寒い部屋だった。
頭が痛くて、咳が出る。
清潔な室内に見えるのは、真っ白な壁と天井。それから真っ白なシーツ。
処方された薬と、一日三回の栄養食。
暖房も効いているし、隙間風だって入らない。
だから、すぐに良くなる。
格子の嵌った小窓の向こうには廊下があって、ときおり誰かが通りすぎていく。
足音が近づいてきて、遠ざかっていく。
適切な薬と食事、休養。
必要なものは全部そろっている。
でも。とても、寒い。
File.9 ノックアウト・コールド(Ⅱ)
唐突に目が覚めた。
「う……」
いつもどおり起きあがろうとして、頭痛と吐き気のダブルパンチを食らった。あわてて元の体勢に戻ったが、今度はカラカラの喉から際限なく咳が出てくる。
枕元に置かれているペットボトルを手探りでつかみ、乱暴に中身を煽った。よほど喉が乾いていたらしく、ただのスポーツドリンクがオアシスの水のように美味く感じた。
人心地ついて、トウコはようやく自分の状態を思いだした。
そうだ、倒れたんだった。
だがあらためて見ると、トウコはきちんとベッドに入って、掛け布団までかぶっている。
首をかしげた。
記憶があるのは玄関までだ。無意識にベッドまで這っていったか、それとも。
「テレポート……?」
「熱で頭がやられたらしいな」
誰もいないはずの部屋から、これ以上ない呆れ声が返ってきた。いつからそこにあったのか、リビングの戸口に人影が見える。
腕組みをして壁にもたれかかっていたのは、降谷だった。
「どうしてここに?」
問いに答えることもなく、ずんずん近づいてきた彼は体温計を差しだした。トウコも黙って受け取った。
すこし経って、ピピピ、と測定完了を知らせる電子音。
脇の下を確認して、彼女はうなだれた。
38.4度。どうりで辛いはずだ。
ショックそうな顔をしているトウコから、降谷はひったくるように体温計を取りあげた。
「言いたいことはわかるな」
呆れを通りこして、半ば苛ついた声だった。
トウコはかすれ声で言った。
「……申し訳ありません」
言われるまでもないことだった。彼の姿を見たときから、トウコは自責と後悔の念に押しつぶされそうになっている。
ああ、なんてことをしちゃったんだろう。自己管理なんて最低限のことなのに。
人間だったら誰しも風邪ぐらいひく。こじらせたあげく倒れてしまうことだってあるかもしれない。
しかし、それが許されない人間もいる。
そして、今の彼女は明らかに後者に属する人間だった。
たとえば、危険な場所での潜伏任務中だったら?
絶対に漏れてはいけない機密資料を所持しているときだったら?
自分の無責任さに打ちのめされたトウコは、ますます布団にもぐりこんでしまい、そんな自分にいっそう嫌な気持ちになった。熱っぽさも相まって視界がうるむ。とめどない負のスパイラル。
私って、なんでこんなにバカなんだろう。
ただでさえちゃんとしないといけない立場なのに―― 色々な人に迷惑をかけながらここにいるのに、こんなことをしていたら、信用してもらうなんて夢のまた夢だ。
「安室さんから頼まれていた調べ物は、そこの鍵付きの引き出しの中に入っています……必要があれば、そこから……」
不幸中の幸い―― こうなった以上、そう表現していいものかわからないが―― トウコはここ最近、かなり詰めて仕事をしていた。急を要する案件はすべて片付いている。
大学潜入中のトウコに定時出勤は義務付けられていない。仕事がないなら顔を出さなくてもかまわない。いや、『仕事がないなら顔を出すな』とさえ言われている。
現状トウコが寝込んでいることで、具体的な業務上の損失は出ておらず、同時にそれだけが彼女の救いだった。
物言いたげな顔をしていた降谷だったが、ため息とともに首を振った。
「君には一度きつくお灸を据えてやる必要がありそうだが……素直な態度に免じて、また後日にしてやる。叱ったところで今はむしろ逆効果になりそうだしな」
意外な言葉とともに、スプリングの沈む感触がした。ベッドの端に腰かけたらしい彼は、布団のうえから呼びかけた。
「だから、ほら。出ておいで」
子どもを呼ぶような声だった。布団に隠れていたトウコは、おそるおそる真っ赤に火照った顔を出した。
「まったく、トマトみたいな顔をして。こんなになるまで放っておくか?」
「すみません……」
「それはもういいから。病院どうする?」
「時季的にも症状的にも普通の風邪だと思うので、ひとまず自宅療養で」
「わかった。悪化するようなら迷わず行きなよ」
熱を確かめるように手のひらが降りてくる。
前髪をかきわけるようにしたあと、降谷は自然な仕草でトウコの頬に手を添わせた。
「やっぱり熱いな」
口にした言葉とは反対に、ひやりと冷たい手のひらだった。甘美な感触におもわず擦りよりたい気持ちになったが、誘惑を断ち切って顔をそむけた。
「近くにいるとうつっちゃいます」
「うつらない」
君なんかと一緒にするな。
とか、そういう言葉が続くのを予想していた。
しかし、彼が揶揄の言葉を口にすることはついぞなかった。
「食欲はあるか?」
「さっき買った袋の中に、インスタントのおかゆが」
「お粥だな。他には?」
「……なにか、冷たくてさっぱりしたもの」
げほ、とパジャマの内肘で咳を押さえる。
『ごめんなさい』『自分でできますから』―― 言いたいことは山程あったが、今にも咳が飛びだしそうで、それだけ言うのが精一杯だった。
「わかった」とうなずいて、手のひらが離れていく。どこか惜しいような気持ちを感じながら、トウコはふたたび眠りについた。
「起きられそうか?」
男の声で意識が浮上した。
枕元に降谷が立っている。手に持った盆からは、やわらかい色の湯気が立ちのぼっていた。
どれくらい寝ていたんだろう。
「ほんの十五分くらいさ。ああ、大丈夫。辛いならそのままで」
のろのろと起きあがろうとするトウコを押しとどめて、降谷はさっきと同じようにベッドの縁に腰かけた。
そして彼は肩を抱くようにしてトウコの身体を支えた。
椀の乗った盆を膝に置き、もう片手でれんげを持つという器用な真似をやってのける。
「じ、自分で……食べられます……」
「いいから」
病人の抵抗はあっさりと抑えこまれた。
白い粥をすくいあげた彼は、湯気を吹き飛ばすようにふうふうと息を吹きかけた。様子を見ながら、慎重にトウコの口まで粥を運ぶ。
かちり。
陶製のれんげが歯に当たる。
たちまち粥の温みが舌の上に広がって、トウコは熱で腫れぼったくなったまぶたを見開いた。
おいしい。
「すこしでも栄養が摂れたほうがいいと思って。ミルク粥にしてみたんだけど、どうかな?」
「もっと……」
半分くらい目を閉じたまま、トウコは続きをねだった。
相手は上司だ、とか。ひどく格好の悪いことをしている、とか。そういったことはぜんぶ熱に溶けて流れてしまった。
粥を平らげると、今度は冷えたゼリーが出てきた。
さすがに既製品だろうと思っていると、「一応は手作りだよ」と心を読んだような言葉が返ってきた。
「まあ、ポアロの冷蔵庫からこっそり拝借してきたんだけどね。梓さんには内緒で頼むよ」
降谷は人差し指を口に当てて、イタズラっ子のような笑みを浮かべた。
銀色のスプーンで、つるりつるりと口に入れてもらう。
鼻は詰まっていたが、ほのかな柚子の風味がした。
デザートを食べおわると、降谷は起きあがらせたときと同じように、トウコの身体に手を回し、そっとベッドに横たわらせた。
「ありがとうございます。おいしかったです」
「それはよかった」
用事が終わっても、降谷はベッドから立ち上がろうとはしなかった。
当のトウコは、お腹が膨れたこともあって、ずいぶん楽な気持ちになっていた。
ゆるやかな眠気が、さざ波のように打ちよせる。夢の海で船をこぎながら、トウコはぼんやり目の前の男を見つめた。
不思議と寒さや熱さは感じない。身体を包むのは、雲を踏むようなあたたかさだけだ。
どうしてだろう。
しばらくして、彼女はふと気付いた。
ああ、そっか。はじめてなんだ。
性質の悪い風邪にかかって、めずらしく熱を出した。
常駐の医師の往診を受けた彼女は、必要十分な療養期間を与えられたうえで、自室での安静を命じられた。
清潔な個室。よく効く薬。消化のよい食事。
思えば、粗末に扱われたことは一度もなかった。
「贅沢な話だっていうのは、わかってるんです」
頭がぼんやりとしている。自分の声が遠い。
病人のうわ言とはこういうものを言うんだろう、とトウコは他人事のように考えた。
「必要なものは、ぜんぶ与えてもらっていました。食べ物も、薬も、寝床も」
何を話すつもりなのか、そもそも何を言っているのか、自分でもよくわからなかった。
それでも降谷はだまって耳を傾けていた。
この世には医者にかかることはおろか、今日の食べ物すら得られない子どもがいる。
食べられるだけで。寝ていられるだけで。
痛くないだけで。苦しくないだけで。
生きていられるだけで、すくなくとも、一番下ではない。
「わかってるんです。でも、でもね」
思い浮かぶのは、白い部屋。
遠ざかっていく人の足音。
誰かに聞かせるつもりなど、一生ないはずの話だった。
どうにもならないことを口にするのは好きではない。
これ以上、必要なものなんてない。
欲しいものなんてない。
何も要らない。
しかし、熱っぽく乾いた唇は、彼女の思いとは裏腹に、秘められていた『望み』を漏らした。
「降谷さん、―― 」
つづいた言葉は吐息にも等しいほどの小声だったが、彼は聞き逃さなかった。
驚きながらも―― そう言うであろうことをはじめから知っていたような顔をして、降谷はトウコを見つめていた。
彼女も一生懸命その顔を見ようとした。
しかし、残念ながら時間切れだった。
はっとするような青い瞳が、険しく尖った鼻筋が、すこしかさついた唇が―― そんな彼の顔をずっと見つめていたいという気持ちが。すりガラスを通したようにぼやけていく。
薬を飲んだせいか、ひときわ強い眠気が襲ってくる。
今にも落ちてきそうなまぶたと戦いながら、トウコは半ば無意識に布団の外に手を差しだした。
「降谷……さん……」
贅沢な話だった。必要なものはすべて与えられていた。
だから、何にも要らない。
私は、何にも寄りかからない。
でも。
だけど。
「僕は君を特別扱いしない」
唐突なひと言だった。トウコはのろのろと視線を上げた。
「慣れない新生活に体調を崩す。情に流されて合理的な判断を忘れる。あげくの果てに冷たい物を食べすぎて風邪をこじらせる?呆れを通りこして、笑える話じゃないか。すくなくとも今の君に『特別』という言葉は使いたくない」
突き刺すような辛辣さだったが、それは所詮、字面だけのことだった。
彼はベッドの縁から身を乗りだしたと思うと、すがるようなトウコの手を、己のそれですっぽりと包みこんだのだった。
まるでそうするのが当然だとでも言うように。
「誰だって環境が変われば風邪くらい引く。そして誰だって、病気のときは人恋しくなるものさ」
ぽん、ぽん、とあやすように布団の上から優しく肩を叩かれる。
繋いだ手から、あたたかな何かが流れこんでくる。
春の奔流のような、とめどない安らぎ。
「君は特別じゃない」
だからもう、寒い部屋で寝なくていいんだ。
そんなつぶやきが聞こえたときにはもう、彼女はゆっくりと夢路を辿りはじめていた。
誰にも言うつもりなんてなかった。
何も欲しくなんてなかった。
でも。
だけど。
もしも、願いが叶うなら。
あとすこしだけ、ここにいて。
後日、無事に完治したトウコは、時間を見つけてポアロを訪れた。
目的は、迷惑をかけたお詫びとお礼だ。
あれだけやってもらって、何もなしでは社会人としてあまりにも問題がある。かといって、金品を渡したところで受けとってもらえるとは思えない。
というわけで、いろいろ悩んだ結果、ポアロでお金を落とすのが一番だろうと考えたのだった。
テーブルにつくと、彼は素知らぬ顔で注文を聞きにきた。
とはいえさすがに見事なもので、ひと目見ただけでトウコの体調もここに来た意図もだいたい見抜いたようだった。
肩をすくめて、「まあいいだろう」というような顔をしてみせた彼は、そのままカウンターに戻っていった。
あえて人の少ない時間帯を選んだだけあって、料理はすぐに運ばれてきた。
季節のパスタ―― もちろん安室が数日前に考案したばかりの最新作―― に舌鼓を打つ。
売上に貢献しようだなんて余計なお世話だったかもしれない。これなら放っておいても人気メニューになるだろう。
ところで、トウコにはここ数日ずっと気になっていることがあった。
熱が下がって、すこしは身の回りに気が配れるようになったころ、はたと気付いた問題だ。
私、どうやってパジャマに着替えたんだろう。
気付いたときには、すでに寝間着だった。
なのに、着替えた覚えがまったくないのだ。
外出していたときに着ていた服はきちんと畳まれて部屋の隅に置かれていた。
無意識に脱ぎ散らかした服を、見かねた降谷が畳んでくれた……という可能性。
もしくは他の女性を呼んで着替えさせてくれた可能性。
なくはない。
なくはないが、たぶん、ちがう。
なぜなら、慌てて確認したパジャマの下は、外出したときの格好そのままだったからだ。
キャミソールとスカート用のショートパンツ。
自分で着替えた、もしくは女性が着替えさせてくれたなら、すくなくとも汗だくのキャミソールを着たきりにはしないはずだ。
下はいつもの癖で黒いショートパンツを履いていたからまだ良かった。
しかし、上については―― 。
ここ数日、くりかえし彼女を襲いつづけてきた絶望が、あらためて牙を向いた。
たぶん、透けてた。
丸見えとは言わないまでも、ブラジャーの色とか何やらがだいたい把握できるくらいには。なにせ夏物の白いキャミソールだ。
パスタの最後の一本をつるつると口に入れたあと、トウコは深い息を吐いた。
申し訳なさと情けなさ、羞恥と諦観が複雑にミックスされたなんともいえないため息だった。
いいといえば別にいい。
見られたところで今さら減るものなんて何もない。トウコはもともと技術畑の人間だ。せいぜい彼の心のプロフィール帳に『ハニートラップの素養:なし』と書きこまれたくらいで、胸の大きさやプロポーションが査定に響いたりはしないはず。
それにあれは、そう、いうなれば救助活動だ。
レスキュー隊員や医者は人の裸なんていちいち気にしない。彼もきっと気にしていない。
むしろ今は、彼をそんなものを見させる羽目になった自分の手落ちを猛省する場面だろう。
うん、そうだ。そうにきまってる。
いくぶんか気持ちが軽くなったトウコは、カップに残ったアールグレイを飲みほして、席を立った。
奥まったテーブルを選んで良かった。青くなったり赤くなったりするトウコは、周りからみればさぞかし滑稽だっただろう。
安室製のケーキをホールで買い、会計を済ませたときだった。
「トウコさん、ちょっと」
彼はちらりと周囲を見てから、トウコの襟元を指すようなジェスチャーをした。
ホコリでもついているんだろうか、と思って身繕いするも、彼はニコニコと首を横に振るばかりである。
しびれを切らしたトウコは「どこですか?」と襟ごと顔を近づけた。
近づけてしまった。
トウコは忘れていた。
彼がトウコに向かって意味もなくにっこりする―― そんなことは世界が引っくりかえってもありえないと。
「君、地味な見た目のわりに、けっこうあるんだね。意外だったよ」
あまりにも爽やかな顔でささやかれたものだから、一瞬なんのことかわからなかった。
けっこうある?何が?
ぽかんとしてしばらく考えたあと―― 顔から火が出た。
「な、な、な―― 」
「こちら、次のサービスデーのクーポンになります。また来てくださいね」
口の前にクーポンを押しつけられて、二の句を封じられる。
彼は、信号機のように顔色を変えるトウコを人から見えないようにうまく店先まで押していったあと、がらりと声音を変えた。
「これに懲りたら今後は自己管理を徹底しろ。二度目はないぞ」
「ふええん……!」
トウコはほとんど半泣きで逃げ帰った。
『お仕置きはまた後日』―― 有言実行の男である。