「食えよイチル。旨いぞ」
焚き火を挟んで向かい側に座ったシャンクスが、焼けた肉を差し出してきた。直火で焼かれポタポタと脂を滴らせた肉は、それはそれは美味しそうな匂いを振りまいて私の空きっ腹を刺激してくるのだが、如何せん形が気になった。
どう見ても“脚”だ。それも良く見知った動物の。
受け取りかねてグズグズしていると、彼は焼串を手に持ったまま首をかしげた。
「ウサギはダメか?さっき野原に居たのを焼いてみたんだが」
わりと温厚な種類だから捕まえやすかった、と言うシャンクス。何から突っ込んでいいのか分からなくなってしまった私は、開いてしまった口をそのまま閉じ、静かに腿肉を受け取った。ひととき冥福を祈る。
悪く思うな、悪夢のウサギ。所詮この世は弱肉強食よ。
強いのは私じゃないけど、と目の前の男をちらりと見た。
彼こそ世界の海に君臨する紛うことなき強者の一角なのだが、肉を頬張る幸せいっぱいの顔からそれを感じ取ることができるのは、ごく一部の人間だけだろう。
無造作に後ろへ掻き上げた髪といい、日に焼けた肌といい、左眼の三本傷さえなければマリンスポーツを趣味にしてそうなちょっと良い感じの兄ちゃんである。実際のところは、マリンスポーツはマリンスポーツでも海の上で殺しあったり軍艦を沈めたりが本業の、かなり悪虐な感じのおっさんなのだが。
私の勝手な想像など知る由もなく、シャンクスは健康そうな歯でブチブチと肉を噛み切った。うめェ、と言いながらあっという間に一本平らげてしまった彼は、さっと手を伸ばして次の串を取った。うかうかしていると食いっぱぐれてしまいそうだ。
私も慌てて一本掴み、口に運んだ。
「ん、ちょっと固いけど美味しいね」
「新鮮な獲物は生で食っても旨いんだけどな、イチルはひ弱だから腹を下すだろ」
「ひ弱の定義とは……」
野生動物を生食するなとか、本当にひ弱な人間はお腹を壊す程度で済まないとか色々言いたいことはあったが、私は黙って串をかじるに留めた。
「それはそうと、シャンクス。何でこんなことになってるの?他の皆は?」
一口目の兎肉を飲み込んで、本題に移った。ゴーイング・マイウェイな言動に振り回されて、たずねるタイミングを逸してしまっていたが、本来一番最初にするべき質問だ。
焼けていた肉を食べ尽くし、今度は私が手に持っている串を物欲しげに眺めていた彼は、渋々それから目を離して「結論から言うと」と唸った。
「結論から言うと?」
「置いて行かれちまった。ここは無人島だ」
「……嘘ォ」
本日二度目、口があんぐりと開く。
手元からぽろりと落ちた食べかけの串を、向かいから伸びてきた手がすかさず華麗にキャッチした。
41 ハックルベリー=フィンの秘密(Ⅱ)
「っていうのは嘘だけどな」
開けっ放しになっていた私の顎を、手の甲を使って器用にカチンと閉じた後、シャンクスはあっさり前言撤回した。
「ちょっと……!」
「すまんすまん。つい」
ドッキリに成功した彼は少しも反省してなさそうな表情で笑った。
「ベックも言ってたが、あんたって結構遊べるよな」
「人で遊ぶなァ!てっきりクーデターでも起こされたのかと思ったよ!」
宝探しの途中、部下たちに黒丸を突きつけられたジョン・シルバーを思い出した。用済みになった仲間を無人島に置き去りにするのは海賊の常套手段だ。
悲しいかな、身勝手な船長にとうとうベックマン以下乗組員が愛想を尽かした、というのは思いの外リアリティのある話だった。
「何か失礼なこと考えてるだろ」
「シャンクスは自業自得でも、私が巻き込まれる謂れはないなあと」
私はオウムのフリント船長か。それとも人間おいしいフライデーか。“Piece of Eight”のオウムも、ロビンソン・クルーソーの召使もごめんである。
「そう言うなって。ちょっと用があって船ごと出払ってるだけだ。夕方頃にはまた戻ってくる」
「本当に?この機会にサボってばっかりの船長を見捨て―― あっふ!」
余計なことを言おうとした口に兎肉を突っ込まれた。体積と熱さで二の句が告げなくなる。
「ほら、今のうちにしっかり食っとけ。昼から歩くぞ」
強引に口を噤まされた私は、涙目になりつつ頷いて、焼きウサギを飲み込んだ。
「よっ!」
反動をつけてぴょんと次の岩に飛び移る。滑らないように気をつけて着地。体勢を整えて、さらに次の岩へ。
「イチルー!渡れるか?」
涼しげな音を立てて流れる川面の向こう、二、三個先の大岩の上でシャンクスが手を振っている。あの大仰な黒いマントは羽織っておらず、シャツとズボンだけの身軽な恰好だった。武器といえば腰紐のところに短めのナイフが一本、無造作に挟んであるきりだ。
「大丈夫!このくらいちょちょいっと―― ぶっ!ほっ!」
得意気に返答した瞬間、足が滑った。派手な水音を立てて、川の中に落ちる。濡れネズミになった私を指差して、彼は案の定、腹を抱えて笑い転げた。
「あー、腹痛ェ。大丈夫か?」
「……腰から上は」
必死にバランスを取って岩にしがみついたおかげで、全身水没は免れたが、寝巻き代わりのハーフパンツと腰に巻いていたパーカーはずぶ濡れになった。
隣の岩まで戻ってきたシャンクスが、腰まで川に浸かった私の無様な姿にニヤニヤした。そのふざけた顔を見つつ、私は彼を手招きした。
「シャンクス、ちょっと」
「なんだ?」
「いいからいいから。もうちょっとだけこっち来て」
岩の上に片膝をつき、シャンクスが身を乗り出してくる。その顔めがけて、私は川の水を盛大に跳ね飛ばした。
「とりゃあ!」
「―― ぶっは、お前なァ」
顔を拭おうとした彼に、ついでとばかりに濡れたパーカーもぶつけておいた。
「二人一緒に濡れネズミになろう!これでお揃いだね!」
目論見通り上半身をびしょ濡れにした彼は、こめかみをひくつかせ、水の滴る髪を掻き上げた。
「宣戦布告ととっても?」
「もちろん。こちとら地元では“美浜のカツオ”と呼ばれてましてね。水中戦じゃ負け知らずだから」
かかってきなよ。
ちょいちょいと指先で挑発すると、切れ長の目が細まった。
「ほーう、いい度胸だな」
腕まくりをしてシャンクスが川の中に飛び込んだ。
こうして戦いの火蓋は切って落とされたのだった。
「つよい」
数分後、私は岩にしがみついて死体のごとくプカプカと川面にたゆたっていた。
「この私が負けるなんて……町内で私の水鉄砲を食らって怯まない子供はいなかったのに」
「年季の入り方が違う」
岩の上に座り込んだ勝者は、涼しい顔でそんなことを言った。
「そういえば、そろそろパクパクメダカが集まってきてるかもな」
「パクパクメダカ?可愛い名前だね」
「普段は大人しい魚なんだが、縄張りに獲物が落ちてくると、牙を剥いてパクッと肉を食いちぎ―― 」
彼が言い終わらないうちに、私はクモのような素早い動きで岩の上に這い登った。水から上がるや否や黒い魚影が足元を通りすぎていく。私の緊急回避を見て、シャンクスは感心したように言った。
「ほー、珍しく素早い」
「……私としてはね。こういうことはもっと早く言ってくれると助かるなあって思うんだよ。だいたい『パクッ』じゃなくて、『ブチィ!』とか『グシャァ!』の方だよねそれ」
「良かったな。場合によっては俺とお揃いになれるぞ」
意趣返しのつもりか、シャンクスは笑いながら腕のない方の肩を自らぽんぽんと叩いた。
そのペアルックは謹んでお断りします。
人喰い魚の棲家を越えるという、パニック映画のようなワンシーンをクリアして、私たちは今度は木立の中に入った。
常春の気候がそうさせるのか、木々は濃緑に生い茂らず、明るく透けた黄緑の葉と白く細い枝を天に向ってたおやかに伸ばしていた。薄雲のかかった空からは淡い光が降り注いでいる。暖められた午後の空気が、子猫の柔毛のようなぬくもりを帯びて肌を撫ぜた。
「うーん、いい天気だね。暑くもなし、寒くもなし」
空を見上げて思い切り伸びをした。川遊びで濡れた服も、歩いているうちにほとんど乾いてしまった。
隣を歩いていたシャンクスが、機嫌良さ気に応じた。
「この島は年がら年中こういう感じなんだ。気分転換になるだろ」
「すごくね。船旅も好きなんだけど、やっぱりたまには運動しないと」
足を踏み出す度、湿った土のクッションがぎゅう、と深く沈みこんだ。肥沃さを感じさせるチェルノーゼムのような黒土には、わずかに枯れ葉や枝が混ざっている。半ば土に還ったそれらは足の下でホロホロと容易に崩れていった。
常緑樹は枯れないのではない。一年の間に少しずつ落葉と新葉展開を繰り返し、まるで枯れないように見えているだけだ。
木の本数に対して、落ち葉の量が少ないのは葉の寿命が長いからか、分解のスピードが早いからか。もしかするとこの島特有の(もしくはこの世界特有の)土壌なのかもしれない。いずれにせよ、この春島の生態系はこの土がなくては成り立たない。
常磐を育むのはいつだって、生と死を併せ呑む深くて貴重な何かなのだ。
「なあ、イチル」
「なに、シャンクス」
こちらを見下ろしたシャンクスは何も言わずに笑みを浮かべた。
大きなはずの彼の一歩は、船にいる時よりも小さくゆっくりとしていて、いつも通りに歩けば自然と肩が並んだ。
しばらく行くと地面は傾斜をはじめた。丘と山の中間くらいの高さの、隆起した土地を二人一緒に登っていった。
柔らかな土道を抜けるとすぐ、彼は私を追い抜かし、しゃがみ込んで背中を差し出した。
「ほら」
「歩けるよ?」
「足の裏、血まみれになってもいいのか」
促されて地面を見ると、行く手の獣道には尖った小石がそこかしこに転がっていた。
昨夜寝たままの恰好なので、靴は履いていない。少し考えた後、私はありがたく申し出を受けることにした。
広い背中にいそいそとしがみつくと、シャンクスは後ろ手で私の下半身を支え、しゃがんだ時と何ら変わらない軽やかさで立ち上がった。
「ありがとね」
「どういたしまして」
ブレない重心と逞しい腕のおかげで乗り心地は上々である。他に人がいないのをいいことに、私は彼の背中で思う存分くつろいだ。
「いい気持ち……このまま寝ちゃいそう」
「寝てもいいが、ヨダレは禁止だ」
「保証しかねます」
笑い声に合わせて、背中から小刻みな振動が伝わってくる。それを直に感じたくて、よれたシャツに額をつけると、嗅ぎ慣れた潮の香りがした。
「長いこと海にいると、匂いが移っちゃうんだね」
シャンクスは背中ごしに振り返った。こちらが笑っているのを確認した後、私をおぶったまま器用に肩を竦めてみせた。
「良く言われる。自分じゃ分からねェんだけどな」
「けっ、これだから遊び人は」
「人聞きが悪ィ。紳士の嗜みと言え」
「紳士?それはさすがに吹きすぎですな」
「違いねェ」
クックッと喉を鳴らした後、わずかにずり落ちた私を、よいしょ、と背負い直した。
「重くない?」
「ちょっと太ったんじゃないのか―― って痛ェ。殴ることないだろ」
「正解は『軽い、羽根のようだ』です。ハイ、どうぞ」
「軽い、羽根のようだ」
彼はまるで心のこもってない言い方で私の台詞を復唱した。
ここだ、という声で意識が浮上した。
「ごめん、本当に寝ちゃってた」
ぼんやりと藍色に陰った空から、夕闇の匂いが漂ってくる。背中を叩いて合図すると、そっと地面に降ろしてくれた。
芝生のような下草が、くすぐるように裸足を撫でる。私達がたどり着いたのは、崖下に海を臨むひらけた草地だった。
「ここってさっきの台地の天辺?」
「ああ」
隣に立ったシャンクスが首肯した。見晴らしの良い高台からは、これまで通ってきた野原や川が一望できる。
丘の向こうには波の打ち寄せる海岸があって、そこから遠く視線を漂わせていくと、濃紺の海と―― そのさらに彼方に、水平線が見えた。
「静かだね」
その時、夕日の残滓がふっと溶けるように消えた。日が沈んだのだ。シャンクスは私の腕を引いて、切り立った崖の縁に立った。遮るもののない強い潮風が、髪をなぶって吹き通っていく。無造作に伸びた赤い髪が、炎のように揺らめいた。
私の視線に気付いた彼は、しい、と人差し指を立て、そのまま海を指差した。穏やかな海面を、二人して黙りこくって見つめる。
しばらくして、私ははっと息をつめた。
波間に、一瞬だけ光が見えたのだ。尾を引かずに消えたかと思うと、今後は別の場所に現れる。きらっ、きらっと星のように瞬くそれは、次第に数を増やしていき、みるみるうちに海を満たしていった。
虹色の煌めきが、薄暮に沈んだ海を淡く発光させている。
「うわあ……!」
「カガミウオの遊泳だ。日が沈むと海面に上がってくるんだが、これだけの大群は、まあ他では見られない」
鏡のような鱗が、水平線から洩れ出した夕焼け色をキラキラと照らし返している。何か特別な構造をもっているのだろうか、反射された光は、プリズムから出たスペクトルのように美しい虹色を示し、幻想的な景色を生み出していた。
海は今や、蓋を開けた大きな宝石箱だった。
「もう二十年ほど前になるか。ここを見つけたのは」
前を向いたまま、シャンクスは囁いた。ざわめく宝石たちには聞かれまい、そう誓っているかのような話し方だった。
「見せてやったら、どんな顔をするんだろうってな。こんなに後になっちまうとは思わなかったが」
そう言って苦笑する彼は今この時、威風堂々たる“四皇”でもなく、部下の信頼を勝ち得る船長でもなく、女を寵する男でもなかった。
独りよがりの勘違いではなかったのだ、と安堵が胸の奥から湧き上がってくる。
彼のすぐ隣に立ち、懐かしさすら覚える横顔を見上げた。
「ねえ、シャンクス」
「なんだ、イチル」
「船に乗って間もない時にさ、フライに聞かれたんだよ。私はシャンクスの何なのか、って」
「へェ。何て答えたんだ?」
「ベックマンさんが助けてくれたから、結局うやむやになっちゃった」
「なんだそりゃ」
全部分かっている顔で、シャンクスは笑った。
「連れて来てくれてありがとね」
彼が目を細めた時、遠くから聞き慣れた低い音が聞こえてきた。水平線のすぐ手前、残照を背景にしてレッド・フォース号の船影が姿を現した。
ちゃんと戻ってきただろ、とシャンクスは得意そうに歯を見せた。
「さて帰るか、我が家に」
「夕焼け小焼けで日が暮れて、ってね」
差し出された手を取ると、彼はくしゃりと少年のようにはにかんだ。