誰かが叫んでいる。
啜り泣く声が聞こえる。
はぜる音、燃える音、崩れ落ちる音。耳を塞いでも頭の中に流れ込んでくる。
息が切れて、足が重くなって、とうとうその場に膝をついた。心臓がどくどくと急き立ててくる。
行かないと。
足が動かないので、瓦礫の間を這いずっていった。滑ってうまく進めない。コンクリートやアスファルトが濡れている。血。誰の血だろう。もはやそんなことさえ分からない。
がむしゃらに前だけを目指していると、ひらけた場所が見えてきた。瓦礫もなく死体もなく、そこだけ周囲の叫喚から切り離されて、ぽかりと白く浮き上がっている。
白い世界の真ん中には、白い人影が立っていた。
いてもたってもいられず、駆け出した。
祈るような気持ちで呼びかけると、白い彼女はこちらに気付き、首をかしげた。
良かった。間に合った。
細い手首を取ると、彼女はどうしたの、と不思議そうに首をかしげた。
『ここにいると危ないから。俺についてきて』
行けないわ、と彼女はかぶりを振った。
『ダメだって! 俺には見えるんだ!』
だがどんなに訴えても、彼女はその場から動こうとはしなかった。困ったように目を細めて言う。
貴方は特別だもの。
繋いだ手はどんどん冷たくなっていく。
『早くしないと。ねえ、早く』
振り向いて、絶句した。白い顔が見知らぬ女のものに変わっている。目を擦ると今度は若い男の顔に。その次は少年、また女、男、老婆。血を流し、うめき声を上げる亡者の群れが、白い世界を埋め尽くしていく。足元にできた血だまりから、細い腕が伸びてきた。凍えた手のひらが頬を包む。
「ねえ、誰のせい?」
耳元で吐息が囁いた。彼女の白い死顔は、やはり今日も微笑んでいた。
03:非常食。やるよ。
久しぶりに夢を見た。
どうにもならない、取り返しのつかない、救いようのない過去の夢だ。
冷たい水で顔を洗って、迅は息をついた。“先”のことじゃなくて良かった。
目にした映像が過去の記憶の産物なのか、それともこれから起こる未来の光景なのか、今は簡単に見分けがつく。非現実的で空想的な夢が、未来を暗示することはない。彼が垣間見る未来のビジョンは、常に厳密で精密なものだった。照査された地図のように寸分の狂いもなく、行く手を指し示す。
過去と未来は絶対的に違う。そんな簡単なことでさえ、子どもの時には分からなかったけれど。
迅はベッドに寝転んだまま、ぼんやりと天井を見た。
過去と未来、ふたつの時について“見えない”人はこう考える。過去は確かに存在した現実だが、未来は曖昧で移ろいやすい何かだと。
“見える”迅に言わせれば、全くの反対だった。未来こそが輪郭を持った現実である。彼はそう考えている。提示された選択肢のどれかが、いつか必ず目の前に現れる。手に取るように明らかで、伸ばせば掴むことさえできる。一方、過去はそうはいかない。過去は記憶の中にしかなく、常に恣意的で流動的で、時間とともに風化してしまう。ピンぼけのフィルムのようにレンズの向こう側に霞み、同じ過去を共有しても、同じ形では保存されない。
“歴史は物語である”
真実は使い捨てられ、過ぎ去れば二度と手元に戻ってこない。人が“過去”と呼ぶものは、喪われた真実を補完するために、幾重にも塗り重ねられ、造形された、どうにもならない多面体なのだ。
「はあ、疲れてんのかな」
時計の針は午後五時を示している。仮眠とはいえ、まったく寝た気がしなかった。身体がだるい。
一階に降りると、ソファの上に陽太郎がいた。陽太郎は迅に気付くと、「よ」と片手をあげた。
「ひるね、もうおわったのか?」
「まあな」
「よろしい。ねる子はそだつというからな」
陽太郎は腕を組んでふんぞりかえった。ませた口調で自分でも良く分かっていないことを言う。子供らしさに救われて、迅は彼の小さな頭を撫でた。
玄関の戸がガチャガチャ鳴って、しばらくすると烏丸が入ってきた。バイト帰りらしく、髪の毛に帽子の跡がついている。
「む、とりまる! 良いにおいがするぞ!」
陽太郎と雷神丸が鼻をぴくぴくさせたので、烏丸は手に提げていたビニール袋を机に置いた。
「バイト先でもらったんで、支部の皆で食べてください」
「なかみは何だ、とりまる」
「唐揚げとコロッケ。あとケーキ」
ケーキと聞いて、陽太郎が雄叫びをあげた。
「女の子か!? 女の子からもらったのか!」
「いや、じゃんけんで勝った」
そう言いながら、烏丸は手際よくケーキを出し、陽太郎の前に置いた。フォークを用意するのも忘れない。さすが面倒見の鬼……の師匠である。感心しきりの迅に向かって、烏丸は首をかしげた。
「迅さん、早いっすね。まだ寝てて大丈夫だったのに」
「んー、色々やることあるからさ。他三人も留守だったし」
出された唐揚げをつまみつつ、迅は茶を濁した。烏丸の返事を待たずに、留守の理由を指折り数えていく。
「小南と宇佐美は買い物だろ? レイジさんは大学の期末試験で、林藤さんは本部に呼び出し。ああ、城戸司令じゃなくて鬼怒田さんね。防衛システムにそろそろ本格的に玉狛の技術を使いたいとかなんとか。千佳ちゃんと遊真はお見舞いに……」
「迅さん」
烏丸が眉を寄せた。渋ったい仕草にも関わらず、切れ長の目元は相も変わらず涼しげだった。男前は何をやっても男前だな、とやっかみ半分、感嘆半分で考えていると、黒い瞳が見返してきた。
「俺、知ってるんですよ」
「ん? 皆の行き先、もう知ってた?」
「そうじゃなくって」
烏丸はため息をついてイスに腰掛けた。テーブルの向こうから物言いたげな視線が伸びてきて、迅の肩身をきゅっきゅと狭めた。
「……どうぞ。できたら優しい言葉で」
「最近、全然寝てないでしょう」
柔らかい口調だったが、声のトーンはひどく深刻だった。烏丸は元来茶化すような話し方をしないが、本物の真摯さをのせた言葉は、常のものとは違う響きを帯びる。迅は一瞬動きを止めた後、オーバーアクション気味に指を振った。
「ちっちっ、甘いなとりまるくん。実力派エリートに睡眠は必要な―― 」
「迅さん」
烏丸がまったく表情を和らげないので、迅はとうとう頭を掻いた。
「俺、そんなに疲れた顔してるかな」
「顔とかそんなんじゃないです」
烏丸は珍しく拗ねたように言った。
「とにかく、もう一度部屋に戻って寝てください。支部のことは俺がやっておくので」
「そうだなあ、うーん……」
「おれもやるぞ! 雷神丸も!」
今まで黙っていた陽太郎がテーブルの側でぴょんぴょん飛び跳ねる。烏丸は目元を緩ませ、その頭に手を置いた。
「支部のことは“俺たち”がやっておきます。お休みの間はご心配なく」
「まかせろ! さらあらいか!?」
腕まくりする陽太郎。迅はふう、と息をついた。
「そっか。じゃあ、お言葉に甘えるとする。悪いな、ふたりとも」
部屋に戻ってベッドに入るも、やはり眠れなかった。身体は疲れている。だが、眠ってしまえばまた夢を見そうで、天井のシミを眺めながら、迅はぼうっと浅く記憶をたぐった。
近いものははっきりと、遠くなればなるほど曖昧に崩れていく。だが決して消えてはくれない。砕けた記憶の欠片は、勝手に別のピースと結びついて、新しい絵をつくるのだ。己を苛むための風景を。
―― 真っ白な病室で、彼は今も眠り続けている。
目を閉じて、深く息を吐いた。ゆっくりと吸って、吐く。繰り返すうち、まぶたの裏に闇がにじみ出てきた。波立つことのない、黒い鏡面である。見つめていると、うつしとったように心が凪いでいった。
つやのない滑らかさ、前にどこかで見た気がする。でも、思い出せない。
全身の感覚が、低くゆっくりと沈んでいく。
忘れたくないことばかり忘れてしまう。
そんなことを思った時には、もうほとんど眠りに落ちていた。
◇◇◇
長い石段を一つずつ上がって、迅は真っ赤につやめく鳥居をくぐった。今年塗り替えられたばかりのそれは、からりと晴れた冬空に背筋の伸びるような鮮烈な対比を残している。
視界に紛れ込んだ人影に、迅は「あ」と声を漏らした。無視するか立ち去るか迷っている間に、男は迅のすぐ側まで来て、口元だけで笑った。
「よう、久しぶり」
旧知の友人に対するかごとくの気安さである。前回も前々回も、出会ったのは真夜中だった。陽のもとで見ると、野暮ったい癖毛もベージュのトレンチコートも目に新しく、「コイツ、こんな感じだったっけな」と迅は内心首をかしげた。
以前、太刀川と名乗った男は、顎に手を当て、彼を見下ろしていた。
「やっぱりな。なんとなくここにいそうだと思った」
「あんたさ、俺の居場所を感知するサイドエフェクトでも持ってんの?」
「サイドエフェクト?」
「いや、失言。忘れてくれ」
太刀川はふうん、と言って、それ以上は聞き返してこなかった。
トリオンの干渉によって生じる超感覚、という説明にどれだけの意味があるだろう。世の人間には、今のところトリオンどころか近界の存在すら知らされていない。
「元気にやってるか?」
「ふつう」
「小学生みたいな返事だな」
「はいはい、元気だよ」
ポケットに手を突っ込んだまま、迅は投げやりに答えた。
副作用。この名を選んだ人物はセンスがいい。
実のところ、己の鬱陶しいサイド・エフェクトはこの未来を予知できていなかった。いつもは何でもかんでも見たくないものまで見せてくる癖に、こういう時にかぎって役に立たない。ポンコツ。テレビのチャンネルを変えるように、見たいものを好きなように選べたらどんなに良いだろう。彼は日頃からそう思っていた。
「あんた、高校は? サボリ?」
「今日は祝日だろ」
太刀川が怪訝そうな顔をしたので、迅は「そうだっけ」と肩を竦めた。
「あんまり行ってないからさ。学校」
もうずいぶんとカレンダーを見ていなかった。見る必要がなかったからだ。中学生ということになってはいるが、実のところその肩書きとは縁遠い生活を送っている。昼夜問わず呼びだされ、敵の侵入に対処する日々。発足して以来、秘密裏に活動してきたボーダーは慢性的な戦力不足だった。とてもじゃないが、学校に通う暇などない。
あちらの世界に接すれば接するほど、日常から遠く隔たっていく気がする。いつか戻れなくなる日がくるんじゃないか、時折ふとそんなことも思った。
迅は目を伏せた。それも悪くないかもしれない。自分のような人間にとっては。
太刀川がころりと話題を変えた。
「この神社、良く来るのか」
「全然。まったく」
「へえ、そのわりには詳しいな。お前がさっき通ってきた裏道、俺も最近知ったばかりなんだが」
遠回しにちくちくやられて、迅は太刀川を軽く睨んだ。
「はじめてじゃないからな。子どもの時に良く来てたんだ」
言い返してから、やられた、と思った。さっさと切り上げて帰るつもりだったのに。この太刀川という男は、泥沼のように他人を足からずぶずぶ引きずり込む。
「じゃ。そういうことで」
これ以上ペースを狂わされてはたまらない、と足早に立ち去ろうとした。
「待った」
太刀川は、どすん、と荷物を降ろし、彼を手招きした。
「俺、急いでるから」
「まあまあ。見てろ」
見ていろと言われて見ている馬鹿はいないが、荷物の中身を見てしまって、迅は思わず足を止めた。
「なんなんだよ、それ」
「七輪」
「いや、それは見ればわかるけど」
取り出されたのは、網の上で魚などを焼くあの七輪だった。太刀川は境内の縁石に腰掛け、カバンから新聞紙と割り箸、それから炭の入った袋を引っ張りだした。ひとつひとつが密着しないよう、手際良く七輪の内側に並べていく。慣れた手つきで火をつけ、しばらく待つ。ちりちりと炎のまわる音が聞こえてきたところで、太刀川はうちわで盛大にあおぎはじめた。
「あのさあ。ここどこだか分かってる?」
「神社」
「明らかにアウトだと思うんだけど」
神社の境内で無許可に火をおこすとは怖いもの知らずにも程がある。例え神様が許してくれたとしても、消防署は見逃してくれまい。
「この時間、人は滅多に来ない。お前も知ってるだろ」
「そういう問題じゃなくて」
「家でやると、煙が何だニオイが何だとうるさく言われる」
太刀川は口笛を吹きつつ、火起こしの作業をつづけた。立ち去るタイミングを見失い突っ立っていると、突然うちわを押し付けられた。
「交代。手がだるくなってきた」
「やだよ」
「頼む」
迅はしぶしぶ腰を下ろした。言われた通りにバタバタと七輪をあおいでみる。火が強まってきても、煙はそれほど上がらなかった。
「へえ。意外と出ないもんなんだ」
「良い炭を使えばな」
二人で交代しつつ、長い時間をかけて炭に火をつけた。頃合いを見計らって、太刀川がタッパーを取り出した。
「いくつ食う?」
「要らない」
そう答えたにも関わらず、太刀川は網の上いっぱいに餅を乗せた。
数分経つと、ぱりぱりと香ばしい匂いが漂ってきた。食欲はやはり湧いてこない。換装を解くと、身体が極端にだるくなる。だるいから食べられないのか、食べられないからだるいのか。
―― 生身はごまかせない、偽の身体に頼り過ぎるな。
昔言われた言葉が思い浮かんで、迅はぎゅっと目を閉じた。ああ、見たくない。何も思い出したくない。
「良くないと思うぞ。そういうの」
顔を上げると、太刀川と目があった。いつの間にか餅を取り上げ、さも美味そうにかじりついている。彼は口の中のものを飲み込むと、迅に向かって箸を突きつけた。
お節介な説教を予想して、迅は半ば身構えた。
「目の前に餅があるのに食わないなんて、餅への冒涜だ」
なんだそりゃ。思わず脱力した。
「つくづく訳分かんないな、あんた。わざわざ勧めてくれたところ悪いけど、腹減ってなくてさ」
「やれやれ、手のかかる奴だな」
太刀川は肩を竦めると、カバンをあさり、今度は何かの袋を取り出した。
「非常食だ。やるよ」
放り渡されたのは、見知ったパッケージだった。迅の心臓が悲鳴を上げた。
―― あんたも、そうなのかよ。
「何か言ったか」
「……いや、なんで俺の好物知ってんのかなって」
「へえ、好物なのか。俺は今、お前のことを見直した」
「言っとくけどぼんち揚げは、餅じゃねえから」
パッケージを眺める振りで俯いたまま、辛うじてそう返事した。それっきり会話が途絶えた。二人を除き無人の境内には、炭のはぜる、パチパチという音だけが響いている。
びゅうと一陣、北風が吹いた。強い風にあおられて、七輪の炭が赤く輝く。途端、寒さが背中を這い上がってきて、迅は火の近くに身体を寄せた。
「上着、持って来れば良かったかな」
「近づきすぎるなよ。ジャージが溶けるぞ」
太刀川はそう言った後、迅の顔をじっとのぞきこんだ。眠たげな黒い目に見つめられ、不思議と肩の力が抜けた。
「なあ、餅、やっぱりひとつもらっていい?」
「もうダメだ。腹が空いてきたから俺が全部食べる」
「あんたさあ」
苦笑しながら、両手を七輪にかざした。焼けた炭の火が、かっかと手のひらに熱を与える。
「寒いな」
「そうだね」
もう少し暖まって帰ろう、と迅は縁石に座り直した。