おもて面(三)
「起こして悪ぃな、大将。俺だ。入ってもいいか?」
包帯代わりの当て布を取り替えている最中、突然声をかけられて飛び上がった。慌てて布団に潜り込んで背後を振り返る。
障子の向こうに見知った影がある。
薬研だ。
深呼吸して、できるだけ落ち着いた声で、伝染るから、と返事をする。
外の人影はそれを聞いて納得がいかなかったらしく、もう一度入室の許可を乞うた。
苦しい言い訳を繰り返すと、彼は明らかにイライラし始めた。
薬研は気が短そうな口調に反して、意外に気の長い寛容なタイプ……かと思いきや、実際のところやっぱり短気な質である。しかも怒らせると結構しつこい。
以前、彼にちょっとしたイタズラをしかけたことがあったのだが、丸々一週間はプライベートで一切口を聞いてくれなかった。目すら合わせてくれず、挨拶しても無視される。あまりの仕打ちに耐えかねた私はとうとう土下座して謝罪したのである。それからなんとか口を聞いてくれるようにはなったが、本当に許されているのかは分からない。
うう、申し訳ございません、薬研兄貴。でも今日ばかりは見逃してくだせえ。
障子に向かってひたすら手を合わせて祈る。そんな私を知ってか知らずか、薬研はため息とともにこう言った。
「そこまで言うなら俺は戻るが、何かあったらすぐに呼べ。絶対に無理はするなよ」
どうやら穏便にお帰りいただけそうだ。
勢い余ってガッツポーズをする。脇腹に鋭い痛みが走り、思わず呻く。慌てて口を噤んだ。
このお馬鹿!
障子の方には背を向けているし、この程度じゃ聞こえない……はずだ。
彼が帰ったら外に出る算段を立てよう。もう少しすれば、そろそろ皆寝始める。
おやすみ、薬研くん。来てくれてありがとう。
彼の気配が消えるまで布団に潜り込んでじっと待っていると、
―― ガタリ。
何の前触れもなく戸が開かれた。
予想外の展開に、身体が硬直した。
ガタリ。
開かれた時と同じように、障子の閉じられる音がした。
戸口の人影はそれから少しの間停止したが、すぐにまた動き出した。沈黙が間を浸す。
ただ畳に触れる裸足の、ひたひたというあの特有の音だけが耳に届く。
気配がすぐ後ろで止まった。月の光に伸ばされた影が私の枕元を暗く塗りつぶした。
一瞬ののち、私は掛け布団を剥がれて仰向けにされていた。
服に手をつっこまれる。抵抗するも腕ごと簡単に押さえつけられてしまった。ちらりと見えた顔は無表情だ。冷たい手が脇腹をまさぐって、鋭い痛みが走る。
「やっぱりな」
手をひっぱり出して、ようやく彼は初めて言葉を発した。彼の手指には私の血がべったりとついている。
「なんで……?」
「血の匂いが分からんわけねえだろう。他の奴は知らんが、俺はこういうのに鼻が利く」
血のついた手を眺めながら、彼は淡々と言った。
「そ、そうだよね。そうじゃないと夜戦できないよね、ははは……」
私の軽口には答えず、薬研は黙って傷口を確認している。
絶対怒ってる。どうしよう。本当のことを言って、黙っててもらえるように頼み込もうか。
黙っててごめんね。色々あってさ、皆には内緒にして欲しいんだ。勝手言ってごめん。とか。
そんなことを考えていると、彼はおもむろに口を開いた。
「縫うしかないな。麻酔はねえが」
「やっぱりそうだよね。ごめん、本当に反省して…………なんて?」
あまりにも事も無げに言ったので、うっかり聞き流しそうになった。今日の晩飯は焼き鮭だぜ、大将。と献立を教えてくれるのと全く同じ調子だ。
「縫う、って言った」
二度聞いた私に、彼は丁寧にもう一度教えてくれた。
「冗談だよね?」
「このまま失血死したいのなら、冗談でも構わねえよ」
それこそ冗談ではなく、全身からさあっと血の気がひいた。
縫う。
私はここに来て、一気に冷静さを失った。
「う、嘘です……よね……」
「何でも言わせるな。嘘じゃねえ」
呆然としている間にも、淡々と準備が進められていく。薬研は治療のための道具を持参していたらしい。
私の心はちっとも準備できていないのに。
「大丈夫、たいしたことないから!もうすぐ血も止まるし……ごめん、黙っててごめん!でも色々事情があって―― 」
「あんまり大声出すと、他の奴らに勘付かれるぞ。いいのか?」
立てた人差し指を唇に当てられて、半泣きの言葉を飲み込んだ。
「バレるのが嫌なら痛くても叫ぶなよ、大将」
とうっすら口角を上げた彼は、有無を言わさぬ口調でつづけた。
「上脱いで座れ」
布団で前を隠して言われた通りに座る。剥き出しの背に夜の空気が冷たい。羞恥心からもちろん背を向けることしかできず、それがさらに恐怖を煽った。
持ち上げた腕が文机の上に固定される。開いた脇に冷たい手が触れた。傷口に顔を近付けて見ている。吐く息が脇腹に当たって、無意識に布団を握りしめる。
当て布が外れたために、血が脇腹からつうと垂れ落ちた。
面倒臭いのか、指でそのまま拭い取られる。見えないせいで敏感になった肌がその感触に泡立った。
ついに消毒が終わってしまった。
「ああ、何か噛んどいた方がいいな」
本当の本当の本当にガチ縫いコースだ。
とととと、とんだブラックジャックだ。とりあえず手元の布団にかじりつく。
「いくぞ」
針が肌を貫通する様を想像をして、私は思い切り身体を固くした。
ところが予想した痛みは来なかった。心臓をバクバクさせて待つが、いつまでたってもやってこない。
おそるおそる後ろを振り返ると、薬研が顔を覆って笑いをこらえていた。くっくっくという声が次第に大きくなり、大笑いに変わった。
「この程度で縫わなきゃならねえ訳ないだろ」
彼はぽんぽんともう一度優しく消毒して、ガーゼの上からしっかりと包帯を巻いた。
事態が飲み込めず、ぽかんとする。は?
「ちょっとばかり深いが大きな傷じゃない。しっかり押さえときゃ血はもうじきに止まる。痕だってほとんど残らないだろうよ」
本気にしたか?とおかしそうに問う彼に、さすがの私も唖然とした。
鶴丸にそそのかされたのか? いやむしろ薬研藤四郎に化けた鶴丸だと言われた方が信じられる。
「い、いくらなんでも、このビックリはタチが悪いって!」
片手で布団を押さえたまま、振り返って叫ぶ。
「なかなかいい顔してたぜ?」
さも愉快そうに笑う薬研は、私ごときの剣幕では全く動じていない。ことの発端が自分のせいだと分かってはいても、思わずゲンコツを振り上げて威嚇してしまった。
「あのね、私だって怒る時は怒るんだからね!」
腕を上げた勢いで布団が少しずり落ちたが、ほとんど気にならない。血がのぼった頭は恥じらいさえどこかへ吹き散らしてしまったらしい。薬研は少し前から下を向いたままだった。いつまで笑ってるんだ。本格的に腹が立ってくる。業を煮やした私はとうとう彼に掴みかかった。
「そこ、いつまでも笑うの禁止!」
顔を上げた薬研藤四郎はいつのまにか真剣な顔になっていた。伸ばした片腕がぱしりとたやすく捉えられる。
手首を抜こうと腕を引くが、そのままくるりと後ろを向かされ布団に押さえつけられた。
「こう見えて組み打ちは得意でな」
薬研が唐突に言う。背中にのしかかられてぴくりとも動けない。
私の上でため息をついて、彼は溜まっていたものを吐き出すように言った。
「せっかく我慢してやってたのに。ちらちら肌見せやがって。人を煽るのも大概にした方がいい」
「な―― 」
背中を這う手の感触が、私から言葉を奪う。
「あんたのことだ、他にも怪我してないか確認しとかねえと」
戦場育ちの短刀は獲物を追う時の楽しそうな調子で囁いた。耳元に息がかかる。
「刃物の扱いには気を付けろって言ったろ、大将」