車に乗ること十数分。連れてこられた先は、都心の高層ビルの一角だった。

 カードキーをかざして中に入る。
 広々とした貸切フロアには、ジムがまるごと入っていた。

 トレーニングマシン、マットレススペース、ジャグジー、サウナ。
 ドリンクバーはもちろんのこと、奥のほうにはバーラウンジのようなものまで見える。夜になればバーマンが来るのかもしれない。

「会員制のフリースペースだ。一般のジムや道場には顔を出しにくい人間もいるからな」
「セレブとか?」
「あとは俺みたいな奴も。さすがに銃器の類は持込禁止だけど」

 珍しくいたずらっぽい口調で言って、彼は更衣室を指差した。

「着替えてこい」

 

Chapter.1 時計の針は二度回る

File.7 肉喰らう女たち(Ⅱ)


「て、適度な運動とはいったい……」

 一時間後、トウコはボコボコのボロボロでマットレスに沈んでいた。

「年下の女相手に普通ここまでやります?」
「加減はした」
「いやいやいや」

 さらっと答えた本人は、憎たらしいことに汗ひとつかいていない。
 実戦的な格闘訓練―― という名のしごきにより、半時間もしないうちにトウコは瀕死の重傷を負っていた。
 ゴリラ・VS・女子大生。ただのリンチである。

「君を連れてきたのは、そのたるんだ腹に喝を入れてやる意味もあるが、主に俺自身の訓練のためだ。感覚や加減を覚えるにはが一番いい」

 納得がいったトウコは、マットレスに顔をうずめた。
 女相手の制圧訓練……どうせそんなこったろうと思った。

「ただ、対女性の格闘訓練なんて言っても、なかなかいい相手が見つからなくてさ。女性との個人的な訓練って時点でいろいろ面倒だし、うまくセッティングできたとしても、年下の女の子にことをするのは……さすがにちょっとね」

 トウコのそばにしゃがみこんだ彼は、例の優男風の顔をして、はにかむようにほほえんだ。

 年下のぉ? 女の子ぉ?

 するとなんだ、私は『年上のおじさん』とでも?
 現役女子大生の私にも、その『さすがにちょっとね』とやらが適用されてしかるべきでは?

 と、指差して糾弾してやりたかったが、そこらじゅうが痛いせいで恨めしそうな呻き声しか出なかった。

「さて、そろそろ回復したな。試したい技がまだ半分あるんだ」
「い、いっそ殺せェ……」

◇◇◇

 一時間半の訓練の後、トウコはようやくシャワーにありついた。
 熱い湯で汗と疲れを洗いながし、更衣室にもどったところで、トウコはふと部屋の隅に使い捨て水着を見つけた。隣には、パーカータイプのラッシュガードも置いてある。

 『プール・ジャグジー専用:ご自由にご使用ください』
 プールはともかく、ジャグジーという言葉の響きは強力だった。

 トウコは考えた。
 降谷は訓練後すぐ、シャワーも浴びずに出ていった。鉢合わせる心配はない。
 髪を乾かして、化粧をして……よし。今からしばらく浸かっても『おかえり会』には間にあいそうだ。

 手早く水着に着替えたトウコは、きっちりとラッシュガードの前を閉じたあと、盗人のようにジャグジーのスペースに移動した。
 シャワーで軽く身体を流し、足先からそうっと湯船へ――

「もうすこし寄ってくれないか」

 背後からの声に、トウコは「ッ」がたっぷり入ったサイレントな叫び声をあげた。びっくりしすぎると声帯が仕事をしなくなる。
 トウコは忍者のような低くて鋭い体勢で、壁のほうまですっ飛んだ。

「か、帰ったはずでは!?」
「車まで着替えを取りに行ってただけだ」

 湯けむりをまとって、湯船の縁に立つ男。ローマの彫像のような立ち方で、惜しげもなく身体を晒しているのは―― もちろん降谷だ。
 トウコの眼球が緊急スキャンを開始した。

 腹から上―― 着衣なし。
 ひざから下―― 同上。

 トウコはホラー映画を見るときのように、薄目を開いたり閉じたりしながら、おそるおそるを見た。

 ―― 競泳用水着。

 トウコは詰めていた息をこれでもかと吐きだした。
 履いてた。セーフだ。

 そんなトウコを一瞥してから、彼は湯船に足を浸した。
 みっしりと詰まった重い肉体が湯の中に沈んでいく。みぞおちのあたりまで浸かった彼は、くつろいだ様子で片肘を浴槽の縁に乗せた。

「入らないのか?」

 正円を描く小さなジャグジーバス。定員はたぶん二名から三名だ。

 ここでシンキングタイム。

 ―― 知らないおじさんと相席するわけじゃない。むしろひとりで入るよりも安全だろう。彼の半径三メートル以内にいればテロリストに襲撃されたって安心だ。この場合の問題はたるたるの下半身を見られてしまうことだが……いや、見られたからってなんだというんだ。たるんでいようがいまいが、彼の辞書に『容赦』の文字はない。目の前にトウコがいれば、しごいてしごいてしごき倒すのだ。彼はそういう生き物だ。だったら、ここでいそいそと出ていって気まずい空気になるほうがマイナス――

 シンキングタイム終了。

 トウコは降谷の座る位置からちょうど百八十度離れた場所に近づいて、足先からゆっくりと湯船に入った。
 くぐもったジェットの水流音が、身体の立てる音を消してくれる。
 髪が入らないようにしながら、トウコは胸まで湯に浸かった。

 入ってしまえば何ということはなかった。
 ラッシュガードは着たままだし、下半身は水に浸かって良く見えない。
 それでも真正面から向きあうのはさすがに間が持たないため、トウコは戸口のほうに視線をやった。
 視界の隅にピントの合わない肌色が見えた。

 青い瞳がこちらを向いている―― ような気がした。

 目を閉じて入浴に集中した。
 ゴウゴウと水のうねる音がする。湯の振動が皮膚を通って内臓に入りこんでくる。あつい。あたたかい。気持ちいい。
 水の勢いに流されるように手足が揺れて―― 唐突に、触れた。

 足の指。
 そう思った瞬間にはもう、トウコは足を引っこめていた。触れたというよりもぶつかったというほうが正確だった。
 トウコはおそるおそる対岸の様子を伺った。

 降谷の目はぼんやりと水上の泡を追うばかりで、トウコのことなどまるで見えていないようだった。
 当たったのは一瞬のことだったし、気付いてもいないのかもしれない。

 トウコはめったにない機会だと、相手の観察をはじめた。
 実際、腕以外の部分をじかに見るのははじめてだった。

 胸から腹部にかけて、褐色の肌は上等な革のようにツヤがあってしなやかだ。こんな熱い場所にいるというのに、ひたりと冷たい質感さえを想像させる。
 例外は、目じり。
 熱い湯に浸かりつづけたせいか、にじんだように赤かった。
 鎖骨や脇腹あたりの皮膚の薄い部分も同様で、上気した肌にはむせ返るような熱が見てとれた。

 ―― なんだ、降谷さんでものぼせるんだ。
 と、そんなことを考えたあたりで、トウコもそろそろ限界だった。頭が熱くてぼんやりする。

「熱いんだったら先に出て待ってろ」
「まだ出ないんですか?」
「いいから早く出ろ」

 『まだ我慢できるんですか?』という尊敬の念を込めて言ったのに、彼はこちらを見もせず、低い声で唸るばかりだった。

「はいはい、出ます出ます」

 彼のプライドはいまだに測りがたい、とトウコはいそいそジャグジーを後にした。

   

 休憩スペースでフルーツ牛乳を飲んでいると、ようやく降谷が戻ってきた。

 首にかけたタオルでがさがさと乱暴に髪を拭っている。
 シンプルな色のTシャツと綿のパンツ。今日はきっとこのままポアロに行くんだろう。

 首のあたりにはまだうっすらと赤みが残っていたが、十五分前と比べると、すっかり熱の冷めたような顔だった。

「のぼせませんでしたか?」
「いや、そうでもない。さすがに長く浸かりすぎた」
「ストイックもほどほどにしなきゃだめですよ」

 ごく軽い調子で言ったのに、彼はそんなトウコを見て、なぜか「はあ」と深いため息をついた。

「出られるものなら出たかったさ……」
「ん?」
「いや、何でもない。それより飲み物を入れてきてくれ。喉がカラカラだ」

 彼はスペースの端にあるドリンクバーを指差した。メジャーなラインナップに加えて、スポーツドリンクや健康飲料なども充実している。

「何にします?」
「フルーツ牛乳は……君の飲んでいるので最後か。普通の牛乳でいい」
「がってん承知」

 クーラーボックスを開けてよく冷えた牛乳びんを取りだす。蓋をポンとやって手渡すと、降谷は半量近くを気持ちよく飲みほした。

「お風呂のあとはやっぱり牛乳ですよね」
「欲をいえばフルーツ牛乳だけどな」

 彼の言葉に、トウコは自分のびんを見下ろした。あとから考えれば血迷ったとしか思えない提案だった。

「……飲みます?」

 彼の頭がぎぎっ、とこちらを向いた。穴が空くほど凝視されて、トウコは全身に冷や汗をかいた。

 や、やってしまった。
 さすがに牛乳はアウトだったか。いや、それ以前に上司に飲みかけを渡すという発想が失礼すぎる。

「す、すみません!誓って降谷さんのことを軽んじているとかそういうわけでは――
「いや」

 手から牛乳びんがさらわれる。
 ぽかんとするトウコの前で、彼はためらいなく口をつけた。喉仏が生き物のように動き、白い中身を飲みこんでいく。
 ごく小さいリップ音とともに、びんが離れた。

「ごちそうさま」

 にじんだように赤い目じり。濡れた舌が、ゆっくりと唇をぬぐうのが見えた。
 立ちつくしていたトウコだったが、はっと我にかえった。

「あー!ぜんぶ飲んじゃった!」
「飲んでいいって言ったのは君だろ?」
「普通は一口だけですよう」

 哀れな姿で帰ってきた牛乳びんを見て、トウコは口を尖らせた。

「まあいいです。甘いものの次は塩辛いもの」
「塩辛いもの?」
「取り出したるは―― 特大カルパス!ただし食べかけ!」

 今朝食べ残したカルパスを、さっそうとカバンから取りだす。つやっとして、いかにも旨そうなごんぶと野郎である。

「いただきます」

 肉肉しい匂いに、きつめの塩味。
 一刻も早く口いっぱいにほおばって―― と大口を開けたトウコだったが、やはりというべきか、次の瞬間にはカルパスは降谷の手のひらにテレポートしていた。

「なぜ!?」
「塩分過多。添加物と脂肪でギトギト。こんなものを食べる余裕があるなら、野菜を食べろ野菜を。そんなんだから、だらしない身体になるんだ」
「なっ、何をぉ!」
「とにかくこれは没収だ」

 彼は苦々しく手の中のカルパスを見下ろした。

「ったく、こんなものを丸かじりだと……?」

 近所のスーパーに売っていなくて、わざわざ通販で取りよせた特大サイズなのに。
 怒りがこみ上げてきたトウコだったが、すぐに自分を取りもどした。
 ここはまだ彼の領土リングだ。下手に機嫌を損ねると、第二ラウンドがはじまってしまうおそれがある。

「……わかりました。その子はお譲りします。そのかわり、私の代わりに残さず食べてあげてくださいね」

 降谷は露骨に嫌そうな顔をしたが、トウコが「食べてあげてくださいね?」と繰りかえすと、しぶしぶうなずいた。

「ま、もう五時半ですしね。おっしゃるとおり、たしかに間食をするより、晩ごはんをしっかり食べたほうが―― 五時半!?」

 トウコはデジタル時計の表示に目を剥いた。
 まずい。髪を乾かす時間もない。

「お先に失礼しますッ!」

 ぽかんとしている降谷を置きざりに、トウコは脱兎のごとく逃走を図ったのだった。

◇◇◇

 その晩の『おかえり会』。
 駆けこみで到着したトウコは、案の定、肉食獣たちの上等な生贄となった。

「めずらしく遅刻してきたと思ったら……」
「濡れ髪のうえほとんど化粧もしてなくてぇ」
「しかもちょっと疲れてる。昼間からどんな激しいをしてきたんだか」

 だ・い・た・ん。
 三人は「やーん!」と嬌声を上げた。

「あたしたち想像してたの。偶然立ち寄った公園で、読書中の美青年と出会ったトウコは……」
「はじらいつつも、ミステリアスな色香に身体をほてらせ……」
「もつれあうようなキスのあと、木陰で背徳的な昼下がりを……」
―― 過ごしてません!」


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