病室は白く、静まり返っている。
 迅は少し安堵した。ここには毎日、多くの人間が訪れる。建前も打算もなく、ただ部屋の主の目覚めだけを祈って。明るく輝く恒星のように、彼は常に人の中心にいる。知らないのは本人ばかりだ。
 パイプイスに腰を下ろし、迅は後輩の顔をのぞきこんだ。ベッドの上、三雲修は青白く、死んだように眠っていた。
「調子はどう? メガネくん」
 トレードマークはたたまれて、棚の上に載せられている。
「今日は風が強いんだ。千佳ちゃんが飛ばされそうになってたよ。宇佐美が慌てて捕まえたけど」
 返事はもちろんない。迅は構わず呼びかけた。
「ああ、そうそう。レイジさんの論文が学術雑誌に載ったらしい。本人は『暇に飽かした』って謙遜してるけど、時間があっても普通は無理だよな。さすが思考する筋肉」
 迅は苦笑し、少し真面目な顔をした。
「アフトクラトルが撤退してから、ゲートの発生が減ってるんだ。林藤支部長が言ってたよ。ボーダーうちが意外な実力を見せたもんで、近界側が慎重になり始めてるって。三雲隊員、君のお手柄だ。さすが俺の後輩」
 実力派エリートは後輩まで素晴らしい、と鼻高々にいった後、迅は目を伏せた。
「ごめんな」
 こうなることは分かっていた。分かっていて止めなかった。彼の勇気を利用して、彼の未来を犠牲にした。皆のための生け贄にしたのだ。
 三雲のまぶたは閉じられたまま、何の意志も伝えてはこなかった。許すとも許さないとも、恨むとも恨まないとも。彼は眠っている時まで優しい。
 そんなんだから、俺みたいな奴に付け込まれるんだよ。
「ごめんな」
 清潔な病室は、世界から切り離されたように白く静かだった。迅はイスから立ち上がった。
 部屋を出たところで、女性とすれ違った。病室から出てきた迅を見て、彼女は目を瞬かせた。その目元が誰に似ているか気付いて、彼は喉がつまったようになった。
「あなた……」
「申し訳、ありません」
 もうそれ以上視線を合わせていられなくなって、卑怯者だと罵りながら、迅はその場を後にした。
 
 


夜明けの賛歌

04:才能ってやつだろ


 
 
 喉の奥から悲鳴がもれた。
 ベッドから起きて寝汗をぬぐう。寝間着代わりのTシャツは、冬だというのにじっとり湿っていた。
 夢を見る。
 毎夜たくさんの人が現れる。死んだ人もいればまだ生きている人もいる。白い世界の中、誰もが無念の表情を浮かべ、彼を責め立てた。
 見ていた癖に。知っていた癖に。分かっていた癖に。
 彼には判断がつかない。その光景が、いつかやってくる未来の現実なのか、すでに通りすぎた過去の記憶なのか。夢と現実が入り混じり、空想と予知が混ざり合う。
 這いずるように、キッチンに向かった。コップの水を一杯あけると、ズキズキうずいていたこめかみがほんの少し楽になった。
「やっぱり、止めとけば良かったな」
 調子に乗って換装を解いたのがいけなかった。生身に戻った瞬間、溜まっていた疲れがどっと襲ってきて、そのまま眠り込んでしまった。
 己の油断と迂闊を呪いたくなる。眠りたくなかったから、ずっと解かずにいたのに。
 蛍光灯のスイッチを入れると、白っぽい光が視界に満ちた。目の奥がチカチカする。明るさに慣れた頃、彼はがらんとしたワンルームの中心に立っていた。
 倒れこむようにして、ベッドの縁に背をあずける。フローリングにはカーペット一枚敷いておらず。三角座りの尻に、床の冷たさが直接伝わってきた。部屋の内にあるのは、ベッドとローテーブル、冷蔵庫、そのくらいで、とても人の住んでいる場所には見えない。本部常駐の指示を蹴り、強引にはじめた一人暮らしだったが、昼も夜もなく呼びだされ、ろくに帰れていなかった。
 薄汚れた天井を見上げながら、昼間のことを思い起こした。
 
『結局、どちらかね』
『繰り返しになりますが、確定未来を予知することは不可能です。不確定性原理によれば、確定した未来という概念がそもそも存在しえない』
『いや、私はそうは思いませんね。不確定性原理は量子力学の範疇だ。近界の物質であるトリオンが、こちらの世界の粒子とまったく同じ振る舞いをするとでも?』
 壁の向こうからくぐもった声が聞こえる。迅は足を止めて、白い壁に耳をつけた。
『同じ振る舞いをしないとも、証明できてはいませんが』
『実際の結果をお忘れですかね。迅悠一の予知的中率についてはほぼ100%に近い数字が出ている』
『100%に近い―― しかし完全に100%ではないでしょう。彼の予知が最も確からしい未来の事象を採取している場合、高確率で予知通りの未来になるのは当然のこと』
 議論する二人の声に、冷静な声がわって入った。
『その話はもういいだろう。迅悠一の見るビジョンが、確定未来か不確定未来かの判断はこの際必要ない。最も大切なのは、どうすれば“不都合な未来”を回避できるか、ということだ』
 ざわめいていた室内が静まり返る。しばらくして、さきほどの一人が発言した。
『迅悠一はまだ十四歳です。トリオン器官は成長期にあり、サイドエフェクトも完全には開花していません。彼は唯一の予知能力発現者ですが、アクセスする未来をほとんどコントロールできていないのです。具体的に言うと、現在の彼は接触した他者について、その者が強い思念波、つまりは感情のエネルギーのことですが、それを発する瞬間を補足し、無差別にアクセスしている状態です。彼の予知はかなり限定されたもので……』
『過程は要らない。結論を述べたまえ』
『お言葉ですが、城戸主任』
 しわがれた声が後を引き継いだ。
『未来の変更は針の穴を通すごとくにデリケ-トなもの。とある選択がどのビジョンどの未来に繋がっているか、そのルートを緻密に追跡できてこそ可能なことなのです。彼の覗く未来が干渉可能なものだと仮定しても、ルートの分岐マップ全体を把握できるほどの力がなければ、望み通りの未来に導くことは難しい』
『つまり?』
『現状ではなんとも。彼がそれほどの選択性を獲得できるかどうかはまさに神のみぞ知る。どうしても知りたければ、“予知”が必要ですな』
 はっはっ、と笑う老学者に一同はどよめいた。
『ここまできて、結局何も分からないだと?』
『いや、迅自身には不可能でも、散見したビジョンをこちらで採取して構築すれば人工的な分岐マップを作成できるかもしれない』
『人工的な分岐マップ? 分岐条件が分からなければ使い物にならないだろう』
『役に立たないな。だいたい最上が死んだのも……』
 それ以上は聞いていられなくなって、迅はその場を立ち去った。
 
 部屋の片隅で膝を抱える。
 彼の持つサイドエフェクトが判明した時、誰もが言った。未来が見えるならなんだってできるじゃないか、と。望まない未来を排除し、望みのまま未来を手にできる、まさしく神のごとき力だと。
 どれもこれも外野の勝手な言い分だった。昼間の議論の内容を、当事者である迅は身を持って理解していた。
『強い思念波、つまりは感情のエネルギーことですが』
 相手が強い感情エネルギーを発する、その未来の瞬間を垣間見る。科学者たちは、彼の能力をそう説明した。
 だが、彼らは分かっていない。人間が持ちうる感情の中で、最も強いものが何かであるかを。
 見えるのは―― 見えてしまうのは、耐えがたい苦痛の瞬間ばかりだった。死ぬ、喪う、殺す、殺される。どうにもならない、取り返しのつかない、救いようのない未来ばかりが現れる。見たいものは見えず、見たくないものばかり見てしまう。
 100%。必ず当たる。大人たちは三流の占いのような触れ込みで喧伝する。彼らはその本当の意味を分かっているのだろうか。
 ぐちゃぐちゃに絡み合ったあみだくじの、先端だけが見えているようなものだった。望んだゴールに終着することなどありえない。いつ、どこで、何をすれば正しい道に分岐するのか。選択肢は海の砂粒ほどある。押し付けられたくじの束が重くて重くてたまらない。人の死に涙できるのは、恵まれた人たちの特権だ。
 爪が食い込むほど、拳を握りこんだ。
 神のごとき力? すべてが思いどおりになるなら、俺はこんなに惨めじゃない。
 頭を抱え込んだ時、玄関からチャイムの音がした。身体がびくりと跳ねる。
 すでに時刻は零時をまわっている。身を低くして玄関の方を伺っていると、再びチャイムが鳴った。ピンポーンと間の抜けた音が、ワンルームに響く。やはり聞き間違いではない。
 迅は気配を消して玄関に向かった。
 本部からの連絡なら、まずは通信端末に入る。一般人にトリガーを使うのは避けたいが。
 右手でポケットの中のトリガーを握り込み、ドアスコープを覗いた。
「……は?」
 ドアの向こうの人影に、彼はは口をぽかんと開けた。
「寒い、早く入れろ」
「あんた、ちょ、なんでこんなところに」
「いいから入れろ。玄関の前に凍死体をこさえるぞ」
 放っておくとドアを蹴破って入ってきそうだったので、迅はとりあえず鍵を開けた。太刀川はアパートの廊下に立ち、白い息を立ち上らせていた。
「お邪魔します」
 脅迫じみたドアノックが嘘のように、彼は礼儀正しく頭を下げた。あっという間に靴を脱ぎ、玄関に上がり込む。
「おい、勝手に入んな。何時だと思ってんだよ」
「気にするな。どうせ一人暮らしだろ」
 荷物を下ろした太刀川は、リビングにあぐらをかいた。部屋を見回して、エアコンのリモコンを見つけると、勝手に温度をガンガン上げた。
「あー、さむ。ストーブないのか、ストーブ」
「不法侵入者の癖に図々しいな。何で俺の家知ってんの? ストーカー?」
「親切な隣人に対して、その言い草はひどいぞ」
 エアコンの前に陣取った太刀川は、「ほら、落し物」とポケットから赤い袋を取り出した。手のひらに包んでしまえるほどの小さな御守り。見覚えのある色形に驚いて、引ったくるように受け取った。
「これが俺の住所とどう関係あるわけ?」
「やっぱりお前のか。お前が帰ったあと、神社に落ちてたんだ」
 太刀川は御守りを指差した。
「ここにあの神社の紋がついてるだろ。神主に聞いたら、だいぶ昔にこの辺の氏子にだけ配ったものだってな。前の橋と公園の位置を考えあわせれば、だいたいのアタリはついてくる。後はそこらにいるジジババに聞けば一発だった。『顔色と素行の悪いクソガキを知りませんか』」
 何でもないことのように太刀川は説明した。ストーカー紛いの追跡も、ここまで来ると呆れが勝ってしまう。
「なんだよ、それ。むちゃくちゃだ」
「才能ってやつだろ」
「将来、探偵にでもなれば?」
「仕事にしたらつまらない」
「あっそ」
 答えつつ、目の前の男に見えないように、迅は手のうちでそっとそれをひっくり返した。裏側にあったのは『迅悠一』の刺繍。亡き母の手によるものだった。
 散々迷ったあげく、迅は床に視線を落とした。
「これのためにわざわざ?」
「んー」
「……悪かったな」
「別に。面白そうだったから」
 太刀川はてらいなく笑って、そう答えた。
 並んでベッドにもたれながら、迅はふと口を開いた。
「そういえば、今日は行かないのか。彼女の家」
 公園で会った時、深夜に徘徊する理由について確かそんなことを言っていた気がする。ところが、太刀川はきょとんとした顔で首を捻った。
「彼女?」
「前回も前々回も朝帰りだったんだろ」
「ああ、それか。なるほど」
 彼はぽんと手を打った。
「あいつは彼女じゃない」
「違うのかよ」
「隣のクラスの奴なんだが、どうしてもって言うから」
「あー、はいはい。そうかよ。訊かなきゃ良かった」
 馬鹿らしくなって、迅は頭を振った。これが噂に聞く男子高校生の日常か。少し違う気もするが。
 天井を見上げていた太刀川が、思いついたように言った。
「腹減ったな。冷蔵庫見ていいか」
 家主の許可も待たずに、彼は立ち上がって勝手に冷蔵庫を開けた。
「しけてるな。何も入ってない」
「ほんとに図々しいな、アンタ」
「餅のひとつくらい入れとけよ。餅に対する冒涜か?」
「俺は留守が多いんだよ」
 ここのキッチンは水を飲む以外に、ほとんど使ったことがない。基本的に外で食べる。最近はそれさえも億劫になっているけれども。
「分かった。じゃあ、とりあえずじゃんけんだ」
 状況が飲み込めないうちに「最初はグー」と言い出したので、迅は咄嗟にパーを出した。多くの人間はグーの次にチョキを出す。それを知っている人間は裏をかいてグーを出す。ならばその裏をかいてパーを出せば良い。 裏の裏をかけ、だがそれ以上は疑うな。本質が分からなくなる。昔、そう教えられた。デカルトが聞いたら笑うかもしれない。
「急にじゃんけんって何――
「言い忘れてたが、勝った方が食べ物を買いに行くルールだ」
 太刀川はグーの形に丸めた、自分の拳を見下ろした。
「絶ッ対行かない」
 肩を竦めた太刀川は、フローリングに放り出してあったベージュのコートに腕を通した。
「仕方ないから何か食うもの買ってきてやる。逃げるなよ」
「逃げるも何も、ここ俺んちだから」
 よっこらせ、ととても高校生には思えない掛け声で立ち上がる太刀川。靴を履くその背中に迅は声をかけた。
「餅以外で」
「保証しかねる」
 
 
◇◇◇
 
 
 湯気を立てて、ぐつぐつと鍋が煮えている。
「なんで鍋セットなんて買ってきたんだよ。二人なのに」
「冬だから」
 まったく答えになっていない。
 バラエティに富む具材には目もくれず、太刀川は餅ばかり選って食べている。
 ローテーブルの上に、どんと据えられた土鍋。二十四時間営業に飽きたらず、最近のスーパーはこんなものまで売っているのか。
「いいだろ、お前の好物も買ってきてやったんだから」
 太刀川はダシを啜りながら、オレンジのパッケージを指差した。
 相変わらず食欲は乏しい。だが家に上げたあげく、晩飯まで好きなようにされるのは癪に障る。
 迅は箸を掴み、鍋の中の糸こんをつまみ上げた。ふうふうと息をふきかけると、白い湯気が立ち上る。蕎麦を食うように啜り込んだ。インスタントだしの風味と、湯気の向こうに見える男の顔に、ふと記憶が蘇った。
『旨いだろ』
『うん』
 声も顔も齢も全然違う。なのに、どうしてこんな気持ちになる。
 餅をくわえたまま、太刀川がテレビのチャンネルを変えた。引越してきて以来、今日はじめて電源を入れた小型のテレビ。リモコンのボタンを押すたびに、バラエティ芸人が叫び、俳優が笑い、アーティストが歌う。気圧図とニュースキャスターが現れたところで、太刀川はリモコンから指を離した。
「明日も寒いのか。餅がはかどるな」
「はかどらせるな」
 そんなことを話しながら、ぼんやり画面を眺める。鍋を平らげたのとほぼ同じくらいに、天気予報も終わったので、太刀川はチャンネルを変えた。
「へえ。ビルの上にUFO現る」
 太刀川は頬杖をついたまま、ローカルニュースのテロップを読み上げた。迅はぼんち揚げの袋を開けて、ぼりぼりかじった。
 どこかの交差点で、スタッフが街頭インタビューを行っている。
『なんかね、黒いものがぶわっと空をよぎって……』
 テレビの中を大勢の人が通り過ぎていく。学生、カップル、サラリーマン。遠目からカメラを伺う顔に、見知ったものはひとつもない。 カフェの店員、近所の年寄り、クラスメイト。二言三言、言葉を交わしただけで知り合いになってしまう、この世界の狭さに絶望しているのは己だけだろうか。
 ぱっとスタジオにカメラが戻った。
 生ぬるいニュースをいくつか伝えた後、キャスターは静かに頭を下げた。珍しく、人死にの話題はなかった。
 テレビショッピングがはじまったところで、太刀川は身体を起こした。
「さて、そろそろ寝るか」
 あくびをしつつ、家の主のように提案する。
「人の家で寛ぐな。帰れ」
「寒いからいやだ」
 梃子でも動きそうにない。これまでの経験から、迅は追い返すのを諦めた。
「風呂入ってないんだったら、下で寝ろよな。ベッドは貸さない」
「分かってるって」
 ローテーブルの上は散らかり放題だったが、面倒くさくなった迅は見て見ぬふりをすることにした。
 わずかばかりの情けで毛布を投げてやると、太刀川は嬉しそうに口笛を吹いた。長身が床の上に寝転がったのを確認して、電気を消す。エアコンはつけっぱなしにしておいた。
 ベッドに入ると、シーツがほんの少し湿っていた。良く考えれば、この男が来る前まで眠っていたのだ。
 真っ暗な部屋の中、二人分の呼吸が聞こえる。静かでかすかな生き物の音。太刀川が浅く息を吸った。
「迅」
 呼ばれた名に、迅は息を止めた。ちらり、とベッドから顔を出して床を見下すと、闇の中ぼんやりと人の形が浮かびあがってくる。朧気な輪郭の中、瞳だけがはっきりと見えた。
 太刀川は天井を見上げたまま言った。
「寒いな」
 黒い瞳は夜の海のように凪いでいた。揺らがず、波立たず、静まり返っている。感情もぬくもりも何もない。
「そうだね。でもこういうのもいいんじゃない」
 下を見るのをやめ、頭を枕に戻した。二人揃って天井を見上げる。
「そういえば、あんたのことはまだ一度も見えないな」
「“見えない”? 何が?」
「内緒。どうせ餅でも食ってんだろうけど」
 未来など見なくても分かる。この男はいつだって変わらない。
 彼の瞳は揺らがない。彼の心は変わらない。だから見えにくいのかもしれない、そう考えて苦笑した。
「寒いなあ」
 届いたのか、届いてないのか。もう返事はなかった。
 迅は目を閉じた。
 さっき見た、揺らがない瞳をまぶたの裏に思い浮かべる。身体がゆっくりとまどろみに沈んでいく。
『楽しいか?』
『……うん』
 黒い海は川となり、白い世界を静かに押し流していった。
 夜明けはまだ遠い。

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