蓼食う虫どもの話

そのサン


 完成した書類を抱えて廊下を歩いていく。昨晩の光忠の過保護のおかげなのか、今日は朝から非常に爽快な気分だった。どこぞの博物館ばりに長い本丸の通路でさえも今なら雑巾がけで走破できる気がする。
「……いや、さすがにダメか」
 この齢になってパンツを見せながら上機嫌で廊下を這いまわるのはどう考えても犯罪であろう。「わいせつ審神者雑巾号」は発進した途端に即刻とっ捕まって、そのまま石切丸のお説教コース、いや場合によっては正気を疑われてお祓いフルコースの目もあるかもしれない。丸一日は足の感覚が戻らないに違いない。
 仕方ないので少し激しめのスキップで手を打っておくことにした。ところが目的の部屋に突入した途端、行手に蒼い壁が立ちふさがった。
「ぐほお!」
 成人女性とは思えない声を上げて追突、大の字にすっ転んだ。見上げた先にいたのは三日月宗近である。逆光で顔は見えないが、この狩衣を見間違えはしない。
「ごめん!大丈夫だった!?」
 何の反応もない、しかばねのようだ。
 当たりどころが悪かったのだろうか。失念しがちだが、彼はこう見えてかなりお歳を召しているのだ。
 高齢者虐待!?
 骨粗しょう症、全身を粉砕骨折!?
 頭の中に浮かんでしまったセンセーショナルな見出しに青くなりながら、彼の白い手を取った。
「ほんとにごめん!痛かった?」
「……相も変わらず、主は元気が良いことだ」
 三日月は少し間をおいてそう言い、逆に身を屈めて私を助け起こしてくれた。
「良かった。骨は無事みたいで」
「骨?」
「ああ、うん。こっちの話……それにしても、書類がえらいことに」
 服の埃を払った後、散らばった書類を拾い集めようと腕を伸ばす。しかしそれは目標に辿り着けずに大きな手に掴み取られた。
「あの、書類を集めたいんだけど」
 私の腕を掴むそれは筋張って男らしく、それでいて整った五指を伴っている。彼らの本当の姿を象すように、刀剣男士は例外なく身体の造りが美しい。
 腕を掴んだまま沈黙した彼にまた違和感を感じた。表情は陰って伺えない。
 やはりどこか調子の悪いところでもあるのだろうか。
 不安になって、捕まっていない方の手を、形の良い額に当てる。
「やっぱり、ちょっと変だよ。熱でもあるんじゃ――
「ずいぶんと軽々しく男に触れなさる。主は刀をたらしこむのがお上手のようだ。かの近侍殿にもそのような手管をお使いかな。それとも」
 掴まれた腕をぐっと引き寄せられ、耳に吐息がかかる。
「このじじいは男の範疇うちに入らぬと?」
 近くなった瞳の奥に、ようやく弦月の光が見えた。ぞくりと寒気がしたが、いつのまにか腰に回された手が身を引くことを許さない。慌てて目の前の胸を押し返そうとするも、これもまたびくともしない。それどころか自由だった手まで絡め取られてしまい、両手合わせて頭上で縫いとめられた。腕に込められた力が強くなる。
「なあ、主。俺は美しいだろう」
 背中に壁を感じて、部屋の隅に押しやられていたことに気が付いた。手がいつのまにか胸元近くにまで来ている。
 そのまま顎に指をかけられて、上を向かされた。薄い唇から赤い舌がわずかに覗く。戦慄した。
 マズい。
 何があったのかは知らないが、これは絶対にマズい。このままいくと大切な何かが失われる気がする。
 エマージェンシー、エマージェンシー!要緊急脱出!
 といっても刀剣男士とただの人間の女、力の差は明白である。生半可な抵抗は逆効果に違いない。
 ……やりたくはないが仕方がない。おじいちゃん、すまん許せ。
 心の中で手早く謝った後、小さく息を吐いて全身の力を抜いた。急にぐたりとした身体に驚いたのか、拘束がわずかに弱まる。その隙にぐっと下を向き、かけられた指を逆に顎で抑えこんで―― 「おらああ!」
 全力で跳ね上げた後頭部で、私は目の前の美しい顔をかち上げたのだった。
 ようするに頭突きである。

◇◇◇

 荒い息を吐いて庭にへたりこんだ。がむしゃらに走ってきたので、現在地は分からない。
 後頭部がズキズキする。やった方がこれだけ痛いんだから、あっちは当分再起不能だろう。
「まさか天下五剣に頭突きをかます日が来るとは……刀身とか曲がってたらどうしよう」
 相手は文字通り国宝級、傷物になんてしてしまった暁に日本史に名を刻むかもしれない。もちろん悪い意味で。
 正当防衛とは言え、かなり心配である。
「それにしても……なんだったんだ、あれ」
 どう考えても尋常ではかった。まるで何かに取り憑かれていたみたいに。
「妖怪……とか?」
 まさか妖怪?妖怪のせいなのか!?我が家のモンスターハンター、獅子王も遠征中だ。
「いやいや、そもそも本人が付喪神だから。妖怪みたいなもんだから……さて、私は一体どこまで走ってきたんだろ」
 勝手知ったる場所かと思えば、実はこの広大な本丸には私が入ったことのない場所がまだまだたくさんある。本丸系ダンジョンから脱出するため、頼りない足取りで歩き始めた。

 歩くこと数分、とある通路を通り抜けた先に見知った銀色を見つけた。思わず叫んで、勢い良く駆け出す。
「小狐丸!」
 風に揺られて白い毛並みがゆらゆらと揺れている。彼は柱によりかかって遠くを見ていた。声をききつけて、金の瞳がこちらを向いた。
「良かった、まさかこんなにナイスな登場をしてくれるとはね。グッジョブ!グッタイミン!ああ、良かった」
 自軍の本拠地にて遭難、餓死。危うく駄目審神者のハイエンドモデルとして歴史に名を残してしまうところだった。
 緊張し通しだったこともあって、急に力が抜けた。
「忙しくなかったら、なんだけど。中心部まで案内してもらうことって……できないかな?」
 小狐丸は目を細めてほほえんだままである。
「駄目な審神者でほんっとにごめん!案内がダメならせめて方向だけでも……」
 何も言わずに、こちらを見つめるばかり。それどころか、どこか困った風にも見える。
「ま、まさか。小狐丸も?」
 迷子?迷子なのか!?
 どどどどど、どうする!?
 大人が二人揃って本丸で遭難とは、冗談にしても笑えない。
 ところが改めて小狐丸を見ると、なにが面白いのか、くつくつと笑っていた。私の視線に気づくと、彼は再びにっこりと笑みを浮かべて、
「そのようなこと、この小狐丸などにではなく、ぬしさまの近侍殿にお頼みすればよろしいでしょう?」
 と言った。
 周りを見回しても、今日の近侍である鯰尾藤四郎どころか人っ子ひとり見あたらない。
「近侍殿って……私たちの他は誰もいないけど」
「そうですな」
 なんだか良くわからないことを言う小狐丸。付き合いが長くなっても、彼にはいまだ掴めないところが多い。
「うーん、ごめん。その冗談は私にはわかんないや……とにかく二人とも迷子なら仕方ない。一緒に帰り道をさがそう」
 目の前にあった袖を掴み、先に立って歩き出そうとした。が、彼は動かなかった。
「どうしたの?」
「如何したか、とは。おやおや、そんなことを仰るのですね、ぬしさま。近侍殿にも三日月にも気安く肌をお許しになったというのに。私には袖の端とは悲しゅうございます」
 と、言うわりには全く悲しみの感じられない声で応えがあった。
 嫌な予感がして、自分よりもかなり上にある顔を見上げる。笑顔である。しかし瞳孔は真っ二つに裂けて、怪しげな金色に底光りしていた。
 この目には見覚えがある。小さなころ近所の猫がどこからか捉えてきたネズミをいたぶっている時に見た、獲物を狙う獣の目だ。
「今『三日月』って言ったね。さっきのことを知ってるの?」
「さあて、どうでしょうか」
 肩口に銀色に光る髪がこぼれ落ちた。小狐丸が身を屈めたせいだ。耳元に息がかかる。
「そんなに不思議そうな顔をなさって。私は耳鼻がききますゆえ、たいていのことは存じておるのです」
 小狐丸が楽しそうに笑う。
「ご心配なさらず。ここには誰も来ませぬ」
 視界に入る横顔に、鋭い犬歯が見え隠れしている。背中から回された手で左手首を捉えられ、後ろから抱き込まれた。背中から体温とゆっくりとした鼓動が伝わってくる。
「さあ、ぬしさま、小狐丸と遊んでくだされ」
 首筋に顔を擦りつけて、喉をならす。かりりと喉元を噛まれてようやく、自分がおかれた状況を悟った。
 お前もかブルータァース!
 揃いも揃って変なものでも拾って食べたのだろうか。それともやっぱり何かに取り憑かれているのだろうか。妖怪? 妖怪のせいなのね?
 軽いパニックに陥りながらも、私は一生懸命頭を働かせた。
 ハードな遊びに付き合わされる前に逃げ出さなくては。
 この体勢じゃさっきみたいな頭突きは使えないし、腕の自由も効かない。
 しかし、ならば。
 私はそっと左足をあげた。大丈夫、まだ気づかれてない。もう少し。そして深呼吸をして―― 小狐丸の足袋むき出しのつま先目掛けて、思い切り足を踏み降ろした。
「チェストォ!」
 要するに渾身のかかと落としである。


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