どうしよう。
 ちりちりと脇腹が痛む。
 身体を丸めて耐えようとしたが、痛みは少しも軽減されなかった。顔を歪めたまま、さらに布団の奥へともぐりこむ。本当のところ深刻なのは痛みではなかった。私を苛んでいる最大の苦しみは現在直面しているこの状況そのものである。



刃物類の取扱いついて

おもて面(一)


 風邪気味だということで、私は夕方からこの本丸の自室にこもっていた。もちろんご覧のとおり、風邪というのは仮病である。正しく言えば「仮」でも「病」でもない。
 身体を動かすと血のにじむ嫌な感覚がした。
 どうしよう。早くなんとかしないと。でも外に出て誰かと鉢合わせしたら。
 夜とは言え、寝る時間にはまだ少し早い。遭遇の危険性は十分ある。
 この惨状を見た同居人たちがどんな反応をするかと考えただけで気が遠くなる。
 布団から起き上がって、痛む脇腹にそっと手をやった。挟み込んでいた布をはずして、汗ではないものでぐっしょりと濡れたそれを目の前に掲げる。さっきより明らかに赤い範囲が広がっていた。
 この勢いだとまたすぐに取り替えないといけないだろう。
「もしかして、これ結構マズい……?」
 圧迫から解放された脇腹の傷口が血が滴らせ始めたので慌てて布を戻す。しかし時すでに遅く、こぼれた血はぽつぽつと衣服に花を咲かせていた。
 しまった。これが最後の着替えだったのに。
 うかつな自分に腹が立った。
 後悔先に立たず。もう少し注意していれば。
 ―― そもそもあの時だって私が余計なことをしなければ。

 ため息をついて、数時間前の出来事を思い出した。

◇◇◇

 「よし、これで完成だ」
 たった今できあがったばかりの夕食を前に、薬研藤四郎は満足そうな表情で言った。
 お椀に盛られた白米は一粒一粒つややかだし、ふっくらと焼き上げられたブリはタレの照りもまぶしい。彩りゆたかな小松菜のおひたし。湯気の立つなめこのお味噌汁。厨には見た目にも食欲をそそる品がずらりと並んでいる。
 私も手伝ったは手伝ったが、彼がいなければまあこんな仕上がりにはならなかっただろう。
 さすが薬研の兄貴。燭台切光忠の料理上手は皆の知るところだが、彼の手際もなかなかのものである。薬研は細かな作業が得意なのだ。
 立ち込めるかぐわしい匂いに耐え切れず、腹の虫が鳴いた。
 「お腹が空いたか、大将?さっそく夕餉にしようぜ。膳運びの人手を集めてくる」
 食いしん坊な主を待たせるのはしのびないと思ったのか、苦笑した彼はこちらが何かを言う前にさっさと厨を出ていってしまった。
 台所にひとり残った私は大変申し訳ない気持ちになった。
 人を呼びに行くくらい私がやろうと思ったのに。
 ぼうっとしていると周りがどんどん先にやってくれて、私はどんどんダメになっていく。
 食事の手伝いをするようになったのだって意外と最近だ。「するようになった」というより、「させてもらえるようになった」という方が現実に即している。なんと、この齢にもなって「危ないから」という理由で長らく台所から排斥されていたのである。厨番だけではない。畑番も、馬番も、何から何まで。
 名誉のために言っておくが、私は決して家事ができない訳ではないし、不器用を極めている訳でもない。一人暮らしをしていた時期もあるから、胸を張れるほどではなくても人並み程度にはやれると自負している。
 だがどんなに主張してみたところで、刀剣たちの認可を受けることは叶わなかった。一事が万事。普段のアホでうかつな言動が不合格の原因だろう。
 ということで賄いもずっと光忠と薬研、ほか数名の刀剣男士だけで行われてきた。
 だが大所帯になるにつれ人手不足は深刻になる一方。また光忠の留守には残りの当番たちがとんでもない食事を用意するというこれはこれで深刻な問題も浮上しはじめ、我が本丸は体制の変更を余儀なくされたのである。
 どんなに忙しくても自分の衣食住を他人任せにしてはいけません。
 母と祖母からそう言い聞かされて育った私は、ここぞとばかりに当番に自分を組み込んで欲しいと進言した。馬番は素人だからダメ、畑は力仕事だからダメ、それならもうこれくらいしか残っていない。
 私は確かに審神者で、彼らのボスである。だが王様にはなりたくない。
 どうか私に仕事をください。仕事を。仕事を。仕事仕事しごとしごとしごと。
 能面のような顔でつぶやくこと数週間、根負けしたのか、ようやく最近になって台所に入ってよいとのお触れが出たのである。
「危ないもの(包丁・かまど等)は絶対に触らない」「重たいものは運ばない」「つまみ食いはしない」という驚くべき三つのお約束とともに。
 幼稚園児か。包丁やかまどを触らずに、どうやって食事の準備を手伝えと言うのだね。
 確かに刀剣男士にとっては私なんて幼稚園児どころか生まれたての赤ちゃんと同じかもしれないが、人間としてはもう立派な成人なのだ。
 そして今、目の前には薬研が出て行って人気のなくなった台所。まな板の上には良く研がれた包丁が置かれている。片付けていかないなんて、几帳面な彼にしては珍しい。
 それにしても刃物が刃物を扱うってどんな気持ちなんだろうか。同じ刃物なだけに包丁の考えていることが分かったりするのだろうか。ねえ、納豆刻んでるけど今どんな気持ち?みたいな。審神者の術をむやみに使うのは禁止されているから試したことはないが、刀剣男士のごとく包丁からも包丁男士なんていうのが生まれちゃったりして。意外とできるような気がする。
 身体を少し右にずらして観察をつづける。反射の角度が変わったせいで、きらりと刃が光って見えた。
 この包丁は非常に良く切れるうえに持ち手が滑りやすいので、特に触ってはいけない(と言われている)台所グッズのひとつだ。薬研もこれに関しては口を酸っぱくして言っていた。
 刃物ってのは、大将が思っている以上に危ないんだからな。
 ―― 触ってはいけない(と言われている)。
 彼らは現世のお約束をご存じないのだろうか。そんなことを聞けば、余計に触りたくなるのが人の性だ。
 周りを見回しても今は誰もいない。キラキラと光る包丁が私を誘惑していた。
 ちょっと来て触ってごらん。大根でもかぼちゃでもサクサク切れるよ。大丈夫、ちょっとぐらいなら怪我しない。甘い禁断の果実は私の耳元で囁いた。ごくり。そうだ、今やらずにいつやるというのだ。耐え切れなくなった私は、ついに手を伸ばして――
 なんてことをするとでも思ったか!
 さすがの私ももう大人。いくらアホでもうかつでも、そこでフラグと運命をともにするほど愚かではない。これぐらい大丈夫だろうという過信で、今までどれだけ痛い目に合ってきたことか。過去の経験から学んできたことを、そろそろいい加減に活かすべきだろう。せっかく審神者業以外で皆の役に立てそうな仕事ができたのだ。早く信頼を勝ち得てバリバリやってみせるのだ。
 誘惑を振りきって、包丁から視線を外す。
「薬研、遅いなあ」
 鶴丸国永のトラップにでもひっかかっているのだろうか。できあがった夕食からはいかにもな香りが漂ってくる。
 青々と鮮やかなおひたしは私の好物である。光忠か薬研が厨房に立つと、必ずひと品は私の好物が献立に入る。ありがたい。
「んー、でも今日はなんかちょっと違うな。なんだろ?」
 いつも通りの小松菜のおひたしなんだけれど。なんだろう。何かが足りない気がする。
 ひとしきり悩んで、ぴんと閃いた。
 分かった、胡麻がのってない。それだ。胡麻がなければ、せっかくのおひたしも魅力半減である。これだけは絶対に譲れない。
 部屋を見回すとすぐ近くの調理台に摺り鉢が見えた。ははん、摺ったまま忘れちゃったのか。
「おぬしもまだまだよのう」
 誰も聞いていないのを良いことに言いたい放題言いながら鉢を手にとると、摺り胡麻の香ばしい匂いがした。
 よし、私のだけこっそり多めにかけちゃおう。役得だべ。
 燭台切光忠たちが帰ってこないうちにと、急いでおひたしのところへ戻る。
 もうすぐよ愛しのおひたしちゃん、すぐに胡麻くんと逢わせてあげるからね!
 そして、調子に乗ってステップを踏もうとした瞬間、足元が滑った。とっさに摺り鉢をかばった私は周りの物を盛大に巻き込みながら、どんがらがっしゃーん、と大の字うつ伏せで石畳にダイブすることになった。
 顔面強打、悶絶。
「う、うぐう……」
 最近こんなんばっかりだ。
 急いで立ち上がろうとして、脇腹に違和感を感じた。
 見ればさっきの包丁が脇腹を掠める形で直角に地面に突き刺さっていた。
「おおおお!」
 あと少しズレていたら間違いなく身体にヒットしていた。セーフ!セーフ!
 良かった、神様ありがとう。普段の行いって大事だな。
 そう思いながら身を起こして服に目をやると、血色のシミがガンガン勢力を拡大していた。
「……普段の行いって大事だな」
 認識した途端、背中から脇腹にかけての部分が熱い痛みに襲われた。
 マズい。あれだけ包丁には気をつけるように言われていたのに。これじゃもう二度と厨房に入れてもらえない。
 痛さよりも何よりも、真っ先に考えたのはそれだった。
 これ以上仕事が減ったらまたダメ審神者度が上がってしまう。私だって少しは誰かの役に立ちたい。私が皆のためにできることなんて他にあんまりないのに。
 泣きそうになりながら、近くにあった布巾をひっつかんで傷口と思われる部分に当てた。包丁は引き抜いてよく洗って、元の場所に戻してから、やっぱりもう一度考えてそばにあったアルコール消毒液をふりかけた。
 と、そんなことをしている間に、話し声が近づいて来た。薬研が膳運びの手伝いを連れて帰ってきたのだ。
 退路を絶たれる前にと速やかに厨を飛び出し、曲がり角に隠れて顔だけ出す。すぐに反対側の曲がり角から薬研と和泉守兼定、堀川国広、他数名が現れた。
 兼定が怪訝そうな顔をする。
「アンタ、そんなところで何やってんだ?」
「ごめん、ちょっと風邪ひいたみたい。ごほごほ。手伝えなくて申し訳ないんだけど、部屋に戻って休むね。伝染るといけないから、部屋には来てくれなくて大丈夫だから!私の分のご飯はラップで包んで涼しいところに置いておいてほしいな!明日食べるから!」
 誰が聞いても不自然な言い訳を一方的に叫ぶ。刀剣男士に風邪がうつるのか?
 考える時間がなかったのだ、もう押し通す他にない。
「おい、いったい――
「そいじゃ!」
 何か言われないうちに首をひっこめて、反対方向に駆け出した。
 みんな、ごめんよう!

◇◇◇

 それがついさっきの出来事である。
 運良く(今となってはそれが良かったのか不明だが)誰にも会うことなく部屋に辿り着いた私はこうして人目をはばかって籠城を続けている。さきほど心配して様子を見に来てくれた何人かも下手くそな言い訳で追い払ってしまった。せっかく作ってくれたご飯を食べなかった上にこの仕打ち。豆粒のような私の心は罪悪感で押しつぶされそうだった。
 滝のように出血しているわけではないが、いまだにぽたりぽたりと血がこぼれてくる。脇腹は脇腹でも背中側を負傷したらしく、傷口は見えない。それでもいい加減にちゃんとした手当をすべきだということは分かる。
 しかし肝心の救急セットが手元になかった。
 本来ならこの部屋にあるはずのそれ。人間は私だけなのだから当然である。怪我をした刀剣男士に必要なのは救急セットではなく手入れセットだ。
 前線に出ない審神者が怪我をすることはそもそも想定外なので予備はない。
 ひとつしかない救急セットはおそらく今、刀剣男士がたむろする大部屋にある。以前、大部屋で私が画鋲を踏んづけた際に刀剣男士たちがこの部屋から持ってきてくれたのである。
「ああ……あの件にしてもな……」
 持ってきてくれた、と軽く言ったが、実際はそれどころの騒ぎではなかった。足の裏からほんのちょびっと流れた私の血は凄まじい集団パニックを引き起こしたのである。短刀年少組は泣くし、加州清光は気絶するし、石切丸は祈祷し出すし、堀川国広は兼さん兼さん叫ぶし、山姥切国広は「俺が写しだから…」とか言い出すし……あれ、こうして見るとあんまりいつもと変わらない気がする。
 そんなこんなで、この本丸における出血性の事故はとんでもないタブーであると判明している。絶対にバレてはいけない二十四時。今度こそウォール街も真っ青な本丸大恐慌の始まりである。沈む直前のタイタニックばりに荒れるに違いない。
 怪我よりも頭の方が痛くなってきた。
「まあ、みんな思うところがあるんだろうなあ」
 トラウマというか、心の傷というか。
 ここにいる刀剣の皆が皆、生前の主人と満足のいく別れ方をできたかというと―― きっとそうではないのだ。
 前回にしろ、今回にしろ、彼らの傷をえぐるような真似は絶対にしちゃいけなかったのに。
 さっきの、いや過去のあらゆる自分を殴って回りたい。


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