遠く耳鳴りがする。
ぴんと張られたピアノ線のような、鋭くて細い音だ。
ああ、来てしまった。
あともう少しすれば、びりびりと頭の隅がしびれて、空気が軋むような、耐え難い音が聞こえてくる。そして白いヴェールの向こうから見たくもない未来が姿を現すのだ。
目を閉じて、耳を塞いだ。見たくない。聞きたくない。
未来が少しずつ近づいてくる。祈るような気持ちで、黒い水面を思い浮かべた。冷たくて、寒い夜の川。
まぶたの向こうの光が、すっと陰った。鼓膜を苛んでいた音も、潮がひくように消えていく。
あたりは再び闇に包まれ、それきり世界は沈黙した。
05:へえ、かっこいい名前だね
寂れたファミレスの片隅で、迅はズズズとメロンソーダを啜っていた。黄ばんだ蛍光灯の下、ぱっとしない店員が一人で店内を駆け回っている。
昔はもうちょっとマシだったのにな、と頬杖をつき、手垢のついたメニューに視線をやった。もう廃止されてしまったが、ここの塩っ辛いチャーハンが大好きだった。母親は決まってクリームスパゲティを頼み、デザートに二人で一つのプリンパフェを食べる。ずいぶんと昔の話だ。「すいませーん」、声をかけると、ウェイトレスがバタバタと走り寄ってきた。
「“餅入りちゃんこのミックス定食”ひとつ」
「A定食ですね」
せっかく伝えた正式名称をさっさと省略して、彼女はまたバタバタと厨房に消えていった。
外食に来てまで、こんなものを頼んでしまうとは。迅はため息をついた。
夜中に押しかけてきて以降、太刀川は気まぐれにたずねてくるようになった。三日続けて来たかと思えば、一週間近く顔を出さないこともある。こっちの都合などそっちのけで朝に来たり、昼に来たり、夕方に来たり。迷惑極まりないことに夜中に来るときも多く、そういう時はあの男の言うところの“彼女じゃない女”から叩きだされたのだろう、と予想していた。おそらく当たっている。
太刀川は迅の帰宅を見計らったように来る。留守の多い中、ぴったりと時間を合わせてくるのは少々気味の悪いところではあったが、本人が言わないだけで、もしかすると留守の間も頻繁に来ているのかもしれなかった。
大抵はテレビを見て、何かを食べて、どうでも良いことを話して終わり。夜に来るとだいたいそのまま泊まって帰る。太刀川は床に寝て、彼はベッドに寝る。ちなみに今、迅のアパートのフローリングにはカーペットが敷かれている。冷たい床で寝る太刀川を見兼ねた迅が―― というわけではもちろんなく、太刀川の方がどこからか自主的に持ってきて敷いただけである。
「そろそろ宿泊料をとってもいいな」
メロンソーダに浮かんだ白いフロートをつつきながら、迅はあくびをした。寝過ぎると逆に眠たい。
最近、彼の身にひとつの不思議な変化が起こっていた。
未来があまり見えなくなったのだ。驚いたことに。
そう報告すると案の定、ボーダーの研究室は上へ下への大騒ぎになり、山ほど検査を受けさせられた。結果はもちろんオールグリーンで、もっと言えばトリオン器官も生身の身体も以前よりもはるかに良好な数値を叩き出しさえしていた。現在、関係学者たちは侃々諤々の議論を繰り広げているが、彼に言わせれば何のことはない、良く寝て良く食べるようになったというだけである。
見えなくなった、というと語弊があるかもしれない。ノイズを拾わなくなった、と表現した方が正しい。見たくないと思えば、見ずに済む。 クラスメイトが忘れ物をする、カフェの店員が風邪をひく、その程度のことがふと目の前に浮かぶだけで、身を裂かれるようなビジョンはもう長いこと現れていなかった。メカニズムは不明だが、暴走状態だったサイド・エフェクトが自我のコントロールを受け付けはじめた―― 研究員の一人はそう説明した。
迅はイスにもたれて、目を閉じた。昼下がりの平穏が身体を包み込む。
誰も不幸にならない、そんな未来だけが見えるのならば――
「お待たせしました。A定食です」
「どうも」
ウェイトレスがテーブルに鍋を置く。箸を手に取った時、入り口の鐘がカランカランと鳴った。
入ってきた客は二人組の男だった。その片方にどうにも見覚えがある。迅はしらたきを咀嚼しながら、内心「げ」と呻いた。閑散とした店内に、視線を避けるための障害物はない。
「おう、奇遇だな」
案の定、太刀川は迅に気付いて、嬉しそうに声を上げた。嬉しそう、といっても表情はほとんど変わらない。なんとなくそんな感じがするだけだ。
「ここまで来ると、なんかもうどうでも良くなってくる」
「言っておくが、今回は偶然だからな」
「これまでは偶然じゃなかったのかよ」
鍋をつつきながら返すと、横で笑い声が聞こえた。
「仲良いんだな」
メガネをかけた若い男が楽しそうに笑っている。年の頃は二十代半ば、背はそこそこ高い。男は気安い口調で太刀川に話しかけた。
「慶、高校の友だちかい?」
「んー、まあそんなところ」
迅は首をかしげた。知らない顔だが、灰がかった茶色の髪には見覚えがある。
「もしかして……」
「はじめまして、こいつのイトコです。慶がいつもお世話になってます」
彼はレンズの奥で柔和に微笑んだ。迅にはそれだけではっきりと分かった。この男は“良い人”だ。他人を害する者がもつ、あの特有のオーラがない。
「いえ、こちらこそお世話になってます」
「礼儀正しいね。えっと、君の名前は」
「迅です」
「ジン?かっこいい名前だね」
太刀川の従兄弟は、どこかで聞いたような反応を返した。表情と口調はまったく違うけれども。迅が返事をする前に、太刀川が口を挟んだ。
「名字だけどな。下の名前は悠一」
「ユウイチくんか。慶と……」
ピリリリ、メールの着信音が聞こえた。メガネの彼はポケットに手を突っ込み、携帯の画面を確認した。
「あー、しまったな」
「ショウタか?」
「うん。今、終わったみたいだ」
太刀川の従兄弟は、ふむと考えてから迅に向き直った。
「ユウイチくん、こいつのこと頼んでもいいかな。弟が迎えに来てくれって言っててね」
「あ、ええと」
「はい、これお小遣い。食べ盛りだろ?」
財布から千円札を数枚取り出し、机の上に置く。
「悪いね、ふたりとも。俺はこれで失礼するよ」
彼はドアを開けて、秋風のように出て行った。後姿を見送って、太刀川は向かいの席に腰を下ろした。
「そっくりだろ」
「あんたとあの人が? まさか」
「やっぱりそうか」
太刀川は目を細め、はにかむように笑った。
空気の軋む音がする。
白いヴェールの向こう側に人影が見えた。地面が濡れたように光っている。
心がびりびりと警告を発する。
それ以上、見てはいけない。覗いてはいけない。
目を閉じるより先に、視界が開けた。その光景は悪魔のような力を持って、見る者の視線を惹きつけた。
高い鉄塔の足元に、男がひとり横たわっていた。ろうのように白くなった横顔。まぶたは閉じられて、まるで眠っているようだった。
そのすぐ側で、呆然と立ちすくむ長身の影があった。アスファルトの血だまりに立ち、粉々になったレンズと、歪んだフレームを見下ろしている。迅に気づき、男がゆっくりと視線を上げた。
太刀川の瞳はぞっとするほど無機質だった。
ぱっと意識を取り戻した。昼下がりの窓際でうつらうつらとしていた、その姿勢のままだった。
心臓が狂ったように走っている。息ができない。
―― 油断した。
先ほど目にした光景が、まぶたに蘇る。
倒れる男、立ち尽くす太刀川。流れ出る血。こめかみが、吐き気を催すほど強く痛んだ。死んでいたのは確かに太刀川の従兄弟だった。
「違う……違う……」
ぎゅっと目を閉じ、神経を集中させると、目玉の底を火箸でかき混ぜられているような、酷い頭痛がした。
頼む、違う未来を見せてくれ。
迅は血を吐くように祈り、“力”を込めた。しかし、どれだけ時間が経とうとも、彼のサイド・エフェクトは沈黙したままだった。
「なんでだよ」
奥歯を噛みしめる。
未来に干渉するには「選択性」を獲得しなければならない。ルートの分岐点を知り、並列する未来を知ってはじめて、正しい未来を選べる。確かにそう聞いた。
なのにどうだ。自分に見えるのは、虫食いだらけの一本道だ。
見たいものだけを、見られるようになった?
見たくないものを、見なくて済むようになった?
己の甘さに絶望した。
このおぞましい力から逃れられるなどと、本当に思っていたのだろうか。親しい顔もそうでもない顔も、山ほど見殺しにしてきた癖に。
自分は安全な場所にいながら、人の苦しむ様子を眺め、勝手に泣いて同情する。全能気取りの傍観者だ。
スクリーンの上で登場人物たちが一喜一憂する。誰かを愛おしんだり、殺したりする。それをひとりで眺めている。観客はストーリーを書き換えられない。どんなに願っても、スクリーンの中には入れない。観客は登場人物たちの仲間にはなれない。あちらとこちらは、永遠に交わらない。それでも。
「……行かないと」
立ち尽くす太刀川と、側に倒れた彼の従兄弟。
垣間見た、あの無機質な瞳が頭から離れない。太刀川はあの未来の瞬間、心を揺らすのだろうか。
迅は太刀川を探して、昼の街を彷徨い歩いた。
街は想像よりもはるかに広く、はるかにたくさんの人を息づかせていた。
太刀川はいつだって簡単に自分を見つける。だから、その気になれば簡単に見つかるものだと、そう思っていたのに。
「俺、何にも知らなかったんだなあ」
どこに住んでいるか。どの学校に通っているか。知ってもらうばかりで、自分からは何も知ろうとせず、それでいいと思って過ごしてきた。その臆病さこそがお前の業なのだと、死者たちが囁きかけてくる。
どこをどう走ったのか、気が付けばいつぞやの公園にたどり着いていた。
太刀川はベンチに腰かけて、のんきに鳩に餌をやっていた。
「遅かったな」
彼ははじめから知っていたようにそう言った。
「俺の勘は良くあたるんだ。まあ座れ。今日は天気がいい」
「話があるんだ」
懐から菓子の袋を取り出そうとしていた彼は顔を上げた。そして母が子にするように、穏やかに問うた。
「どうした、迅」
「あの……」
ここに至ってようやく、迅は冷静さを取り戻した。
いったい何を言いに来たんだろう。
俺には未来が見えます。……だから?
あなたの大切な人の死にます。……それで?
“残念ながら、未来は変えられません”
そんなことを口にするのか。この男に対して。
「迅?」
柔らかさすら感じさせる口調で、太刀川は続きを促した。思い返せばこの男はいつだって穏やかだった。声を荒げたり、焦ったり、そういうこととは無縁で、余裕があって、自分とはまるで正反対の、そういう人間だ。
しかし今日の彼の静けさには、どこか近寄りがたいものがあった。
瞳の奥に薄氷がある。
「あ……」
迅は何も言えなくなってしまった。酸素の足りない鯉のように、パクパクと口を動かして、かと言って声なき声を届けることもできず、結局そのまま水中に姿を隠した。
「いや、たまたま通りがかっただけ」
「そうか。ならいい」
太刀川がパンの欠片を地面に投げる。鳩が群がってきた。
さまざまな思いが迅の胸内を駆けまわり、ぶつかりあった。吐いてしまいそうな息苦しさの中、彼はかろうじて一言絞り出した。
「前に会ったあのメガネの従兄弟、元気?」
「元気だぞ。それがどうかしたか」
「伝えてほしいんだ。高い塔の近くには行かないでって」
いっぱいいっぱいになりながらそれだけ口にすると、迅は「それじゃ」と返事を待たずに歩き出した。太刀川の顔は見られない。
公園を出て、曲がり角を曲がり、背中に感じていた視線がなくなると、迅はその場にうずくまった。
席を立つことが許されないのは、この己もまた物語の登場人物だからだろう。自分の運命の呪いながら、スクリーンを眺める観客。そういうキャラクターを演じさせられている。鑑賞しているのは誰だ?今度こそ本当の全能者か。それもまた哀れな“観客”なのか。あわせ鏡のような多重構造が姿を現す。裏の裏の裏の裏の……やはりあの人の言ったことは正しかった。かくのは裏の裏まででいい。終わりのない世界で、人間は生きていられない。