目釘を抜き、主が刃を鞘から引き出した。ついで柄を外すために、柄頭を握った左手をとんとん、と右拳でたたく。短刀の場合はこの加減を誤ると、刀身が勢い良く柄から飛び出してしまう。薬研自身も、未熟な手入れ師に扱われた際に、幾度か経験していた。
 一方この主は手慣れたもので、危なげもない。はばきをはずし、拭い紙を手に取る。丁寧な手付きで、刀身をはばきもとから上へすっと拭いあげられた。ぞわり。まとわりついていた不快な汚れが拭き取られ、なんとも言えず心地よい。思わず目を細めて、余韻に浸る。



パンツの定義

彼女の場合(前)


 薬研は先刻の戦いで傷を負い、刀剣本体の手入れを受けていた。なんのことはない、ほんの少し刃が欠けただけだ。戦場育ちのこの短刀にとってはかすり傷も同じである。
 彼の主はそう思わなかったようだが。
 拭い紙が再び、主の手にある小さな自分の本体を走る。彼は横になったまま、ほう、と息を吐いた。
 刀剣男士と刀剣本体の関係は意外に複雑である。
 審神者によって呼び出された刀剣男士は、本体に宿る魂が形をとった付喪神とされている。付喪神、というと実体がないもののように思われがちだが、彼らの肉体は見ることもできれば、触れることもできる。体温を持ち、食事を取り、時には血を流すことすらも。この身体はどこまでも一個の血の通った存在であった。
 ただ、あくまでも魂の源は本体の刀であるため、戦いで刀剣に傷を負えばそれは肉体に反映される。
 逆も同様で、身体に何らかの障害が起きると、本体にも如実に変化が現れた。例えば、疲労が貯まると驚くほどに刀がもろくなったりする。本来、刀剣にとっての「疲労」とは鉄の体の寿命のことであり、決して回復しない死への道である。しかし、審神者によって与えられたこの肉体は疲れたり、元気になったりと忙しい。薬研もしばらくはこの慣れない現象をずいぶんと面倒に思ったものだが、今となっては、「疲れる」のも「休む」のも存外悪くないものだと知っている。鉄の体では決して味わえなかった感覚だ。
 刀剣本体と刀剣男士は別の物体として存在しながら、ひとつの感覚を共有する、いわば分身体の関係にある。要するに体が二つあると考えればわかりやすいのではないか。
 下拭いを終えた主は、今度は打ち粉を取り出して刀身をぽんぽんとはたいていた。打ち粉は洗濯に使う灰汁―― 主は「あたっく」とか「とっぷ」とか呼んでいる―― みたいなもので、汚れを良く落としてくれる。
 その打ち粉がくまなくついた体を、今度は初めよりもずっと優しく拭われる。
 打ち粉も悪くないが、やはりこれが一番だ。
 新しい拭い紙が肌をそうっと撫でていく。数百の齢を経た彼は、どんな時でも自分を律して生きているが、この時ばかりは毎度くったりと身体の力が抜けてしまう。手入れが進むにつれて、主の力が注ぎ込まれ、刃こぼれはみるみる消えていった。
「薬研、傷見せて」
 先ほどから一言も口を開かず、手入れに集中していた主が言う。
 肉体の傷の確認のため上半身裸で横になっていた薬研は、掛布をとって身体を主に見せた。もうどこにも傷は見当たらない。顔や手など隅々まで傷がないことを目視した主は、今度は確かめるように手を当てる。慎重に、丁寧に。温かな手のひらが触れる度、小さいながらも引き締まった身体がわずかに震えた。
 仕上がりに納得したらしい彼女は、最後に再び薬研本体を取り上げると油紙で油膜を塗り伸ばした。
「よっし、できたー!今回も完璧じゃい!」
 さきほどまでの真剣な面持ちはどこへやら、大きな声で完成を宣言した彼女はそのまま大きく伸びをした。 「どう?調子は?」
 腹筋を使って起き上がると、身体が嘘のように軽くなっている。試しに腕を持ち上げてみた。
「ああ、こりゃいい。毎度のことながら、新品みてえだ」
「そうであろう、そうであろう。さっすが私!自分の才能に惚れなおしてしまうわ」
 扇か何かで口元を仰ぐ手真似をしながら、主はあーっはっはっはと大口を開けて高笑いした。
「でもよ、真面目な話、大将の手入れの腕は相当だと思うぜ。野育ちの俺はともかくとして、あの宗三左文字や獅子王も口を揃えて言ってんだからな」
 いいとこ暮らしの長い刀剣は、手入れにかなり口うるさい。国宝や重要文化財やなんやらで手厚く保護されていたのだからさぞや手入れ師も腕の良い人間が付けられていたのだろう。
 しかしこの本丸で、主の手腕に文句をつけた者を薬研はいまだ見たことがなかった。
 獅子王曰く、
「痒いところに手が届くというか、ツボを心得ているというか。俺たちが手入れして欲しいと思っている場所を、まるで心を読んだかのように押さえてくるんだ。あの主は。そういう好みは刀によって全く違うのにな。熟練の手入れ師でもそこまでやれる奴は少ないぞ。不思議で仕方ない」
 とのこと。
 薬研もその言葉に大いに同意している。確かに鉄の体のみであった時に比べれば、肉体の状態や表情が見られる今の状態はずっと分かりやすいのかもしれない。しかし手入れをするのは結局刀剣本体の方なのだから、やはりそう簡単なことではないだろう。
 そういえば、こしらえについてもそうだ。
 拵えというのは刀身ではない部位、例えば柄、鞘、鍔 などの総称を指す。言ってみれば刀にとっての衣服のようなものだ。
 拵えは一張羅の戦装束であるため、休む時や内番の時は拵えを脱いで、「休め鞘」である白鞘をまとう者も多い。主はこれを「刀剣用じゃーじ」と言い表したりする。拵えは刀剣たちにとって見栄えを決定する物でもあるので、こだわる奴はやたらとこだわる。
 この拵えや白鞘の管理も主の仕事である。損傷や劣化で使えなくなれば新しいものに変えなければならないし、何かの拍子に調子が悪くなることも良くある。手の生えた身体がある今、ちょっとしたことなら自分で調整できるのだが、大幅な修理や新装となればやはり他人―― ここでは主―― の手を借りる方がいい。
 戦いでほんの少し鞘の塗りが剥げただけで、主のところへ飛んでいく刀も多い。それが主のところに行く口実でしかないこともまた周知の事柄なのだが。
 主と拵えに関して、薬研は以前、主と骨喰・鯰尾兄弟が話していた内容を思い出していた。
 少し前のこと。
「主、骨喰の下げ緒が切れちゃったんです。新しいのを付けてやってください!」
「鯰尾、これぐらいなら俺が自分で――
「そんなこと言って、この前も自分でいじって目釘を落としちゃっただろ!骨喰はこう見えてうっかりしているところもあるんだから、主にお願いした方がいいよ。ね、主」
 部屋で薬研と書類の整理をしていた主のもとに、あれこれ言い合いながら鯰尾と骨喰がやって来た。骨喰は鯰尾に引きずられている。
「あれ、探すの大変だったもんね……こっちおいで骨喰。時間があるから、ついでに他のところも調整しちゃおう。鯰尾も一緒に」
 主が空いた座布団とぽんぽんと叩いて、二人を呼ぶ。
 刀を受け取り、しゅるしゅると慣れた手つきで新しい下げ緒を結んでいく。他にも不具合がないか確認した後、主は骨喰に刀を返した。
 次に鯰尾の刀を受け取った主は、すこし鞘から引き出したところで、じっと刃の根本を見つめた。怪訝そうな顔をして鯰尾に言う。
「この鍔、ちょっと合ってないんじゃないの?むずむずしない?」
 鯰尾は大層驚いた顔で返事をした。
「えっ、良く分かりましたね!そうなんです!この前の戦いでほんの少しだけ歪んでしまったみたいで。それから気持ち悪かったんです。そう、ちょっとだけむずむずして。けど自分で見てもどこがずれたのか分からないぐらいだったんで、放っていたんです。すごい!まさか言い当てられるなんて」
「あはは、刀の手入れは数少ない特技です。なんちゃって。でも、歪んだといってもこの程度なら、ちょっとこうすれば――
 と、ぐっとはばきに力を入れた。あとは指で微調整をする。
「どうかな?」
 鯰尾が手で腹のあたりをもぞもぞ触る。
「うわ、治ってる!すごい!主、ありがとうございます!」
「まあ、でも歪みがなくなったわけじゃないから、今度念のため交換しようか。鯰尾に合った新しいのが用意できるまで、一旦それで様子を見てくれないかな?」
 続けて他の部位に異常がないことを確認すると、主は鯰尾に刀を返した。
「すごいな。そんなことまで分かるのか」
 骨喰も珍しく驚いており、薬研自身も大層感心したものだった。

 意識を現在に戻す。手入れが終わって刀を組み直している主になんとなく問うた。
「人間なのに、良くそんな刀独特の機微が分かるもんだな。ここがむずむずするとか、ここが気持ちいいだとか。どっか凄腕の手入れ師に弟子入りでもしてたのか?」
「まさかまさか。我流だよ。我流。そんなに褒められたら照れるなあ。まあ、でも一応、手入れの腕には自信あるけどね。全国手入れ王者決定戦、若年審神者の部があったら準決勝ぐらいには余裕で残れる気がする」
 わかりやすいんだか、わかりにくいんだか喩えだったが、腰の低い彼女にしては珍しく強気な発言である。
 根拠の自信が気にはなったが、まあどうでもいいか、と立ち上がった。
「ありがとな、大将。じゃあ俺は戻らせてもらうぜ」
「はーい。もし不具合があったらいつでも言ってね」


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