冬の底に閉ざされたような、暗く静かな夜だった。
 もったりと垂れ込めた雲は、星の瞬きだけでなく、大気に潜んだわずかな音さえも神妙に覆い消してしまう。
 太刀川はかぼそい街灯の光だけを頼りに、しかし全く危なげのない足取りで、ひとり家路についていた。
 一歩進むごとに、しょり、と冷たい音がする。昼過ぎに降った雪は、行き交う車の排熱によって、積もることなくアスファルトに溶け落ちていた。街が寝静まった今は、次第に氷と化しつつある。人間はおろか車一台通らない真夜中の大通りを、これ幸いにずんずん横切った彼は、そのまますぐ脇にある裏道を通り、堤防に出た。幅広の川の上に細い橋がかかっている。
 こんな橋あったっけな、となんとなく通ってみたくなった太刀川は、大した逡巡もなく、吹きさらしのそこを渡りはじめた。彼はその性として、昔から迷うということをしない。だが大して行かないうちに、耳たぶが千切れそうに痛みだした。寒気が分厚いコートを貫き、身体の芯まで刺し通ってくる。
「さむい」
 白い息が、ぽっぽと煙突のように立ち上る。数分前の己の選択について、太刀川は珍しく後悔した。
 三分の一ほど進んでいた彼は、そこでようやく先客の存在に気付いた。橋の真ん中あたりに人影がひとつ。そのシルエットから、若い男であると知れた。橋の欄干に肘を置き、川面を眺めるその表情を、輝度の低い街灯がぼうっと照らし出している。背格好にしては、不釣り合いなほど大人びた横顔だった。
 太刀川は構わず歩きつづけた。真夜中の橋の上、得体の知れない相手と二人きりという状況にあっても、その心臓は震えも縮みもしない。さらに奥まった場所にある心も、さざめきひとつ立てずに静まり返っていた。
 相手も相手で、太刀川がすぐ側まで近づいて行っても反応らしい反応を見せなかった。夜の川は墨汁のように真っ黒で、魚どころか波立ちさえも人の目には映らない。にも関わらず、青年はぼんやりと、それでいてどこか吸い寄せられるように水の面を覗き込んでいた。底の知れない深淵に、何かをあてどなく探しているようにも見えた。
 足を止めた太刀川は、ふむ、と指先で顎を触った。もったいをつける時の、癖のようなものだった。
「工場街の裏手の廃ビル。ラーメン屋があったとこ」
 そう告げると、相手はわずかに肩を揺らし、のろのろと顔を上げた。淡白だが、それなりに端正な顔立ち。太刀川は一目見て、強い違和感を覚えた。何故そのように感じたのかは、彼自身にも分からない。
 吊り気味の、切れ長の目が、探るように太刀川を見ていた。内容の如何よりも、声をかけられたことを怪訝に思っているような感じだった。相手の様子など意に介さず、太刀川は話をつづけた。
「ここよりかはあそこの方がいい」
「……なんで?」
 目の前の相手はひどく億劫そうに答えた。声も口調も予想していたよりもずっと若い。だがその声に、太刀川はなぜだか朽ちる直前の古木を連想した。風に嬲られ、からからに乾き、半ば崩れてなお軋んだ呻きをあげる枯れ木。こちらを見返す青年に向かって、太刀川は言った。
「そっちの方がちゃんと死ねる」
 青年がほんの一瞬息をつめた。
 凍った風がその白い頬を切り裂くようにして吹きすさんでいく。さむそうだな、と太刀川は誰にともなく呟いた。



夜明けの賛歌

01:そっちの方がちゃんと死ねる


「太刀川さァん」
 太刀川の意識は引き戻したのは、耳慣れた声だった。前を歩く出水が不思議そうに首をかしげていた。
「どうしたんすか? ぼうっとしちゃって」
 出水は笑いを浮かべ、軽い調子で「眠たい?」とつづけた。
 年齢のためか立場のためか、出水は太刀川に対して基本的に敬語を使う。が、時折こうして気安い友人のような振る舞いを見せることもある。無意識かそうでないかと言えば、おそらく後者だろうと思う。考えなしと見せかけて、その実、緻密な計算が裏にあり、慎重に機を伺うかと思えば大胆に仕掛けていく。戦闘での立ち回りが示す通り、両極を使い分けるという点において、出水は抜きん出た巧みさを備えていた。
「いや、眠くはないな」
「そっすか。ちなみに俺は眠たいです。気分的に」
『私もー』
 通信機の向こうで国近がやる気のない声を出した。
「柚宇さんが眠いのはいつものことでしょ」
『えへへ。大正解』
 気の抜けた声で笑う国近。彼女は全体に緊張感が足りず、マイペースここに極まれり、といったところ。戦闘の最中も、昼下がりのラジオのようなのどかな声でオペレーションを行うものだから相当なものである。下級の隊なら支障も出ようが、名実ともにトップの座を占める太刀川隊においては、戦闘員の余裕と上手く噛み合い、かえって良いチームワークを成していた。
「敵もさ、こっちに来るのはいいけど、時間考えろよな。24時間営業じゃないっての。太刀川さんもそう思わない?」
「時差だな」
「時差っすか」
 あちらが昼ならこちらは夜。太刀川の適当な仮説に、出水は分かったような分かっていないような返事をし、ふと思いついたように斜め後ろを振り返った。
「唯我ァ、近界むこうは今何時だと思う?」
 ぼんやりと脇見をしながら歩いていた唯我は、降って湧いた問いかけに、「へ?」と素っ頓狂な声を出した。
「お前、また話聞いてなかったな」
「と、とんでもない!このボクにかぎってそんなことあるはずが……いたたた!」
「嘘つくな、さっきの戦闘中だって呼びかけてんのに全然応答しなかったじゃねえか。怒らないから本当のことを言え」
 関節技をかけられつつも「もう怒ってるじゃないですか!」「暴力反対!」などと足掻いていた唯我だったが、「ぎえええ!出水先輩ストップ!」と三十秒ともたずに降参した。へにゃりと地面にしゃがみこむと、土下座の姿勢を取った。
「も、申し開きをさせていただきたくっ……!」
「よし、聞いてやる」
「出水先輩も良くご存知の通り、今日は一日中、先輩方から、しごき……ではなく、厳しいご指導をいただき、そして、ようやく仮眠に入ったかと思えば近界民出現……!夜間の激しい戦闘によりボクは最後の力を使い果たしっ……!」
「ほう」
「体力回復のため睡眠を……」
「居眠りかよ!」
 スパァン、と出水に頭をはたかれた唯我は、涙目になって他の二人に助けを求めた。
「太刀川さあん、国近さあん、出水先輩があ」
「後方支援やってただけだろ、お前は」
 太刀川は事実を述べ、国近の方も、半ば眠った声で『睡眠時間は皆いっしょだよー』とつづけたので、さすがの唯我もしょげかえった。
「うう……手厳しい」
「自業自得だ。ほら、さっさと帰って寝るぞ」
 よよ、と泣き崩れた唯我の襟首を引っ張って、出水が先を行く。
 太刀川は、彼らの肩口に目を留めた。街灯の明かりに照らされて、闇夜に浮かび上がる“刀三本・月ひとつ”のエンブレム。気づかれない程度に彼はちょっと口角を上げた。止めていた足を進めようとした時、強い風が吹いた。黒いコートの裾がバタバタと激しくはためいて、唯我が「ひゃん」と小型犬のような声を出す。出水の方も両手をさっとポケットにしまいこんだ。
「寒いな。寒くないけど」
「うう。分かりますそれ」
 トリオンの体は冷たさも寒さも、必要以上には知覚しない。だが例えそうであっても、身を切る風が吹き付ける時、誰もが咄嗟に己をかばう。心臓のそのまた奥にあるもの、凍えやすいそれが冷えきってしまわないように。
 寒さを厭うのは身体ではない。凍りついて感覚をなくした人間は、寒さを感じなくなる。そうなれば、きっともう生きてはいられない。
 顔を上げると、出水と再び目が合った。太刀川さん、と唇が動いた。
 太刀川は苦笑した。目ざといにもほどがある。だが、返事をしようと口を開いた途端、言葉に代わってあくびが出た。体の構造上、眠くはならない。知覚の遮断と同じ話だ。だから、これもまた癖のようなものだった。
 彼はちらりと川面を見下ろした。
「まァ、早い話、懐かしくなったんだ。もう何年も前のことだからな」
 出水と唯我は顔を見合わせ、首をかしげた。太刀川はその頭を順にぽんと撫で、隊の先頭を歩きはじめた。放っていかれまいと二人が慌てて後を追う。
 凍り始めた雪が、しょりしょりと鳴る。三人は肩を並べ、真夜中の橋をゆっくりと渡って行った。


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