ごほごほ、と乾いた咳が出た。
せり上がってくるような空咳。鼻から喉にかけてが、塩でも塗られたようにヒリついている。
「やっちゃったな……」
三限を終えての帰り道、トウコはかんでもかんでも出てくる鼻水と戦いながら、ほんのり熱っぽい額に手を当てた。
File.8 ノックアウト・コールド(Ⅰ)
―― 風邪を引いた。
要はそれだけの話なのだが、トウコにしては珍しいことだった。主に育ちの問題で、彼女はほとんど体調を崩さない。正確には、崩さないようにしている、だが。
数日前から喉に違和感を感じてはいた。
その都度、うがいをしたり薬を飲んだりしていたが、結局たいした効果は得られなかった。
そして今朝、起きたときにはもうこんな感じだった。
無性にイガイガする喉。ノンストップの鼻汁。重苦しい頭痛に、悪寒とめまいのおまけまで付いている。風邪とはそういうものなのだが、普段元気なぶん余計に辛く感じてしまう。
力のない足取りで歩きながらも、『三限までの日で良かった』とトウコはくり返し安堵していた。
彼女自身も欠席を回避できたし、クラスメイトにもうつさずに済んだ。万が一にでもクラスで流行らせてしまったら一大事だ。皆が授業に皆勤できなくなってしまう。
と、こんな感じだが、風邪で錯乱しているわけではなく、真面目も真面目、大真面目である。本人は気付いていないが、こういった事柄に関して、彼女は一般的な大学生とはすこし違った感性を持ちあわせている。
買い物だけして、早く帰ろう。
トウコはそう決めて歩調を速めた。
トランポリンの上を歩いているような浮遊感がある。そこはかとなく気分も悪い。
百メートル先のドラッグストアに行くのも億劫で、トウコは手っ取り早く目の前のコンビニに入った。
風邪といえば―― と、バカのひとつ覚えのように、スポーツドリンクをかごに入れる。近くにあったビン入りの栄養ドリンクも三本ほど追加。
「薬はあるから……」
食べるものを買おうと惣菜コーナーに移動したが、何を見ても食欲がまったく湧いてこない。かといって、手ぶらで帰っても、家にあるのはカップ麺とエネルギーバー、それから例の極太カルパスだけだ。
とりあえず一番味の薄そうなサラダチキンと、プレーンなインスタント粥を選び、かごに入れた。
あとは何が要るんだっけ。
足りないものを思いうかべながら、トウコは隣の通路に向かった。たしかマスクが少なかったはずだ。
女性用の一回り小さいものを買おうと、最上段に向かって背伸びをする。
そのときだった。
何か嫌なことでもあったのか、仏頂面の中年男がすれちがいざま思いきりトウコに肩を当ててきた。
「わっ……!」
普段ならこれくらいでどうにかなったりしないトウコだったが、今回はさすがに条件が悪かった。
派手にバランスを崩した彼女は、受け身もろくに取れないまま、盛大にコンビニの棚にぶつかったのだった。
「痛った……」
棚の中身を巻き添えにしながら、崩れおちるように床に膝をつく。リノリウムのうえで、じーん、と手のひらがしびれた。
商品は散乱し、人の視線は集中する。
風邪の辛さも忘れて、トウコはばねのように跳ねおきた。
ああ、みっともないことになった。
風邪のものとは違う真っ赤な顔で、散らばった商品を拾いあつめた。
そのとき前のほうで不機嫌な声が聞こえた。
「おい、おっさん。アンタのせいでこうなったんだから、手伝うくらいしたらどうだよ」
トウコを庇うように抗議の声をあげたのは、レジ待ちをしていた若い男性客だった。
レジを目前にして長蛇の列から惜しげもなく離脱した彼は、遠くまで飛んでいった商品を拾ってから、トウコのそばにしゃがみこんだ。
「大丈夫か?」
「は、はい!ありがとうござ―― 」
恐縮しきりで礼を言おうとしたトウコだったが、そこでお互いに停止した。
いや、正確には、三人で停止した。
なぜならトウコを助けた男は女連れで―― しかも男女ともに知った顔だったからだ。
「え?」
トウコ以上にびっくりした顔でこちらを見下ろしていたのは―― いつぞやの依頼人・十勝とその元カノ・ルミカだった。
「トウコさん、だったよな?」
「あ、はい……」
二対の目に凝視されておもわずうなずく。
しかしすぐに、トウコは自分が大変なミスを犯したかもしれないことに気づいた。
十勝の要望どおり、依頼はたしかに解決した。しかし、万事円満だったとは口が裂けても言えない。
どうして今ふたりが一緒にいるのかは不明だが、あの結末を思えば、とくにルミカのほうには、恨みを持たれていてもおかしくなかった。
平時ならまだしも、こんなフラフラのときにルミカ・スペシャルを食らったら―― 。
いつぞやのハイキックが脳裏をよぎって、トウコはただでさえ悪い顔色をいっそう悪くした。
「あ、あの。私―― 」
「アンタ。これから時間ある?」
黙ってトウコを見下ろしていたルミカが、案の定そんなことを言いだした。逆光で表情は見えないが、やけに真剣な様子なのはわかった。
背中から冷たい汗が吹きだしてくる。
走って逃げる?
―― いや、あちらは二人のうえ、入り口を塞ぐように展開している。うまく抜け出せたとしても、今のトウコでは追いつかれるのがオチだ。
謝って見逃してもらう?
―― こういう至言がある。“ごめんですんだら警察はいらない”。
戦う?
―― DEAD OR DEAD。
あらゆる可能性を考慮したすえ、トウコは心の中でおだやかに合掌した。南無。
逃げることもできず勝てる算段もないなら、はじめから抵抗しないほうがいい。人質に取られたとき一番被害が小さくなる方法だ。
追いつめられたトウコはおとなしく捕虜になることを選んだ。
うう、トウコは苦悶の声を漏らした。
「も、もうこれ以上は―― 」
「この程度で参ってもらっちゃ困るわ。あたしはずっとこの日を待ってたんだから」
ルミカが心底楽しそうに笑う。
「で、でも」
「ほら、もう一発いくわよ」
さらなる地獄を予感したトウコは、防衛本能からおもわず目をつぶった。ドン、という鈍い音が、テーブルを伝って腹にひびく。
もうだめだ。これ以上は身体が保たない。
「これくらいで大げさね。まだまだいけるでしょ」
楽しげなそれは、まるで自分の正義を信じて疑わない声だ。
勇気を振りしぼって、おそるおそる目を開けたトウコだったが、眼前に広がる光景は控えめに言って絶望的だった。
凶悪な存在感でテーブルのうえに鎮座しているのは、通称『ノックアウト・マウンテン』―― 直径およそ二十センチの超特大のチョコレートサンデーだった。
しかも三つ。
名前そのままの破壊的なスイーツに、トウコはおもわず身震いした。
パステルカラーで統一された内装。明るい照明。ご機嫌なテンポのBGM。
最近駅前にできたばかりのカフェは、学校帰りの女子高生でごった返していた。
そんな店内の一角で、死んだ魚の目で巨パフェとにらめっこする女―― トウコ。
彼女は先ほどから、次々に追加されるパフェ食べ放題と決死の戦いを繰りひろげているのだった。
目の前にはニコニコ顔の十勝とルミカがいる。
「遠慮はいらないから、じゃんじゃん食べてね」
語尾にハートマークをたくさんつけて、彼女はトウコにウインクを飛ばした。
それが心の底からの笑顔だというのは見ればわかったが、半死人のトウコには新手の拷問に等しかった。
水責め、電気責め、パフェ責め。
しかし哀しいかな、トウコは典型的な日本人だった。
そんなに嬉しそうな顔をされたら断れるものも断れない。トウコは風邪でぞくぞくする身体に鞭打って、パフェをつついた。
「おいしい?」
「は、はい……あの、どうして私にこんなことを?」
ざわざわとうるさい周囲の声を縫うように、トウコは大きめの声で聞きかえした。
「どうしてもなにも。あたしたち、次にトウコっちにあったら絶対にこうしようって思ってたの。ね、テツくん」
トウコにやったのと同じかそれ以上の好意を込めて、ルミカは隣の元彼氏―― 十勝鉄平を見つめた。
「おう。トウコさんは俺らの恩人だからな」
「ねー!」
憎き女への物理的報復―― という邪推が大外れしたことに安堵する反面、トウコの脳には次から次へと多くの疑問が生まれていた。
わからない。本当にわからない。
いきなりパフェを奢られていることもそうだが、一番わからないのはこれだ。
どうして十勝とルミカが一緒にいる?
依頼をしてくれた十勝には悪いが、当時のルミカの状態からいって、そう簡単にヨリを戻せるような状態ではなかったはずだ。
物言いたげな彼女に気付き、ルミカが人指し指を立てる。
「もちろん、あの後はそれなりにショックだったし、トウコっちのことだってちょっとは恨んでた。でも、そのおかげで―― あたしは本当の愛を見つけたの」
ルミカが隣の男にちらりと視線をやる。以前のような濃い化粧はしていないのに、頬がほんのりと甘い色に色づいている。
一方のトウコは冷たい物の食べすぎで、顔色が白を通りこして紫に近くなっていた。しかし、ルミカのあまりの変わりように、事情を訊ねずにはいられなかった。
「いったい何があったんです……?」
話は一年ほど前にさかのぼる。
浮気男・セイヤの悪事が暴かれた際、安室の仕組んだ策略により、ルミカは手ひどい失恋を味わった。
何もかもが嫌になり、食事もろくに喉を通らなくなった彼女の前に現れたのは、別れたはずの十勝だった。
十勝は落ちこむ彼女を元気付け、一生懸命になぐさめた。
あんな男、忘れちまえよ。俺がついてるからさ。
そう言って、十勝はそっとルミカの肩を抱き―― 。
「―― そして、ふたりの心はふたたび通じあったというわけですね」
めでたしめでたし。
なんだ、よくあるパターンじゃないか。
と、思ったトウコを、十勝は「いや」と厳しい顔で否定した。
「ちがうんですか?」
「俺は忘れてたんだよ。ルミカと別れたときの最後の言葉を」
「最後の言葉……?」
すこし考えて、トウコは「ま、まさか」と頬を引きつらせた。
思い出すのは、浮気男・セイヤにルミカが止めを刺したときのセリフだ。
―― しつこい!触んなこの痴漢!
「イエス。にもかかわらず、うかつに肩を抱いてしまった俺は、今度こそ本当に空を飛んだ」
放物線を描いて空を飛ぶ十勝が思い浮かんで、トウコも今度こそ頬が攣りそうになった。
「なんでそれが現状につながるんですか……」
「最後まで聞いてくれよ、トウコさん。青い空を眺めている最中、俺はやっと気付いたんだ。ルミカは―― ルミカの蹴りは、世界を取れる蹴りだってな」
「たしかにルミカさんならプロを目指しても―― じゃなくて!」
うっとりとした表情の十勝に、一度はうなずいてしまったトウコだったが、遅ればせながらも我に返ってツッコミを入れた。
「ちょっと待ってちょっと待って」
「雷が落ちて、別の人間に生まれ変わったような気分だったよ。俺はその場で土下座してルミカに現役復帰するよう頼みこんだ」
「いやいやいやいや」
「何度も断られた。でも、毎日通ってお願いしたんだ。現役に復帰してくれって。そして一ヶ月経った日、ようやく……」
十勝は熱い瞳で隣のルミカを見た。
「俺の目に狂いはなかった。あんな蹴りができるのは、やっぱりルミカだけだ」
「は、はずかしいよ、テツくん!皆がいるところでそんなこと……!」
「何いってんだ。本当のことだろ」
「テツくん……」
十勝に手を握られて、頬を赤く染めるルミカ。
完全にふたりの世界に入ってしまったカップルを、トウコは半目で眺めた。
もうツッコむのも馬鹿らしくなってきた。
ルミカが、もじもじしながらつづける。
「あたしたちね、今日もこれからジムデートの予定なの。家用のベンチプレスが壊れちゃって」
「家用のベンチプレス……」
「早朝ロードワークだって毎日一緒にやってるの」
「早朝ロードワーク……」
パンチのある単語がつづくが、言っている本人はニッコニコだ。
「それにね、信じられる?テツくんたら、減量中のカロリー計算までしてくれるんだよ!?」
こんないい話、他の女に聞かれたらどうなることやら、というようにルミカは周囲を見回しながら、興奮気味にささやいた。
そんなルミカを見て、十勝も恥ずかしそうに笑う。
「俺も最近鍛えはじめたんだ。ルミカには到底かなわないけどさ、すこしでもつり合う男になりたくて」
白い歯できらりと笑う十勝。日に焼けた肌も相まって、前とはまるで別人だった。
「テ、テツくんはそんなことしなくても十分素敵だよ!」
「ルミカもな」
「な、なんてこと言うのよ!」
我慢の限界とばかりに、ルミカがジャージの袖で真っ赤になった顔を覆った。
長かった髪をさっぱりと切りそろえ、スポーティな格好をしたルミカは、おしゃれに凝っていたときよりも不思議とずっと可愛くみえた。
トウコはすこし笑ってしまった。
―― 人ってこんなに変わるのか。
「前はキツイこと言っちゃってごめんね。あんな顔だけ男に引っかかるなんて、あたし本当に何もわかってなかった」
「あの事件がきっかけで、俺もルミカも自分に自信が持てるようになったんだ。だから俺たちはあんたたちに感謝してる。ありがとな」
なんだか目頭が熱いような気分になってきたトウコは、ばれないように慌ててパフェを突っついた。
そう。きっと、風邪のせいだ。
熱っぽい。頭がガンガンする。
その後もなんだかんだで話がつづき、店を出たのは四時過ぎだった。とりあえず手持ちの鎮痛薬を飲んではみたが、効いても気休め程度だろう。
それなりに重い買い物袋を右手に提げて、バス待ちをはじめたトウコだったが、すぐに身体が音を上げた。
だいたいバスに乗ったとて、バス停からマンションまでもさらに歩いて五分かかる。しかも上り坂だ。
「タクシー……」
一番先に考えつくべきだったものを今さらながらに思いだして、トウコはあらためて自分のやられっぷりを思い知った。
ところが、タクシーを捕まえようとしたとき、誰かが後ろからトウコの背を叩いた。
「お嬢さん。ちょっと訊きたいことがあるんだけど」
マスクをした顔で振りむくと、案の定、困った顔の老爺が立っていた。
田舎から出てきたと思しき大きな旅行カバン。手に持っているのは、幼い子どもの字で差出人が記されたハガキ。
「この住所に行くには、どうしたらいいのかねえ?」
―― 交番で研修していたとき、よく道案内したなあ。
ふとそんなことを思いだす。
意識は半ば朦朧としていたが、トウコの返事はひとつだった。
「駅裏のバス停から乗り継がないといけませんね。すこしわかりにくいですから……一緒に行きましょう?」
リビングのドアを開けて、トウコはそのまま床に倒れこんだ。
買い物袋がすべり落ちた感覚があったが、今さらどうしようとも思わなかった。ここまでどうやって帰ってきたかも覚えていない。
火照った頬がフローリングにぺたりとはりつく。
気持ちいい。ずっとこうしていたい。
でも、こんなところで眠ったら―― 。
「風邪、ひいちゃう……」
目の前をころころと転がっていくペットボトル。
玄関のほうで物音がしたような気がしたが、そのときにはもう、トウコのまぶたは落ちていた。