曇天の夕暮れだった。
三泊の任務が終わった後の、疲れ果てた家路で、迅はモノクロの一団と行きあった。
町外れの会場から、すすり泣きが聞こえてくる。
白い冬の空に、黒い喪服のコントラスト。鯨幕が北風の間を泳いでいる。絵画のように鮮烈なその景色を見るのは初めてではなかった。
近づいてくる静かなざわめきに、いつかの声が重なる。
『まさか亡くなってしまうなんて』
『ご子息が一人いると聞いたけれど』
『ほら、あそこにいるのが。ああでも、ショックで少し精神的に……』
『未来が見える、とか何とか。可哀想な子』
確かあれが一番最初の葬式だった。とても悲しくて、生まれてはじめて死んでしまいたいと思った。その次は真夏だったろうか。どんな人だったかは覚えている。でも名前と顔は思い出せなかった。身体は煙になって消えていくのに、記憶はぼやけたまま積み上がっていく。
成長するにつれ、非日常の儀式は、日常の一部となった。
葬列は続く。棺は往く。
見送りを欲するのは逝く者ではなく遺った者たちだ。あの人はかつてそう言い、然るべき時、自らの身を持ってその正しさを証明した。彼の墓標は物言わぬ小さな黒い塊となった。
今はまだ思い出せる。だが、すぐに流れていくだろう。過去は記憶の中にしかなく、恣意的で、作られた瞬間から風化がはじまる。そうでなくてはならない。遺された者たちのために。
あの日、迅は泣けなかった。
黒い車が現れて、音もなく棺を受け入れた。
その時、目が合った。合ってしまった。
太刀川がこちらを見ていた。黒いコートを纏い、黒い靴を履いて、見送るべき相手ではなく迅を見ていた。
夢で見た、あの瞳だった。
霊柩車のクラクションが、フォーン、と長く鳴いた。夜明けを告げる一番鶏は、死出の旅路の魔を払う。もんどり打って、声すらも上げられずにその場から逃げ出した。太刀川から本気で逃げたのは、はじめてだった。
06:見下ろすな、同情するな
がむしゃらに逃げて走って、駆け込んだ先はあの神社だった。
この期に及んで何を求めているのだろう。懺悔か、裁きか、それとも救いか。死後の安寧を仏に願い、生の赦しを神に請い、それに飽きれば彼らの不在を信仰する。一人で生きていける人間なんていない。
誰もいない境内に立ち尽くした。
「母さん。最上さん。俺、やっぱり駄目だった」
眼球はカラカラに乾いている。
夢の中ではあれほどなじるのに、いざこうなると何の返事もない。二人の人となりを知りながらそんな妄想を重ねていること自体が、鬱屈した精神性の現れのように思えたが、恨まれていないと言い切ってしまうこともまた、今の彼にはできなかった。
死人に口はない。迅は諦めて縁石に腰掛けた。
「もう会えないなあ」
必死で訴えれば未来は変わったかもしれない。でもやはりいつもと同じで変わらなかったかもしれない。迷った挙句、迅は誰よりも自分が一番傷付かない選択をした。未来は変わらない。分かっているなら、わざわざ悪役にならなくてもいい。嫌われたくない。責められたくない。
見えていたのに、何もしなかった。取り返しのつかない臆病だった。
深い諦観が腹の底から立ち上ってきた。
―― 人生には楽しいことがたくさんある。
あの人の言うことはいつだって正しかった。でもこの言葉の真偽だけはいまだわからない。
楽しい時間というものがあるとしても、きっとそれは他の誰かのものだ。自分にはその資格がない。力が身に宿った時から―― いや、生まれた時からそう決まっていたのだ。すべては誰かの手のひらの上。その誰かは無力さを嘲り笑っているのだろうか。それとも、卑怯さを冷ややかに見下ろしているのだろうか。
らしくないな、と迅は自嘲した。
知人の死は悲しい。でも耐えられないほどではない。元の生活に戻るだけだ。近界民と戦って、誰かを助けたり助けられなかったりする。後者の方がずっとずっと多いけれど。
彼は顔を上げた。日が落ちて、空は暗くなりはじめている。強い風が吹いていたが、寒さは少しも感じなかった。
帰るか。
そう思って縁石から立ち上がった時だった。突然耳鳴りが聞こえた。
夜から昼に移り変わるように、あたりの景色が白いヴェールに覆われる。迫りくる未来の予兆に、身体を固くした。この瞬間だけは何度経験しても慣れない。一度ホワイトアウトして、しばらくすると徐々にビジョンが現れてきた。朧の向こうに誰かがいる。その顔を覗き込んで、迅は息ができなくなった。
太刀川が立っている。喪服の、黒いコートを纏っている。
彼は何事かを喋っていたが、くぐもっていて良く聞こえなかった。二言三言、話し終えると太刀川は浅く息を吐き、小さく苦笑した。
―― お前は悪くない。
その声だけがはっきりと耳に届いた。
力が抜けたように、太刀川のまぶたがゆっくりと落ちていく。微笑んでいるような血の気のない顔に既視感を覚えて、迅は咄嗟に腕を伸ばした。しかし、指先が届く直前に、白い幻は霧散した。
「なんで……今の……」
その時、ぴりりり、と端末に通信が入った。
こんな時に。早鐘を打つ心臓を抑えながら、通話ボタンを押した。
「こちら迅です」
『迅、聞こえてるか。ゲート発生の予兆がある。至急対応を頼みたい』
「どうしても俺じゃないとダメですか」
身体が重く、ろれつが回らなかった。今はとにかく考える時間が欲しかった。ビジョンは消えたはずなのに、眼の前はぼんやりと霞んでいる。
『ダメだ。他メンバーは手が空いていない』
「分かりました。どこですか」
『西ブロック、A-4だ。すぐに向かってくれ。……ん? 何!?』
通信員が焦ったように言った。頭の隅で、何か予感めいたものがちらついた。知らない方がいい。そう思いながらも、迅は我慢できずに聞き返してしまった。
「何か異常でもあったんですか」
『すぐそばに民間人がいるそうだ!データを送る』
「民間人?」
送られてきたデータを見て、迅は唇を噛み締めた。
「……畜生」
端末の画面に映っていたのは、あの黒いコートだった。
◇◇◇
トリオン体に換装し、夜の街を駆けた。民家の屋根を伝い、ビルの屋上を飛び渡る。焦燥が全身を駆け巡っていた。浮かんでくるのは、さっき見た太刀川の顔だ。白い頬と血の気のない唇が穏やかに微笑んでいる。
―― お前のせいじゃない。
「なんでそんなこと言うんだよ!」
母さんも、最上さんも。みんな、みんな。
目標の場所にたどり着き、迅は地面に降り立った。川に面した町外れの倉庫街は、物音ひとつ立てずに静まり返っている。街の人間はこの付近にはめったに来ない。特別な用事がないかぎりは。
対岸にはぽつんと一本、煙突が立っている。足元に見えるのは火葬場の黒屋根だった。
「敵と民間人の座標を教えて下さい。保護を優先します」
『……ガ……ガガ、倉庫街……ガ……裏手の……』
トリオン波の影響か、通信状態が悪い。舌打ちをした時、黒板をひっかくような耳障りな鳴き声が上がった。沈黙していたレーダーがトリオン検知の警告音声を発した。
『敵トリオン感知。戦闘態勢に入ってください』
その声を聞くか聞かないか、迅は身を翻した。次の瞬間、それまで立っていた場所に無数の砲撃が降り注いだ。コンクリートの地面が布きれのようにズタズタに裂けた。
『ガ……迅、大丈……ガ……ガガ……』
「なんとか」
迅は数十メートルほど飛び下がり、体勢を整えた。
奇襲に失敗したトリオン兵が、頭をぐるりと回して彼の方を見る。そして歯噛みするように甲高い雄叫びを上げた。迅は白い巨体を視界に入れながら、簡潔に報告した。
「敵一体。斬ります」
とん、と地面を蹴った一瞬後、迅はもう敵の頭上にいた。振り下ろした弧月はトリオン兵の身体を苦もなく両断した。着地する前に手首を返し、もう一閃。白い頭を切り飛ばす。金属的な悲鳴がぷつりと途絶えた。
敵の停止を確認して、迅は弧月を納めた。「ふう」と息をついた時、倉庫の影から枝分かれするように、黒い人影が現れた。真っ二つになったトリオン兵を見て、それから彼は迅を見た。
「迅?」
「太刀川さん!」
名前を呼ぶのははじめてだった。呼ばれた相手は一瞬驚いた顔をしたが、すぐに目元を緩ませた。
「なんだ。俺の名前、覚えてたのか」
大丈夫か。怪我はないか。言いたいことは山程あったが、目を細めて微笑んだ太刀川を見た途端、きゅっと喉のあたりが締め付けられるような感じがして、言葉にならなかった。
迅の中にとある思いが湧き上がってきていた。この人だけは裏切ってはいけない。例え、憎まれたとしても。
「あんたに言わなきゃならないことがあるんだ」
首をかしげた太刀川に、迅は意を決した。
「実は……」
『警告。警告。トリオン反応複数有り。ただちに戦闘態勢に入ってください』
腰につけた端末からけたたましい警告音が鳴り響いた。同時に耳元へ内部通信が入る。
『ガガ……迅!応答しろ……ガガ……ガ……ゲートが発生……三、四……ガガ……九、十……まだ増え……ガ……』
ノイズ混じりのスピーカーの向こう、通信員が声に焦りを滲ませた。迅は太刀川に向き直った。
「今は逃げてほしい。後で全部話すから。さっき言いかけたことの続きも」
太刀川は両断されたトリオン兵にちらりと視線をやり、何も訊かずに「分かった」と頷いた。後姿が倉庫の間に消えていったのを見届けて、顔を上げた。
ぽつ。
ぽつ、ぽつ。小さな点が夜空に生まれていく。
柄に手をかけたのと同時に、ゲートが一斉に展開した。夜より黒い地獄の口が無数に開く。
迅は再び地面を蹴った。
弧月が白い軌跡を描き、敵の胴体を切り離す。倉庫の屋根を飛び移りながら、次々に吐き出されてくる敵を、片っ端から斬り倒した。手足をもぎ、腔内の目玉を抉り取り、喉を掻き切る。
二ダースほどいたトリオン兵はみるみるうちに数を減らした。
一体斬った際、もがいた尾を避けそこね、肩に傷を負った。いつの間にか手足にも細かな傷ができていて、そこかしこからトリオンの細い霧が立ち上っていた。だが、消耗感は感じなかった。どこから力が湧いてくるのか、全身が軽い。もう長いこと感じていなかった感覚に、迅は一際高く身を躍らせた。感覚を研ぎ澄ませ、頭上から広範囲に斬撃を放つ。あと二体。
横壁を蹴って方向転換をした時、通信員が耳元で叫んだ。
『ガガ……民間人だ!もう一人いる……ガ……』
「民間人!?」
下を見ると、ドラム缶の陰に少年がうずくまっていた。身体を丸めて震えている。灰がかった茶色の髪。
―― 弟が迎えに来てくれって言ってるんだ。
太刀川の従兄弟の柔らかな声が蘇った。そうか、弟か。
葬式の帰りらしい、黒っぽい装いをした少年は迅に気付き、広い場所へとよろめき出た。
生き残ったトリオン兵二体が、同時に少年を視認した。
「そこを動くな!」
迅はトリオン兵に向かって大きく跳躍した。鉤爪が頬を掠め、脇腹を切り裂く。攻撃を浴びながらも手に力を込め、二体まとめて斬り払った。
最後の二体。これで終わりだ。
その時、背中に強い衝撃を感じた。
胸の中央を突き破るようにして鋭い爪が伸びていた。
「三体目……いたのか」
ブシュ、と激しくトリオンが噴き出すのも構わず、迅は半身になって真後ろを斬った。レーダーから逃れていた小型の三体目が、右腕を斬り落とされて金切り声を上げた。半ば落下するような形で着地した彼は、視界がぼやけるのを感じた。緊急脱出の前兆だ。
そう思った途端、視界が色を失った。さっきまで耳元で喚いていた通信も、水中に入ったように遠くくぐもって聞こえる。モノクロの世界の中、敵はスロー再生のビデオのようにゆっくりと少年に迫っていた。
―― 俺がここで負けたら、どうなる?
ぱっ、と画面が切り替わる。夜の橋。公園。神社の境内。アパートの一室。
走馬灯? いや、死ぬのは自分じゃない。
鍋。餅。灰がかった癖毛。つやのない黒目。太刀川はもう遠くに逃げただろうか。
メガネをかけた従兄弟の顔。それによく似た少年の顔。あいつは俺を責めるだろうか。
答えを想像して、苦笑した。
ああ、やっぱり負けらんないなあ。
緊急脱出が発動する前に、迅は換装を解いた。通信がプツンと途絶える。使えなくなったトリガーを投げ捨て、生身に戻った彼は少年の元へ駆け出した。
薄っぺらいジャージが風にばしゃばしゃ嬲られる。頬と手が氷のように冷たい。しかし身体の奥の方では、熱い何かがかっかと燃えていた。
そうだ、後悔するくらいなら、初めからこうしておけば良かったんだ。
息を切らせ、ただひとつのことだけを考えて、走る。走る。後ろからトリオン兵が迫ってくる。命がけの鬼ごっこ、勝負を制したのは迅だった。
「おまたせ」
少年の元にたどり着いた迅は、最後の力で緊急用のトリガーを発動した。球形の小さなシールドが展開する。
これなら応援が来るまで保つだろう。
目を見開きシールドを叩く少年に、迅は外側から笑いかけた。
「ごめんな。一人用なんだ」
迅はもう一度走りだした。トリオン兵がすぐに反応し、追いかけてくる。少年の命を繋ぎ、敵をひきつけ、太刀川を遠くへ逃がす。
走りながら、迅の眼は周囲の景色とは別のものを見ていた。とても不思議な感覚だった。
次から次へと浮かんでは消えていく未来の映像。たった一瞬のうちに数百、数千のビジョンが目の前を流れていく。それらは消えずに宙に浮かび、互いに結びつき、つながり、分岐していった。
彼は今、一枚の地図を俯瞰していた。気の遠くなるような膨大な可能性、選択肢、分岐点、ルート。その全てが手に取るようにわかる。
次の角を右、左。そのまままっすぐ。すると上から敵、右に躱す。倉庫街の路と彼にしか見えない路。二つの路を同時にたどる。確信を持って、正しい路だけを。
夜が明けるように、行く手が白んだ。はるか遠くでキラキラと眩く輝いている。求めてきたものがようやく見えた。
太刀川が笑っている。迅も笑っている。
『迅。餅買って来たぞ』
『太刀川さん、いつまで俺の家に居座るつもり?』
『いいだろ。ほら、網を出せ』
迅は口の端を上げた。誰も不幸にならない、そんな未来だけが見えるのならば。
ガクン、と膝が折れた。テレビの電源が落ちるように、ビジョンが消える。見下ろせば、鋭い爪が太ももを貫いていた。
「はは、そう上手くはいかないか」
生身にトリオン体のような鋭敏な感知能力はない。だが、長年の勘からか、背中を向けていても敵の動きははっきりと感じ取れた。背後でシャシャ、と耳障りな鳴き声がする。
きっと笑っているんだろう。あいつらは時々、人間のような振る舞いをする。
不思議と恐怖はなかった。爪が高く振り上げられのを感じ、迅は目を閉じた。
「一個しか食べなかったの、もったいなかったかな」
そして、何かが切り裂かれる、生々しい音が響いた。
「じゃあ、また七輪出すか。材料費はワリカンだぞ」
上機嫌な口笛が聞こえた。振り向いた迅が見たのは、身を捩らせるトリオン兵と、弧月を握った太刀川だった。
「よう、迅。生きてるか」
太刀川は、くるりと手の内でかえし、トリオン兵をあっさりと斬り裂いた。左腕と頭が、綺麗な放物線を描いて飛んでいく。
迅は呆気に取られ、ぽかんと口を開いた。
喪服のコートを覆うように、部分的に換装が行われている。迅のトリオン体を元に無理やり繋いだような形だった。換装率の高い利き腕の肩口に、ボーダーのエンブレムが浮かび上がっていた。
よっこらせ、という掛け声とともに、換装が解かれる。太刀川は笑顔でトリガーを差し出した。
「ほら、落し物」
両手で受け取った迅は俯いて声を震わせた。
「なんで。あんた、民間人だろ」
「拾ったらなんとなく使えた」
「……そんなむちゃくちゃな話あるかよ」
「才能ってやつじゃないか」
太刀川はやはりてらいもなく言ってのけ、迅に肩を貸した。
久々の外気を味わいながら、迅は帰路についていた。
「はー、肩凝った」
夜空に瞬くオリオン座が懐かしい。もう一週間近く、家にも帰れず本部に缶詰だったのだ。
民間人が巻き込まれたこと、応援が遅れたこと、など今回は緊急に改善すべき点がたくさんあった。当事者として会議に参加させられたのは当然の成り行きだった。
「結局何も聞かれなかったな」
上層部も研究室も、太刀川の件には一切言及しなかった。というよりも、太刀川がトリガーを使ったということをそもそも認知していないのかもしれない。太刀川の従兄弟を助けるため換装を解いた時、トリガーに内蔵された通信機能も同時に使えなくなった。あの時の記録は残っていない。研究員が首をかしげていた気もするが、知らんふりをしておいたため、真相は迷宮入りだろう。訓練も受けていない素人がトリガーを使った。そんな突拍子もない仮説をどこの誰が思いつく。
倉庫街での戦いの後、迅は応援が来る前に太刀川とその従兄弟を逃がした。彼らをこれ以上、こちらの世界に巻き込みたくなかったのだ。もちろん本部がその気になれば身元など隠したところで無駄なのだが、先日の処理でてんてこまいの最中、単なる被害者のフォローにそこまでの時間をかけたりはしない。記憶封印は脳への負担が大きく、内部の離反者以外には極力使わないことになっている。
近界民が一般的に認知されていない現状において、黒い穴が現れただの、化物に襲われただのとと訴えたところで馬鹿にされるのオチだ。三門市は“UFO”の目撃談が多い。つまりはそういうことである。
商店街を横切り、裏通りに出て、石段を上る。裏道は真っ暗だったが、トリオン体には関係ない。
境内に入る前、迅はひととき足を止めた。息を吸って、ゆっくりと吐く。そして最後の石段に足をかけた。その歩みに迷いはもうない。
太刀川ははたしてそこにいた。
「また会ったね」
迅は片手を上げた。コートの男は驚いた様子もなくこちらを見ていた。
「元気にしてたか」
「まあね。太刀川さんは?」
「病気に見えるか」
「全然」
あの化物はなんだ。お前は誰だ。同じ状況に陥った人間がこぞって聞きたがるであろうことを、彼は何も聞いてこなかった。いつもと同じことを、いつもと同じ声で話す。変わることは難しい。でも、変わらないことはもっと難しい。
救われたのは偶然ではない、迅はそのことを今度こそはっきりと理解した。
だから、最後の決心を固めた。
「太刀川さん。話があるんだ」
太刀川がぴくりと眉を動かした。黒い瞳に見つめられ、迅は乾いた唇をゆっくりと動かした。
「本当は、知ってたんだ。あの人が死んでしまうこと」
空気のひび割れる気配がした。
静寂が場を満たす。春や夏なら虫も鳴こうが、冬の夜には救いがない。無数の瞳に注視されているような圧力を感じた。
「俺は未来が見える」
我ながらふざけた台詞だと思った。小学生が好んで口にするような、軽くておちゃらけた言葉だ。だが、太刀川は怒りもせず、笑いもしなかった。迅は頭を垂れた。
「ごめん」
「なんで謝る」
「知ってたんだ。知ってて何もしなかった」
その瞬間、頬に衝撃を感じた。バランスを崩した迅は、石畳の上に倒れこんだ。夜空が見えたかと思うと、襟首を掴み上げられて、もう一度殴られた。もう一発。頭がぐらぐらして血の味がする。
「ごめん」
「謝るな」
「……ごめん」
「うるさい」
拳が振り上げられる。だが抵抗する気にならず、身体の力を抜いた。
「許してもらおうなんて思ってないよ。気が済むまで殴ってくれていい」
なんなら殺してくれたって。
呟いた迅に、太刀川は口の端を上げた。はじめて見る、嗜虐的な笑みだった。
「そうか。なら、殺してやろうか」
表情とは裏腹に、抑揚の失われたおそろしく平坦な声だった。底の見えない暗い瞳が迅をその場に縛りつけた。
「お前は傲慢だ」
太刀川は表情を消し、死刑を宣告する裁判官のように厳然と言った。
「お前に何の関係があるんだ。何を食うか、誰と会うか、どこへ行くか。生まれてから死ぬまで、全ての選択権は自分にある。今日無様に死んだとしても、今日までの道を選択したのはそいつ自身だろうが」
「なにを……」
「見下ろすな。首を突っ込むな。同情するな。お前が背負える人生なんて、せいぜいお前の人生だけだ」
「人が死ぬのも、苦しむのも、全部そいつのせいだって言うのか」
「そうだ」
迅は顔を上げた。腹の底で何かがふつふつと沸き立っていた。
人生はすべて、自分の選択の結果?
「そんなわけあるか」
ひどく低い声が出た。
「選択肢を与えられることが当然だと思ってるんだろ。それは、恵まれた奴の台詞だ」
選ばれてしまえば、選ぶことさえ許されない。そうだ、あんたには絶対に分からない。知ったような説教を垂れるな。
だが、太刀川の次の言葉で頭の中が真っ白になった。
「お前は特別な人間じゃない」
「じゃあなんで、俺はこんな風に生まれたんだ! こんな力、選んでない! 未来なんか見たくない! 俺はこんな風に生まれたくなんてなかった……!」
絶対に口にしまいと決めていたことが怒濤のように溢れだした。
だって、変えられない。どうやっても、何をやっても。見たくないものばかり見えて、見たいものは絶対に見えない。
知っているんだろう。見えているんだろう。顔のない影が囁いて、まとわりついて来る。
「知らない。あんたらの未来なんて知らない。知りたくもない! どいつもこいつも、助けてくれってそればっかりだ。俺のことは助けてくれない癖に!」
生ぬるい水が頬を伝って流れていく。何もかもが今更だった。黙って聞いていた太刀川が、静かに問うた。
「じゃあ、どうなりたいんだ?」
「俺は……」
答えは簡単なはずなのに、何故か答えられなかった。
「お前、俺が死ぬのを見たんだろう。だったら何で分からない。お前が見ようが見まいが、死ぬ奴は死ぬし、死なない奴は死なない。俺は、こうして今も生きている」
太刀川はそう断言した後、急に表情を緩めた。
「俺に関して言えば、お前の予知は残念なくらい当たっていないぞ。ポンコツめ」
「ポンコツっていうな……あんたがおかしいんだよ。トリガー奪って敵を倒す民間人なんて」
あとはもう言葉にならなかった。涙がひっきりなしに溢れてくる。迅はしゃくり上げて泣いた。人を喪う度、貯まっていた涙が一度に流れ出てきたようだった。
「でも力がなくなったわけじゃない。俺はこれからもきっと一人だ。そっち側にはいけないよ。太刀川さんの従兄弟のことだって……」
「それだ。さっきから勘違いしてるみたいだけどな。この前の、あいつの葬式じゃないから」
「え?」
迅は顔を上げた。
「あれな、親戚のばあさんのだから。89歳でぽっくり逝った」
「でも、さっき俺のこと殴って……?」
「人のイトコを勝手に殺した罰だ。あと個人的にもちょっと腹が立った」
「なんだよそれ。俺はてっきり……」
迅は地面にへたり込んだ。そして再び泣き出した。今度はもう何の涙やら分からない。
「手のかかる奴だな」
やれやれ、と太刀川は迅を見下ろした。
「いいことを教えてやる。迅。さっき、ボーダーってところから連絡があってな。トリガー?とかいうやつに俺の痕跡が残ってたらしい。それでぜひ俺に入ってくれって。どうやら才能あるらしいからさ」
ぽかんとしている迅を見て、太刀川は眉を下げて呆れたように笑った。彼の従兄弟によく似た、心安らぐ穏やかな笑顔だった。
太刀川は屈み込み、迅に向かって片手を差し出した。
「俺がお前の予知を覆してやる。ずっとな」