛利先生にはお会いできませんでしたが……ねえ、毛利先生はこれからも私たちを組ませるおつもりなんでしょうか」
「それが、どうも当分はなさそうなんだ」

 彼自身も意外に思っているような口ぶりだった。

「僕からも君が帰ってきていることはそれとなくお伝えしたんだが、あまりそういう感じじゃなくてな」

 以前の毛利は何かにつけ安室とトウコをセットで使いたがったものだが。
 心境の変化でもあったのだろうか。

「でも、ちょうど良かったかもしれませんね。近頃は『探偵の安室さん』も有名になってきましたし。噂の安室さんの助手が女なんていかにも炎上しそうなネタです」

 トウコはハッ、と口を押さえた。

「もしや毛利先生はそこまで読んで……!?」
「なにが『いかにも炎上しそう』だ。そんなもの、するならとっくにしてただろ」

 降谷は憎たらしそうな顔になり、食べ終わった皿の縁をはじいた。

「よく考えたら妙な話だったよ。あれだけ堂々と連れてまわっていたのに、ポアロの客が君の噂をするのを一度も聞いたことがなかった」
「ほええ。何のことでしょうか?」
「すっとぼけるな。やってたんだろ、と」

 睨みつけられて、トウコはしぶしぶ口を開いた。

「だって、考えてもみてくださいよ。どこの馬の骨とも知らない女が『安室さんの助手』なんて人気職に就いて、無事でいられると思います?」
「それでせっせとか。いやはや、さすが専門家だな」

 皮肉をたっぷり塗った言葉の穂先で、降谷はトウコをネチネチと突いた。トウコトウコでくちばしをとんがらせる。

「たいしたことはしてませんって。法に触れない範囲でチョメチョメしてただけです。炎上して大やけどするよりマシだったと思いませんか?」
「俺のプライドはそれなりにズタズタだったが?」

 比較的本気らしい声音で言われて、トウコは即座に敬礼した。

「最上級の褒め言葉です!」
「……勝手にしろ」

◇◇◇

 デザートが運ばれてきたところで、降谷は唐突に切りだした。

「『任務』のことは聞いているな」
「はい」

 トウコは「ついに来た」と思った。先日命じられた『非常に特殊な任務』のことだ。

「君は来週より―― 大学にする」

 潜入捜査だ、と念を押すようにくりかえす彼に、トウコはぎゅっとスカートの膝をつかんだ。
 そうだ。これだ。

 警察官になることが決まったとき、彼女はもちろん今通っている大学を退学するつもりでいた。『佐神トウコ』として生きる以上、不正に取得した大学生の身分を維持しつづけることは許されない。
 しかし、彼はなぜか警察学校に通うことになった彼女に対し、留学という口実を使った一年間の『休学』を命じた。

 『佐神トウコ』でも『赤羽雪枝』でもない、もうひとりの彼女―― 赤羽トウコ』。
 彼女は今なお、ポアロと明應大学という特殊な二つの場所で生きている。
 生かされている。

 トウコは震える膝を押さえるようにして、降谷に訊ねた。

「潜入の、目的は?」
「やれることはいくらでもある。思想的に偏った学生の監視。学校施設の調査。明應大学には政府重鎮の子息も多数在籍している。場合によってはその警護なども視野に入るだろう」

 『やれること』―― 『やらなければいけないこと』ではなく。

「降谷さん、は」

 トウコは出そうになった言葉を飲みこんだ。

 淡く深い瞳。
 その瞳にこめられたものを垣間見るとき、彼女は胸の奥がぎゅっと熱くなるのだった。

 この人は、きっと――

トウコ

 彼女の反論を真綿で閉じこめるように、降谷はしずかな声で言った。どんなことでも暴く瞳が、ある程度の配慮を持ってトウコに向けられる。

 熱くて、あたたかくて、泣きたくなる。

 彼の真意はいつだって向こう岸に霞んでいる。複雑に入りくんでしまった心を知ることなんて、今や彼自身にもできないのかもしれない。

 でも、その行為の裏にどんな作為があったとしても、トウコはやっぱりこう思うのだ。

 ―― 私、甘やかされてるなあ。

 

   

「痩せましたか?」

 ジャケットを着せてやりながら、トウコは後ろから声をかけた。シャツごしに感じる背中がなんとなく小さく感じる。

「一、二キロな」

 腕を通しながら、降谷が振りかえった。淡い照明に照らされて、高い鼻梁が絵画のような陰影をつくっている。

「君はすこし髪を切ったな」

 窓ガラスを鏡のように使って襟元を整えながら、彼は当然のことのように言った。

「仕事の邪魔になりますからね。似合います?」

 後ろ髪まで見せるように、くるりと一周まわる。
 ガラスを覗きこんでいた瞳が、ふとこちらを向いた。
 無造作に手が伸びてくる。
 黒髪に指を絡ませた彼は、さらさらと毛先を弄びながら、いたずらっぽく笑った。

「君が僕にそれを訊くのか?」

   

 表に出ると、気持ちの良い夜風が流れてきた。路地の周囲に人の気配はない。
 大通りに出るまでの短い時間、示しあわせもしないのに、ふたりは並んで夜道を歩きはじめた。
 どこからか電車の音が聞こえてくる。

「どうだった?」

 とてもさりげないひと言だった。
 雨の中にひと粒だけビーズ玉がまじっているような。

 今日のことを言っているわけではないと、すぐにわかった。
 自分でなければ気付くことができなかったかもしれないわずかな違い。トウコはすこしうぬぼれたくなった。

「えっと、あの」

 会ったら言おうと思っていたことが山ほどあったのに、いざ本番を迎えてみるとどの言葉も不十分な気がした。
 トウコが言葉を選ぶあいだ、降谷はすこしも焦れずに待っていた。

「まず、大変でした。面接も研修もバレちゃったらどうしようって心配だらけで。留学だって言ってる手前、外出中も変装しつづけないといけなかったし」

 言いながら、『違う、そういうことが言いたいんじゃない』と何度も言葉を変えようとしたが、一度堰を切ると、次から次へとあふれてきた。

「今だってそうです。来週から大学だからその準備もしないといけないし、風見さんから別口のお仕事を頼まれることもあって……すごく忙しくて」

 ぽつぽつと報告するあいだ、降谷はじっとトウコの顔を見つめていた。彼はいつだって気持ちのいい相槌は打たない。

 すこし時間はかかった。しかし最終的に彼女はその言葉をつかんだ。

―― はじめて、廊下を歩いたんです。あの長い廊下」
「そうか」

 彼はとても短く答えた。
 しかし、その表情で、その声で。トウコには彼にすべてが伝わったとわかった。
 もう十分だった。

「今日は本当にありがとうございました」
「たいしたことはしてないさ。風見がちょっと帰れなくなっただけで」
「ま、まさか今夜のために風見さんを生贄に……?」

 デスクに積み上がった書類の険山。
 吹き荒れるシュレッダー紙吹雪の中、遭難する上司かざみの姿を想像してしまったトウコは、おもわず片手で心臓を押さえた。

「か、風見さん……」
「真に受けるなって。せっかくの風見をこんなところで浪費してたまるか」

 良いのか悪いのか判断しかねる言葉だったが、褒められなれていない当人が聞けば泣いて喜ぶだろう。たぶん。
 あの人もなかなか不憫な人だ。

「まったく。減らず口と話していると、いつまでも話が終わらないな」

 降谷は呆れたように言って、くるりとトウコに背を向けた。歩きだそうとしてから、降谷は何かを思い出したように振りかえった。

 宝石のような青い瞳がまっすぐにトウコをとらえた。

「遅くなったけど、社会人おめでとう」


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