Due
「おおい、マーモン」
「相談だけなら片手。頼み事なら追加料金」
振り向きざまフード中から発せられた言葉を、スクアーロは完全に無視した。
「部屋の中に海。聞いたことはねェか」
「だから料金、って……はあ。なんて? 部屋の中に海?」
やれやれと首を振ったマーモンは、渋ったい口調で答えた。
「部屋の中に海、だなんてそんなの聞いたこともないよ。何かの符号?」
「いや。知らないならいい」
あっさり引き下がったスクアーロを、マーモンはしげしげと見やった。フードの下で青白い顎が動く。
「ふうん。君にしては珍しいね」
「アア?」
「悪い意味じゃないよ」
ドスの効いた声に少しも怯まず、マーモンはつづけた。
「とうとう部屋で鮫でも飼うことにしたのかい?」
「それも悪くねェなァ」
怪訝そうなマーモンに、ひらりと手を振り、その場を後にした。
“階下の海”を見つけた日からしばらく経っている。この奇妙な存在について、ソファの位置まであの日のまま、スクアーロは何ら手を加えることなく放置していた。
得体の知れないものを自室に放っておくなど正気の沙汰ではない、と同業者なら口を揃えて言うだろう。反論の余地なし、と自身も思っている。厄介事を喜ぶ輩もいることにはいるが、そんな者はごく一握り、彼のような人種は基本的にそういう類の酔狂さを必要としていない。ヴァリアー、ひいてはそのボスが被る不利益について、スクアーロの思考は非常にシビアに働く。
にもかかわらず、例の小穴をほったらかしにしているのは、彼の直感がそう告げているからだった。偉大なるドン・ボンゴレ―― その誰の血も引かない彼が“超直感”など授かっていようはずもなかったが、死線の中で研ぎ澄まされた嗅覚には絶対の自信がある。つまるところ、危険なものは必ず匂うのである。それ以外のものについて、根掘り葉掘り調べる興味など持ちあわせていないし、そもそもそんなことができるほど暇な立場でもなかった。
だが、そういう姿勢を保ちながらも、スクアーロは時折、思い出したように階下をのぞきこんだ。好奇心よりも、もっと説明の付き難い、予感めいた何かに突き動かされて。
俯瞰するのは、決まって寝る前だった。
不思議なことに“階下の海”は時間によって様々に色と姿を変えた。真夜中には波打ち際の僅かな輪郭を残し、漆黒に塗りつぶされて見せたし、風の強い日は水面をひどく揺らし、泡立ち、波の咆哮さえ耳に届けてきた。
誰もが息を呑むような美しい光景を見ても、スクアーロはその銀のまつげの一本さえ震わせはしなかった。ただ見下ろし、眺めるだけである。
だが、そんな彼にもひとつだけ気に入った“海”があった。明けの明星が天を支配するその一時、“階下の海”は時の流れから切り離され、静まり返る。海と浜の境目がなくなり、すべてが一色に染まる。その瞬間が来るたび、彼は瞬きを忘れて海に見入るのだった。
本部を離れ、夜明け前に帰宅した彼は、浅い眠りにつく前に、久し振りに“海”をのぞきこんだ。時刻はちょうど明けの頃、明星の膝元で、“階下の海”は静かに時を止めていた。
美しい、などとは思わない。彼が思う真に美しいものは、衆人の思うそれとは大きくかけ離れている。
ただこの景色にかぎって言えば、一瞬緩めばすべての均衡が崩れてしまう、そんな薄刃の緊張感が彼の興に入っていた。水の凍りつくその瞬間のように、極限まではりつめた海。それは早朝、切なる祈りを捧げる貧婦の姿に似ていた。
短気な明星はそう待たず身じろぎした。時が流れ出す少し前、ふとスクアーロの青灰の目がひとつの影を捉えた。
―― 女。
浜の真ん中に、女が立っていた。突然現れたというよりも、空気に擬態していた何かが、時間とともに人の姿を取り戻したようだった。
スクアーロの視点から、地上まではずいぶんと距離がある。小さな人影が女であると咄嗟に判断できたのは、彼だからこその芸当だった。
女はゆっくりと顔を上げ、何かを呟いた。唇を読む間もなく、吹き始めた風が髪をなぶり、その仔細を覆い隠す。
見ている前で、女はじきに形をなくし、朝の光に溶けていった。
◇◇◇
アパートの花壇の前で声をかけてきたのは、エプロン姿の中年女だった。
「お仕事だったのかい? マンシーニさん」
「ああ。眠ってちゃ魚は取れないんでね」
眠るも眠らないも、寝ずの要人警護を終えての朝帰りである。
警官か軍人か、長いコートと伸びた背筋に英気ある国勤めを想像したらしい女は、ジョウロを提げ持ったまま「そうかい、お勤めご苦労さま」と労いの言葉を口にした。
一階に住んでいるらしいこの女は、彼の記憶が正しければ、確かこのアパートの大家である。
「そろそろ一ヶ月だけど、何か困ったことはないかい?」
―― ある。主に床のあたりに。
とわざわざ口に出すような男でもなく、スクアーロは静かに女を見下ろした。
「今のところ問題ない」
「それは良かった。なにしろ古い建物だからねぇ。何かあれば言っとくれ」
大家が人懐こく笑う。卒なく応じ、再び歩き出した彼だったが、すぐに足を止めた。
「ああ、ひとつ思い出した。俺の下の部屋、えらくガタイの良い奴が住んでんだなァ。足音が響く」
「マンシーニさんは三〇二号室、ひとつ下の二〇二号室は……ええと、それは妙な話だねぇ。彼女は小柄な子だよ」
大家は困ったように首をかしげた。まんまと滑り出た“彼女”という言葉を、スクアーロの耳は鋭敏に拾い、脳へ届けた。
「今まで苦情が来たことはないんだけど」
「そうか、それなら俺の勘違いかもしれねェな。忘れてくれ」
「すみませんねえ。また何かあれば言ってくださいな」
大家をあっさり煙に巻くと、スクアーロは蛇のように唇を舐めた。
―― やはり、女だ。
部屋に戻った彼は、シャワーを浴びた後、ソファで一眠りした。
彼の部屋にベッドはない。ソファに背をもたせかけ、浅く短い眠りにつくのである。
寝込みを襲われることを気にしているわけではなかった。今となっては、どこでどんな風に眠っていようが、敵の刃が喉元に届くよりも数瞬早く、素っ首を叩き落としてやる自信がある。だから、ベッドを置かないのは、危機意識云々ではなく、単に習慣の問題だった。
いつも通り数時間後に目覚めた彼は、まずは剣の手入れをしてから、たまっていた雑事を手際よくこなしていった。そうして一時間、二時間。
次に顔を上げた時にはもう、窓の外は暗くなっていた。
読書用の眼鏡を外し、凝った肩を回す。気が向いた彼は部屋の隅まで立って行き、中腰で穴から階下を覗いた。いまだ宵の口、しかし“海”はもう穏やかに鎮まっていた。上等なベルベットのような黒い波浪が、水の面を滑らかに覆っている。
月の光さえない暗闇を、スクアーロは夜禽の眼で見通した。
しばらくして、浜の中央に人影が現れた。豆粒よりも小さなそれが、彼にはやはり女であると思われた。
打ち寄せる波で足首を洗いながら、女はぼうっと突っ立っている。小さな頭頂を見下ろしながら、彼は天帝のような尊大さで言った。
「女ァ」
階下の女は身動ぎひとつしなかった。
スクアーロは半ば八つ当たりのように眉間に皺を寄せた。『お前は誰だ』『これはどういうことだ』等々、言いたいことは人並みにあれど、まずは一言。
「テメエ、人ん家の床に穴開けてんじゃねェぞ」
結局、女は最後まで顔を上げなかった。
だから、その次の日も、さらにその次の日も、スクアーロは女を見下ろした。無意味なルーティンは、無意味であるが故に続けられ、いつしか日常の一部になった。