気づけば身体が動いていた。
 懐に手を突っ込んで、嗅覚の命ずるままに匂いの出所を探る。
 脇腹の布を取り払うとぬるりとした感覚が指に触れ、彼は自分の勘が的中したことを悟った。引き出した手にはべたりと赤い血が貼り付いている。
 滅多に見ることのない主のそれに、鼓動が早くなる。
 なんでこんなことになってるんだ。



刃物類の取扱いついて

裏面


 彼女が何か言っているが耳に入らない。深呼吸をして傷口の確認を急ぐ。衣服をくつろげて脇腹を確認すると、背中よりの場所に切傷が見えた。
 高まっていた緊張が一気にほぐれる。
 目に入る脇腹の傷は決して浅くはないが致命傷にはほど遠い。出血時間が長かったために、血の匂いがこんなにも濃く感じられたのだ。それなりに出血したようだがすぐ手当をすれば後遺症はない。縫う必要もなさそうだった。
 驚いた様子の主がようやく視界に入ってきた。押さえつけていた身体を解放する。
 安心した薬研は、だんだん腹が立ってきた。
 傷口の形と大きさから考えるに、包丁か何かだろう。指や手ならまだ分かるが、どうやってこんなところを切ったんだ。包丁でチャンバラでもしたのかよ。
 まったく、あれだけ気をつけろと言っておいたのに。といってもさすがにこんな怪我は想定外だったけれども。
 ドジと人騒がせにも程がある。しかもわざわざこんなややこしい隠れ方までして。
 本当にこの主はロクなことをしない。
 主のためにも、本丸と自身の安寧のためにも、そろそろ本格的に反省させる必要がある。
 少し考えた後、深刻そうな声でこう言ってやった。
「縫うしかないな。麻酔はないが」
 この期に及んでのんきに別のことを心配していたらしい主は、不意打ちをくらったらしい。目玉がまろび落ちそうな顔で聞き返してきた。
 もう一度言ってやると、彼女はぽかんと口を開けてハニワのような顔になった。
 顔の変化に笑ってしまいそうになる。相変わらず顔芸の達者なこと。
 ついでとばかりに、恐怖を煽りそうなことを適当にいくつか付け加えた。ようやく状況が飲み込めてきたらしい主は、今度はまれに見る深刻な顔を見せた。
 普段からこの十分の一でいいから締まった顔をしてくれないものだろうか。
 最低限の治療用具は常に持ち歩いているものの、針や糸などはもちろんない。手持ちの道具をわざとらしく準備する。
 ごめん、黙ってて悪かったよ。お願いだから勘弁して――  とうとう主が縋り付いて陳情してきた。
 しかし気持ちは収まらない。
 普段ならこれぐらいで許してやるのに。さっきからどうも調子がおかしい。なんだか頭もうまく回らない。部屋中に充満したこの匂いのせいだろうか。
「あんまり大声出すと、他の奴らに勘付かれるぞ。いいのか?」
 水分を失って少しかさついた唇に、人差し指を当てて黙らせた。どうせ何か裏があるに違いないと思ってあらかじめ人払いはしてきてある。なのに自分はどうしてこんなことを言っているのだろう。
 口がまた勝手に言葉を紡く。
「バレるのが嫌なら痛くても叫ぶなよ、大将」
 身体をこわばらせた主がこちらに背を向けて座っている。
 見えなくても顔面蒼白なのは間違いない。隠し切れない緊張を伝えるように白い背中が震えた。
 再び心がざわつく。
 よくわからない感情を押さえつけて、傷口を確かめる。
 少し深いがそれほど大きくはない。当分痛むだろうが、大した痕は残らないだろう。縫う必要なんてもちろんない。
 冷静にそう判断しているはずなのに、心のざわめきは収まらなかった。何かがじわじわと頭と身体を侵食してくる。獰猛で本能的な何か。
 その時、白い肌につうと血が垂れた。
 思わず指で拭いとってしまう。指に絡みついたそれは彼の嗅覚と視覚に強烈に作用した。
 戦場に出た時のように、気が高ぶる。
 冷静さが保てない。
 思わず舐めとってしまいそうになり、なんとか理性で押さえこんだ。
 そこまできて、やっと彼は自分の本性を思い出した。
 なんだ、そうか。自分が思っていた以上に身体は欲望に忠実だったのだ。所詮は血を浴びるために生まれた物。人の姿を模すようになってもそれは変わらない。
 戦いや血を厭うなどということは、自分にはきっとこれからも理解できないだろう。
 血を滴らせて身体を震わせる主。
 その姿に強くこみあげるものがあった。自分ならもっと美しく切り裂ける。この柔い肌に己の刃をあてて。剥き出しになった本性がそう叫ぶ。戦いは好んでも、女子供を加虐する趣味はなかったはずだが。
 ここまで駆り立てられるのは背徳感によるものだけではないだろう。
 この主はやはり別格なのだ。彼女はどうしようもなく自分たちを惹きつける。
 過去さまざまな人手を渡ってきた自分があえて人間視点で彼女を評価するなら、容姿にしろ声にしろ平凡であると言う他ない。可もなく不可もなく。間の抜けた顔の、のん気な女。
 しかし知れば知るほどに、自分たちには決してそうは見えないのだ。
 刀は所有者をその心と魂のみで見定める。
 平凡な形に隠されたその精神は、研ぎ澄まされてあまりにもしなやか。まさに一振りの優美な刀のように。
 縫う?
 誰が縫うか。主の肌に醜い痕はふさわしくない。
 気がつけば手が自然と脇腹を撫ぜていた。
 掴みかかってきた手首をたやすく捉えて、布団に縫い止める。
「こう見えて組み打ちは得意でな」
 今更部屋に帰っても、おとなしく眠れそうにない。まったく最後まで困った主だ。こうなったらしっかり反省してもらおう。
「刃物の扱いには気を付けろって言ったろ、大将」


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