「この話はまだ誰にも言うなよ」
手ぬぐいで涙と鼻水を拭いてやりながら、薬研は今剣に言い含めた。
「真偽のほどを確かめてからでねえと、いらん混乱を招いちまう」
顔の復旧作業を七割方終えた薬研は、今度はぐちゃくちゃになった髪にとりかかった。
今剣の手前、表現を抑えたが、実際のところこんな話が他の刀剣たちの耳に入りでもしたら「いらん混乱」程度で済むはずがない。下手を打てば本丸には主従心中の嵐が吹き荒れることになる。曽根崎に代わる新たな名所ができあがってしまうかもしれない。
話の中身は安珍清姫だが、と地獄絵図の筆頭になりそうな幾振りかの刀を思い浮かべ、苦労の多い兄貴分はため息をついた。
そのニ
太陽が中天を過ぎてから、かなり時間のたった午後。
薬研が障子を開くと鶴丸国永は珍しく自室で書物を読んでいた。この男は、出陣しない日はたいてい新たな驚きを得るため、もしくは与えるために本丸内を歩き廻っている。薬研はこのはた迷惑な徘徊者が存外こういった懸念事の相談相手として信のおけることを知っていた。
「おいおい、ほんとうか。そいつぁ、ここ最近でもとびっきりの話だな。要するに主に間男がいるということだろう」
「下世話な言い方をするとそうなる」
「だが薬研、お前の言う通り、俺にもあの主がそんなことをするとはとても想像できない」
鶴丸は自分の主の良く言えばのほほんとした、悪く言えば間の抜けた顔―― もちろん、彼の一番のお気に入りは彼女の驚いた顔なのだが―― を思い浮かべながら言った。
「ああ、何か勘違いがあったことは間違いなさそうだ。と言っても肝心の今剣があれじゃあなあ」
泣き疲れた今剣は、今は短刀たちの自室で眠っている。
「大将に確認するのが一番だが、もうすぐ日が暮れる。大将はここのところ、毎晩遅くまで情報の整理に根を詰めてるみたいだし、明日も遠征組の見送りでかなり早くに起きなきゃならねえ。あまり負担はかけたくねえよ。光忠も今日は夕餉を自室までお持ちして、早く眠って頂くと言っていたしな」
「明日になってからだな。ことが片付くまで、主が今剣と顔を合わせないのは好都合。主のことだ、今剣の様子がおかしいことぐらいすぐに気が付く……自分の言葉で今剣が泣いたことを知れば彼女は心を痛めるだろうなあ。今剣の勘違いという可能性が高いなら、遠回しに探った方がいい」
夕餉ができたことをを告げる声を聞いて、薬研は鶴丸の部屋を立ち去った。
◇◇◇
光忠が作った美味しいご飯をぺろりと平らげて、早々にお風呂も済ませた私は部屋の布団に入ってぼんやりしていた。
あの眼帯はとことん自分に甘い。
ここのところ敵が沈静化していて、刀剣たちを出陣させる回数は少なくなっていた。この隙に敵の情報をまとめておこうといつになくガリガリと文机に向かっていたのは確かだが、こんな早くから布団に押し込められるとは。刀剣たちが戦っている間、安全な本丸でぬくぬくしている私は睡眠不足ぐらいでちょうど良いのだ。それなのに「僕達にとっては君が元気でいてくれるだけで十分なんだよ」などというスイートな言葉で丸め込まれてしまったのである。
この駄目審神者製造機が!と叫びたい気持ちにかられたものの、お言葉に甘えて布団に入っちゃっている私はすでに紛うことなき駄目審神者であるので、もう弁解のしようもない。
天井を見上げながら今日の訪問者のことを考えた。
ここに来てから外部とのやりとりは全て伝令役を通じて行ってきたため、久しぶりに会う知人との会話は楽しかった。もう長らくこの本丸から出ていないのだ。
「それにしてもあの人、やたら色男だの、美男子だのと言ってたなあ」
ちょっとそっちの気があるのかもしれない、と今になって案内してくれた加州らに申し訳なく思った。いい人はいい人に間違いないんだけど。
「そういえば、話の最中に縁の方から人の声が聞こえた気がしたけど、あれは一体なんだったんだろ」
男の声ではなかった。あの時間帯、私の部屋の周りには誰もいなかったはず。
庭の桜の木の下に白い着物を着た女が立って、こっちを見ている。
そんな想像をして背筋が寒くなった。昼間だからと言って出ないとは限らないのだ。幽霊。我が屋のゴーストバスター、にっかり青江はあいにく遠征中だ。
この本丸は元より刀の幽霊みたいなやつでいっぱいだけど、というツッコミは入れないことにする。
どうでもいいことを考えているうちに、うつらうつらと夢の世界が近付いてきて、私はそのまますとんと眠りに落ちた。
◇◇◇
朝、割り当てられた内番を手早く終わらせた後、薬研と鶴丸は連れ立って主の部屋へ向かった。
「急にどうしたの、ふたりとも」
座布団を引っ張り出してくれながら、彼女は怪訝な顔をした。
「いや、特にこれといった用がある訳ではないんだ。たまには君とゆっくり話をするのも乙なものかと思ってな。なあ薬研」
「ああ、ついでに宵っ張りな主が風邪をひいてないか確認しにきた」
「なんだ、鶴丸がいるから今度はどんな碌でもないどっきりに付き合わされるのかと……まあ薬研もいるしさすがにないか」
寄っていた眉根をくつろげて、いつもののんびり顔が薬研の方を向いた。
鶴丸の中では案の定『この瞬間、主が安心したこの瞬間に、驚かせてやったらどれほど愉快だろうか』といつもの悪癖がむくむく頭をもたげていた。しかし薬研に睨まれ、さすがに自粛を心に決めた。
「そういえば大将よ、この本丸に来る前は官吏だったんだってな。五虎退らに聞いたぜ。どんな仕事してたんだ?」
「今だって時の政府の管理を受けてるから、同じようなものだけどね。仕事もね、今とあんまり変わらないよ。遡行軍の監視をしたりとか、必要があれば部隊を派遣したりとか」
言いながら畳に落ちていた自分の髪の毛を拾ってくず箱に放り込んだ。ゆるい見た目とは裏腹にこういうところは意外とマメだ、と鶴丸はどうでもいい発見をした。
合いの手を入れて様子を伺う。
「へえ、でも今と違ってその頃は刀剣による白刃隊はなかったんだろう?危ないところに君が直接赴くこともあったのか?」
「そうだねえ。大したことはしなかったけど」
いいところまで来ている。それ、あともうひと押しだ。
「おいおい、それって危なくねえか。供か何かは―― 」
「主様、畑の内番終わりました!とっても大きな大根ができてるんです。見てくださあい!」「お化け大根!」「お化け大根!」
薬研が本題に踏み込もうとしたその時、畑の内番をしていた短刀年少組が、泥だらけの手を振りながらどたどたと庭へやってきた。
「おつかれさま。お化け大根!?どれどれ、そのお化けとやら、どれほどのものか見せてもらおうか」
彼女は勢いよく立ち上がった。
「薬研と鶴丸も暇そうだね。一緒に大根見に行こう」
先に出て行った後ろ姿に、二人は顔を見合わせてため息をついた。
◇◇◇
「しかし、うまく邪魔が入ったものだな」
「まったくだぜ、あともうちょっとだったのに。あいつらよぉ」
薬研と鶴丸は本丸のとある小部屋で再び作戦会議を行っていた。今度は今剣もいる。探りをいれることに失敗した二人は原点に戻って、今剣にもう一度話を聞いてみることにしたのだった。
「昨日の今日で無理させて悪いが、主の部屋で聞いた話をもう一度してくれねえか、今剣。何か手がかりが掴めるかもしれねえ」
まだ目が腫れている今剣は小さく頷いて、昨日のことをぽつりぽつりと話し始めた。
話を聞き終えて、鶴丸はふうむと腕を組んだ。
「俺が薬研から聞いていた話とそう違うところはないな。それにしても主が元々剣士だったというのは改めて聞いてもなかなかに驚きだ。あんなに柔い手をしているのに」
事あるごとに頭を撫でてくる手の感触を思い出し、薬研も頷いた。
「もっとも、その近侍と同じ床で寝ていたというのも相当だがな」
今剣がまた兎の目になった。昨日の上着の惨状を思い出して、薬研は慌てて手ぬぐいをあてがう。
「こんな話、三日月の奴が聞きつけでもしたら―― 」
「俺が聞いたらどうだと言うのだ、鶴丸よ」
鷹揚な調子で投げかけられた声に、三人はぴたりと停止した。
数秒の後、ゆっくりと顔を上げた彼らが戸口に捉えたのは、穏やかに笑う三日月宗近だった。
「隠れてずいぶんと楽しそうな話をしているようだな。どれ、このじじいも混ぜてはくれぬか」
のんびりとした口調だが、声は地を這うようだった。薬研と鶴丸は自分たちが過ち―― それも最もやってはいけない類の―― を犯してしまったことにようやく気付いた。