「死なないよ、俺は」
 長い沈黙の後、青年は答えた。あの張り詰めた一瞬が嘘のように、元の無気力な表情に戻っている。
 “死ぬ気がない”のか、“死ぬはずがない”のか、はたまた“死ぬことができない”のか。太刀川にしてみれば、どれも大して変わらない。しかし本人にとっては、それこそ死にたくなるくらい、大きな違いなのかもしれなかった。
 青年はすでに太刀川を視界から外していた。欄干に肘を乗せ、何事もなかったかのように川面を見下ろしている。瞳に浮かんだ、冷めた倦怠。それが太刀川の癪に触った。
「生意気だな、お前」
 無視を決め込む青年に、太刀川は淡々と言葉を重ねた。
「クソガキ」
「俺、歳にしちゃ大人びてるって言われるんだけど?」
 聞き流せなかったのか、彼は鬱陶しそうに振り向いた。眉間に一筋、皺が入っている。発した言葉とは裏腹に、これまで見た中で最も幼く、歳相応の表情だった。“少年“と“青年”に、それぞれ片足ずつ突っ込んで身動きが取れない、そんな不自由な年の頃。
「年上には敬語な。あと、もっと愛想よくしろ」
「あんたが言う?それ」
 青年は面倒くさそうに答え、指先で欄干を叩いた。冷えた金属と爪がぶつかり、カンカンと乾いた音を立てた。
「ここに来たの、失敗だったかな」
 それが思ったよりも真剣な顔つきだったので、太刀川は言うはずだった言葉を忘れて、しばし黙りこんだ。
 ひゅう、と強い風が吹いた。痛みを感じるほど、冷たい風だった。ポケットに手を突っ込んだままの姿勢で、青年は石像のように立ち尽くしていた。風にあおられ、薄っぺらい音を立てるナイロン製のジャージ。その姿に、太刀川はまた奇妙な違和感を覚えた。
 すぐそこに見えるのに、息遣いが分からない。生き物の匂いがしない。
 二人の間に大きなモニターがあって、あちらとこちらを全く別の世界に仕立てあげている。映画を見ている自分と、その登場人物である青年。
 そんなことを考えてしまうくらい、目の前の青年は周囲の景色から浮き上がって見えた。
 しばらくして、青年は「じゃあ」と背中を見せた。止まっていた時間が動き出す。しょり、しょりと歩き出す音を捉えて、太刀川は「おい」と声をかけた。呼ばれた相手は、一瞬迷ってから振り向いた。
「なに」
「年上には敬語な」
 変な奴、と彼は肩を竦めた。そして、ふと生真面目な表情になり、自動再生のテープのような、色のない口調で宣告した。
「あんたと会うことはもうないよ」
「なんだそれ」
「勘、みたいな感じ」
 彼は口の端をちょっと上げ、「結構当たるんだ」と自慢気につづけた。しかし、太刀川は見逃さなかった。刹那、その瞳に鬱屈した何かがよぎったのを。
「じゃあ、本当にさよなら」
 青年は向こう岸に向かって歩き出した。太刀川の方も今度は呼び止めなかった。後姿が見えなくなった頃になって、彼はようやく違和感の正体に気付いた。
「息、白くなかったな」
 こんなに寒いのに、と太刀川はひとりごちた。
 夜闇に浮いた白い吐息は、ゆらゆらと立ち上り、瞬きの間に溶け消えた。



夜明けの賛歌

02:勘、みたいな感じ


 全隊共用の休憩室に入ってすぐ、三輪は腹の中で舌打ちをした。
 知っていれば来なかったのに。
 黒コートの背中を睨みながらも、彼は己の刺々しさを懸命になだめた。
 好き嫌いが激しいのは自他共に認める事実だが、それでも「憎い相手」と「苦手な相手」を一緒くたにしないだけの分別は持ち合わせている。
 陽介が来たらすぐに出て行く。問題などない。
 三輪は軽く息を吐き、気分を和らげようと努めた。
 近界民への過激な態度、加えてとある人物のとの不仲が目につくあまり、もっぱら気難しさばかりが下馬評に上るが、本人にしてみればいい迷惑だった。誰彼問わず噛みつくなど論外だし、感情のコントロールにしても、わずかな例外を除けば、むしろ他人よりも上手くやる自信がある。
 ただ最近はその“例外”が多いだけのこと、というのが彼自身の言い分である。ある意味、開き直っている。正確には、精一杯開き直ろうとしている。
 なりふり構わず。ヒステリー。神経過敏。なんとでも言え。トラウマの根源が目の前をうろちょろしていたら、誰だってそうなるに決まっている。
 そうならない人間がいるとしたら、と三輪は目の前の男に視線をやった。感情的な奴は苦手だ。が、何を考えているかわからない奴はもっと苦手だ。
 三輪が表情を取り繕った頃合いを見計らったように、太刀川は振り向いた。こういうところが特に嫌なのだ、と三輪は顔には出さずにうんざりとした。
「よう、三輪」
「どうも」
「こっち来て話さないか?」
「いえ。すぐに米屋が来るんで」
 能うかぎりのそっけなさで答えると、太刀川は「ふうん」とあっさり引き下がった。この手の人間に絡まれるとろくなことがない。背を向けて座り直した太刀川に、三輪は少しほっとした。
 だがそれも束の間のこと、太刀川はおもむろに席を立って、今度は三輪の目の前に座った。
「よし、これで大丈夫だ」
 何が『大丈夫』だ。こっちに来るな。心の声が飛び出さないよう、三輪はみぞおちに力を入れた。うかうかしていると相手のペースに乗せられる。目の前の男が余計なことを言う前に、と三輪は先手を打って話しかけた。
「話ってなんですか」
「そう急くなよ。とりあえず餅でもどうだ」
 どこから取り出したのか、太刀川は小さなパックを机に載せた。ラベルの文字は「きな粉餅」。茶でも勧めるような気軽さに、三輪は頬を突っ張らせた。
「結構です」
「まあそう言わずに」
「要りません」
「残念。うまいのにな」
 太刀川はパックの蓋を開け、その中のひとつにかじりついた。頬を膨らませてモグモグやった後、満足そうに飲み下す。三輪はそんな太刀川を見下ろしながら、早く来い陽介、と一心に念じた。
 食べ終わった彼はようやく三輪に視線を合わせた。
「三輪隊、最近の調子は?」
 調子も何も、先日のアフトクラトル侵攻以後、近界民の活動は沈静化している。A級・B級問わず、訓練を除けばどの隊もろくに隊行動の機会がない。よく知っているはずのことを、いけしゃあしゃあと問うてくるのはこの男の十八番だった。
「特に何も」
「古寺から、奈良坂が寝込んでるって聞いたが」
 あいつ、余計なことを。頭の中の古寺に向かって、三輪は盛大に眉を顰めた。
「ただの風邪です」
「そうか。じゃあ、三輪隊は問題なさそうだ」
「何の話ですか」
「近頃、調子を崩す奴が多いだろ」
 身体に限らずな、とつづけた声に、三輪はようやく相手の意図を理解した。辛うじて退けたものの、アフトクラトルの侵攻はボーダーと三門市に深い爪痕を残した。
「下らない、どいつもこいつも。自分を責める暇があるのなら、演習でもやっていた方がよほど有意義でしょう」
 容赦なく切り捨てたのは、冷淡さによるところではない。その言葉が誰の心臓を貫くのか、彼自身が一番良く知っている。三輪はぎりり、と音が出るほど強く奥歯を噛み締めた。
「弱い奴は、死ぬまで嘆いていればいい」
「手厳しいな。頑張っても結果が出ない時はあるだろ」
 太刀川は他人事のように苦笑した。三輪はそれを見て、違う、とすぐに思い直した。この男の場合、「他人事のように」ではなく事実「他人事」なのだ。
「手厳しい?当たり前のことじゃないですか」
「じゃあ、お前の“それ”もか?」
 目の下を指さされて、三輪は思わず後退った。染み付いてしまった黒い隈を思い切り擦る。
 いくらやっても取れはしないのに。無駄な足掻きはよせ。
 囁きかけてくるのは、目の前の男か。それとも自分自身か。
「寝ないで訓練室に入り浸ってるってな」
「うるさい、関係ないだろ」
 三輪は語気を強めた。心臓がどくどくと嫌な音を立てていた。
 気付けば間合いに入り込まれている。武器を収め、微笑みかけてきたかと思うと、次の瞬間には真っ二つ。この男がその気になれば、避けることも防ぐこともできない。陰険で、嫌味で、低劣なやり口だ。やられる方はたまったものじゃない。
―― 太刀川こいつにしろ、あの男にしろ。
 頭に血が昇りかけた時、入り口の扉が開いた。
「よ、失礼しまっす」
 顔を覗かせたのは米屋だった。室内の二人に目を留めた彼は、自然な所作で間に割って入った。どけ米屋、と三輪が唸る。その肩に手を回し、米屋はニッと口の端を上げた。
「太刀川さん、うちの隊長いじめないでくれます?」
 茶化すような口調だが、米屋の目は寸分も笑っていない。
「そういう風に見えたか?」
「ええ、とっても。後輩イビリはカッコ悪いっすよ」
「そうか、悪かったな。そういうつもりじゃなかったんだが」
 太刀川は“降参”のポーズを取り、素直に謝った。牙を剥き出さんばかりの三輪を前に、米屋は頬を掻いた。
「そろそろ行かないと奈良坂がスネちゃうぜ。それとも差し入れ、俺一人で持って行こうか?」
「……行く」
「と、申しておりますので。そろそろおひらきに」
 調子よく言うと、米屋は三輪の肩を捉えたままくるりと踵を返した。手際よく連れ出されそうになった三輪は、ドアをくぐる直前、その腕を振りほどいて太刀川を睨みつけた。
 そして彼の思う中では、最低の悪態をついた。
「あんた、あいつにそっくりだ」
 太刀川は一瞬驚いたような顔を見せたが、じきにゆったりと口角を持ち上げた。肘置きにもたれかかり、クックッと喉を鳴らす。
「何がおかしい」
「……お前の方が似てる」
 ビリ、と空気がひび割れた。三輪の瞳孔が広がったのを見て、米屋は急ぎ仲裁に入った。
「ちょっとちょっと!」
 しかし米屋の危惧を裏切って、三輪はそれ以上言い返さなかった。黙って眼前の相手を見下ろしている。
「行くぞ、米屋」
 三輪の声が地を這った。米屋は恨めしそうに太刀川を見た後、静かに前の背中を追った。

◇◇◇

広場の向こうに見知った姿が見える。
太刀川は、ひゅうと、音にならない口笛を吹き、ベンチの方へ歩いて行った。真夜中、人気の絶えた公園は冷え冷えとした空気に満ちている。賑やかな昼間との落差も相まって、寂しさがそのまま気温に溶け込んでしまったような夜である。
「よう、また会ったな」
ベンチの男に声をかけると、俯いていた顔がバネ仕掛けのように上を向いた。見開かれた淡青の瞳に、太刀川は一層気分を良くした。他人の不意をつくのはいつだって楽しい。
 下らない動機を見透かしたように、青年は顔をしかめ、ベンチから立ち上がった。前に会ってから二週間ほど経っているのだが、再会を喜ぶ素振りは欠片も見えない。すれ違い様、逃すまいと腕を掴んだ。
「ほら、挨拶は」
「……離してくんない?」
「無視すんな。傷つくだろ」
「ウソつけ」
 青年は心底鬱陶しそうに答えた。だがその程度でひるむ太刀川ではない。お構いなしに肩をつかみ、ベンチに押し戻した。ついでとばかりにその隣に腰掛ける。キンキンに冷えた金属の感触が太腿に伝わってきた。
「尻、凍りそうなんだが」
「あっそ」
 発言の内容に呆れたのか、逃走を阻まれて辟易したのか、青年はこれ見よがしなため息をつき、ベンチにもたれた。
 寒空の下だというのに、相変わらず恐ろしいほどの軽装である。ジャージに近い(しかしジャージよりはかっちりとした)、運動向きのそれは、肩口にどこぞのエンブレムが刺繍されている。学生用の指定服かと思ったが、少なくともこの近くで同じデザインのものを目にしたことはなかった。
 まっすぐ精悍に切り立った頬に、若年特有の甘さはない。同じく瞳も齢を語らない。だが、肩幅、背丈はと言えば、太刀川に少し足りなかった。「小柄」という言葉を思い浮かべて、彼はそれを自ら打ち消した。手足のバランスを見るかぎり、「成長途中」というのがより適当な表現だろう。
 年齢不詳の青年に向かって、冗談半分に聞いてみた。
「おまえ、まさか中坊か?」
「年齢的にはね」
 太刀川は思わず顔をのぞきこんだ。相手の実年齢に驚いたから、ではなく、素直な返事に拍子抜けしたからである。“年齢的には”少年と呼んだ方がいいかもしれないその青年は警戒の色を含んだ目で太刀川を見た。
「こんな時間に出歩くなって言いたいわけ? おっさんの説教は聞きたくないな」
「別に。俺も学生だし」
「大学?」
「いや。高校」
「……は?」
 学年を教えてやると、無気力に下がっていたまぶたがいつになくせわしく動いた。
「うそだろ。俺と一つ違い? 留年してんの?」
「まさか。俺はこう見えて真面目だぞ」
 真顔で言い返した太刀川に、青年は呆れた様子で天を仰いだ。
「いやいや、さすがにそれは老けすぎ」
「便利なことも多いけどな」
 太刀川がそう返すと、彼はベンチの上で「年齢詐称もいいところ」と脱力した。
「でもさ、学校の帰りにしちゃ遅すぎるだろ。前にしろ今日にしろ、こんな時間にこんなところで何やってんの? こっちはわざわざ人通りの少ない場所を選んでるのに」
 やる気のない様子で、青年は背もたれに首をそらせた。時刻はすでに午前二時を過ぎている。
「人の家からの帰り道だ。表を通ると補導だなんだとうるさいからな」
 実際は補導ではなくもっぱら職務質問であるが。人の家、というところで、青年は「あー、はいはい」と片手を振った。
「そういうことか。楽しそうで何より」
「今時、そう珍しくもないだろ」
「まあね。おこぼれに預かりたいくらいだよ」
 発言のわりには、全く関心のなさそうな顔をしている。若い癖に仙人みたいな奴だな、と太刀川は少し同情した。この歳で露を飲んで生きているとは、枯れ木になるのも時間の問題かもしれない。
「何か失礼なこと考えてない?」
「いや、別に」
「っとに。あんたの言うことは信用できそうにないね」
 髪は薄茶。眼は猫の目のように青い。太刀川にとってモノクロの印象だった青年は、街灯の光の下、淡く色を帯びつつあった。
 どちらからともなく大きなあくびをする。軽く伸びをした後、青年は立ち上がった。
「じゃあ、そろそろ行くから」
「太刀川」
 そう口にすると、歩き出そうとしていた青年は、ぴたりと動きを止めた。
「太刀川。俺の名前」
 求められていることを悟り、青年はわずかに頬を強張らせた。逃げ出したいが、逃げられない。切羽詰まった、泣き出しそうな顔だった。
 お互いに口を閉ざしたので、あたりは静まり返った。高速道路を走る車の排気音だけがはるか遠くで唸っている。
 沈黙は立場の優劣を浮き彫りにする。青年はしばらくして諦めたように肩に力を抜いた。
「……迅」
「ジン?どんな漢字?」
 迅速の“迅”、と青年は答えた。
「へえ。かっこいいな」
「名字だよ。よく勘違いされるけど」
「下の名前は?」
「ユウイチ。迅悠一」
 自分の名前にも関わらず、青年は少し口ごもった。まるで言ってはいけない言葉を口にしてしまったかのように。
 太刀川は「ふうん、ユウイチか」と頷いた。
「じゃあな、迅」
「わざわざ聞いといて、名字そっちで呼ぶんだ?」
「『迅』の方が語呂がいい」
 太刀川がそう言うと、迅と名乗った青年は困ったように眉を下げ、頬のあたりをぎこちなく緩ませた。


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