その彫像は美しい女の形をしていた。
男は今まさに立ち上がろうとしていたその姿勢のまま、口をつぐみ、魂を抜き取られたように女の像に見入った。嘆声の吐息すらも、漏れはしなかった。
唇を引き結び、押し黙る男。けして呆けているわけではなかった。男はただこの瞬間、口にすべき言葉を知らなかったのである。
場末の酒場に生まれ、すえた臭いのする罵詈雑言に育まれた彼は、目の前の“それ”について述べるために必要な数々の言葉を持たなかった。
己のような男が、どうして彼女を讃えられよう。
神から啓示を受けた聖人のごとく、落雷の衝撃を持って浮上してきたその思いに、男は絶望せざるを得なかった。
生まれてから今にいたるまで、己の唇がいかに汚れた言葉を吐き散らしてきたか、またその結果、善美を称えるという点において自分がいかに役立たずな存在に成り果ててしまっているかを、後悔とともに思い知ったのである。
辿れる記憶はひとつだけ―― 幼い頃、酒場の仕事を抜けだして忍び込んだ小芝居の一座において、騎士が美姫に捧げた忠誠とも愛ともつかぬその一言。
男は美しい彫像の美しい顔を見上げた。
かつて母と呼んだ女の、疲れた檜皮とはほど遠い、白く滑らかな頬だった。
天空彼方に飛ぶ鳥の、風切り羽の一筋さえも捉える男の目が、女の目尻からのびる、流れたばかりの涙の跡に気づいたのはしばらく経って後のことだった。女の像を生きた女たらしめているものは、たったそれだけだったのである。
目の前の女に命の証左を認めた瞬間、固く引き結ばれていた男の唇からひとひらの言葉が転がり出た。
「 」
驚いたのは何よりも男自身だった。なぜならその言葉は彼の生涯で未だかつて使われたことがなく、使う予定もないはずのものだったからである。
彫像のように動きを止めていた女は、男の声によって呪いを解かれたようにゆっくりと動き出した。
黒いまつげが上下する。瞳が見開かれ、その表面に黒真珠のようなつややかな光が灯る。石膏だった皮膚があたたかみと弾力を取り戻した。
再び押し黙った男を見て、女は困ったように笑った。
あまりにも美しく悲しげなその微笑みを、男は最後まで忘れることができなかった。
43 Blond hair & Blue eyes
戸棚を覗き込み、中身を指折り数えていく。
歯ブラシは、あと二本ある。歯磨き粉もまだ半分以上残っている。シャンプー、OK。リンス、OK。
「洗顔ソープOK―― じゃなかった。あと一週間ももたないや。買っておかないと」
めもめも、と目の荒い紙に書き加えた。手のひらサイズのメモ用紙にはすでにインク、靴下、カミソリなどがリストアップされている。日用品の一覧を眺めながら、ふうむと唸った。
「日焼け止めは、どうしようかな」
夏島に寄る時くらいは、塗っておきたいのが本音である。
日焼け止めという文明の利器は、こちらの世界でも都会に行けば普通に売っていて、値段も高いわけではない。しかし、固定収入どころか臨時収入すらない人間が貯金を切り崩して買うべきものか、と考えてみた時、答えは自ずと見えてくる。
はっきり言って贅沢品である。
「今更美白に投資したところで、って感じだしね」
アンタナ・リボナや日差しのきつい船上で過ごすうち、肌は健康的な色に焼け、髪の色も若干明るくなった。ナマ白い身体よりも、今の姿の方が船旅には似合っているかもしれない。
書きかけていた「日焼け止め」の文字を二重線で消した。
最後に細々としたものをいくつか追加し、買い物リストを完成させる。できた、とペンを置いた時、ノックの音がした。
「どうぞ」
扉を開けて入ってきたのは、予想通りの人物だった。私が外出の準備を整え終わったのを見て、シャンクスはひとつ頷いた。
「用意できたみたいだな」
「だいたいね。お金は必要な分だけちゃんと数えたし、買い物のメモも作ったし」
「よしよし。ま、悪い噂のない平和な島だ。一人でも問題ないだろ。思う存分、羽を伸ばしてこい」
ベッドの隅に腰掛けたシャンクスは、己の言葉を体現するような気楽な感じで言った。
「ありがとう。助かるよ」
「その代わり、気をつけてな」
荷物持ちや護衛のため、非番の日にクルー達にわざわざ出てきてもらうのは気が引けるし、以前の路地裏騒動しかりで、こっそり買いたいものもある。もともと買い物は一人で行きたい性分なのである。
「前に来たのはずいぶん昔のことでな。グレンシールの市場通りは北、いや南だっけか。まァ、イチルもそれくらい自分で探せるか」
単独で買い物に出るのは今回で二度目になるが、前回に引き続き、シャンクスの過保護は鳴りを潜めていた。あれやこれやと甲斐甲斐しかった以前とは打って変わり、今はだいたいの事柄について自由を許してくれる。
ブリジット・テラスの一件以来、目の離せない子供から気の置けない友人にランクアップした、と思いたいところである。
「上陸の仕方はこの前と同じ?」
「ああ、小さな島だからな。見つからないように、船は沖合の無人島に寄せる」
前回も本船から離れてボートで上陸した。小港は喫水が浅い、という理由もあるが、どちらかと言えば住人や海軍を騒がせないための一手間である。
「万が一、何か起こったら大声で叫べ。一緒に上陸した奴らが誰かしら助けに来る。ひよっこだが、田舎のチンピラ共にゃまず負けねェよ」
シャンクスがさらりと言う。
こういった島の場合、上陸組に選ばれるのはまだ顔の売れていない新入りや見習いだ。とはいえ、ひよっこだろうが何だろうが赤髪海賊団のクルーには違いなく、ハプニングの際にはそこいらのSPよりもはるかに頼りになる。
「もちろんだよ。まず助けを呼ぶ。助けが来るまでは逃げる。追いつかれそうになったら―― 」
「隠れるか、匿ってもらうか。金的は本当にマズくなった時だけだぞ」
私のセリフに先周りして、シャンクスは苦笑した。
ボンちゃん直伝の痴漢撃退技は、うまく使えば一発KOの決殺兵器となりうるが、一撃で決められなかった場合はその破壊力ゆえに相手を本格的に逆上させかねない諸刃の剣である。目の前の彼は効果のほどを身をもってご存じだ。
「ああ、そうそう。忘れてた。イチルにはこれを渡しておく」
シャンクスはポケットから何かを取り出し、私の手のひらに載せた。渦巻状のそれは、誰もが一度は目にしたことのあるものだった。
「貝殻?」
「殻ってのはその通りだが、貝のものじゃない。それは―― 」
「お頭ァ!偵察から連絡が入りましたァ!」
ドア越しにクルーの声が聞こえた。「どこっすかァ!」
船長を探す若い声に、シャンクスはやれやれと立ち上がった。
「見つかっちまったか。仕方ねェな。用意が終わり次第、ボート前で待っておけ。“異常なし”の報告を聞いたらすぐに出発の指示を出す」
上陸した小さな港町は、小さいながらも人の活気に満ちていた。
船着場にはごみごみと小型の帆船(帆の小さい、どちらかと言えば手漕ぎのボートに近いもの)が係留されており、飛んできた白黒の海鳥が押し合いへし合いしながら羽を休めていた。
桟橋の上で牧歌的なメロディを奏でているのは、この島のものらしい民族楽器である。張力を感じさせるリューン、リューンというそれは、昔聞いたバグパイプの音に似て、聞くものの鼓膜を小気味良く震わせる。
石造りの町並みは目に美しく、中世ヨーロッパの小都市を彷彿させた。
「けど、ちょっと肌寒いかな」
季節で言えば、秋島の晩秋に当たるらしい。くしゃみをしはじめる前に、カバンから長袖の上着を取り出し肩に羽織った。この気温なら日が暮れるのも早そうだ。
買い物は先に済ませ、残った時間を観光に充てることに決めて、私はひとり街に繰り出した。
買い物リストをあらかた消化して、雑貨屋の店先を冷やかしていると、背後で男の声がした。
「エレイナ! こんなところにいたのか!」
エレイナ、はもちろん女性の名前である。少なくとも向こうではそうだった。
喜色に満ちた声から推測するに、デートの待ち合わせか何かだろう。小物を物色しながら、そんなことを考えてみる。
「おいおい、意地悪しないでくれよ、エレイナ」
男がむくれた声を出した。エレイナちゃんは焦らすタイプの小悪魔女子なのだろうか。彼氏があれだけ呼ばわっているのに答えもしない。
「まさか、僕のことを忘れてしまったのかい!?」
演劇の一幕のような悲痛な叫びが聞こえた。天下の往来でよくもまあ、こんなにくさいセリフを。
呆れつつも興味が湧いてきた私は、バカップルの顔を見てやるつもりで背後を振り返った。
ところが、後ろにいたのは男一人だけだった。金髪を一結びにした、えらく背の高い若者である。白いタキシードを身にまとい、胸元に花を挿し、まるで結婚式場から抜け出してきたような出で立ちだった。
「やっとこっちを見てくれたね! エレ、イナ?」
嬉しそうに叫んだ彼は、私の顔を見て愕然とした。
「なんてことだ!こんなにみすぼらしくなってしまって!」
「へ?」
「長くて涼やかなまつげ!もぎたてのリンゴのような頬!たった一ヶ月のうちに何があったって言うんだい!?」
「あの、ちょっと」
さっきからしつこく呼ばわっていた相手は、ひょっとして。
「私?」という台詞は、さらなる嘆きの声で掻き消された。男が私の手を掴む。
「あの柔らかな手はどこへ!?こんなに骨ばって、まるで魔女の手のようだ。そして、この身体!滑らかな曲線を奪ったのは飢えか悪魔か!ああ、なんて不憫な!」
呆気に取られていたのも束の間、聞いているうちにあまりの内容に頬のあたりがピクピクしてきた。台詞のクサさが罪深さに拍車をかけている。
人違いは許そう。だが、それ以外については、断固たる決意を持って物申したい。炎上不可避、戦争勃発である。
「すみません、手を離してほしいんですけど……」
「すまない、僕が不甲斐ないばかりに」
「私の話、聞いてます?」
「ああ、神よ。何故我らに辛苦を与えたもうか」
私の手を握ったまま天へと慟哭する男に、とうとう堪忍袋の緒がぷちんと切れた。
もうたくさんだ。私のパーソナルスペースは関係者以外立入禁止である。
「ちょっと失礼。人違いじゃありませんか?」
腕を掴んで大きな声を出すと、男は怯えたように息を呑んだ。
「その声、エレイナじゃない?」
「そうです、違います」
男は呆然とこちらを見下ろしていたが、しばらく経って状況を理解したらしい。
「なんてことだ」
それはこっちの台詞である。
「エレイナ!本当の君はどこに!?」
そんな叫びとともに、男は踵を返して逃げていってしまった。
文句を言う暇もなければ、呼び止める理由もなく、その場で突っ立ったまま男が走り去っていくのを眺めている他はなかった。
彼の後ろ姿が雑踏に消えた後、ふと視界に入った何かのために、私は足元に視線を落とした。
「これは」
目に止まったものを拾い上げる。落し物は丁寧に折りたたまれた青いハンカチだった。
「白いタキシードの男?見てないねえ」
露店で干し魚を売っていた女性は、申し訳なさそうにかぶりを振った。
「そうですか。ありがとうございました」
「力になれなくて悪いねえ。あ、いらっしゃい。今日のおすすめはホッカイオオメダラだよ」
店主が客に応対しはじめたので、私は店先を離れて再び通りを歩き出した。人にぶつからないように道の隅に寄り、ポケットから例の落し物を取り出す。
染みひとつなく、角まで整えられた青いハンカチ。落とし主はおそらくあのタキシードの彼である。
たかがハンカチ一枚、顔を知っているだけの(それどころか、憤懣やるかたない思いすら抱えている)相手を人混みをかきわけて追いかけるほど、お人良しにはなれない。普段の私ならそっと道の端に置いて立ち去ったかもしれない。
だが、今回は少し事情が違っていた。
“From Elena with love, To Raymond(レイモンドへ、エレイナより愛を込めて)”
ハンカチの裏には、金色でそう刺繍がなされていた。
レイモンド、というのがタキシードの彼の名前だろう。
さっきの言動から想像するに、これを落としたことに気づいたレイモンドの悲嘆はいかばかりだろう。悲しむくらいならまだいいが、世を儚んだあげく、石橋の上から盛大に身投げしかねない。
私にだって宝物のひとつやふたつある。親切を押し売りするつもりは毛頭ないが、知らぬ振りを決め込むほどクールにはなれなかった。
露店の間を抜けていくと、最初に上陸した場所とは別の、小さな船着場に辿り着いた。大通りに面したあそことは違って、船も人も格段に少ない。
行き当たる可能性は低そうだと思いつつも、とりあえず桟橋の釣り人に声をかけてみた。
「すみません、白いタキシードを着た男性を見かけませんでしたか?」
「はて」
「ちょうど私くらいの年齢の人なんですけど」
「ああ、ほいほい。悪いが通りの方は見ておらんでな。通ったかもしれんし、通ってないかもしれん」
白髪の老人は、ウキから目を離さずに答えた。
礼を言って立ち去ろうとした時、老人とは別の、張りのある声が聞こえた。
「おや、その方ならさっきお見かけしましたよ」
振り返った先にいたのは、またもや若い男だった。今度は金髪をぱりっとオールバックにまとめあげた、線の細い美形である。私にしては珍しく、男性から良く声のかかる日だ。
「本当ですか!どのあたりでしょう?」
「確か、西南の喫茶店前で」
黒いコートをまとった彼は、来た道とは反対の方向を指差した。示された場所がよく分からなかったので、私は丁重に聞き返した。
「南西の、というと、そこの角を曲がれば良いんでしょうか?」
「それでも大丈夫ですが、遠回りになりますよ。近道は、そこの建物の脇に入って、三つめの角を左、そのまままっすぐ行って、右に曲がって」
「建物の脇に入って、えっと、三つめの角を?」
「三つめの角を左に、そのまままっすぐ……ああ、ややこしいですね。分かりました、近くまで案内しましょう」
上品な仕草で顎を触り、彼は事も無げに言った。親切極まりない申し出に、思わず恐縮してしまう。
「本当にいいんですか?」
「困った時はお互い様ですから」
男の瞳が優しげに細められる。申し訳ないとは思ったが、好意に甘えることにした。
「ありがとうございます。よろしくお願いします」
「お安い御用です。それじゃあ早速行きましょう」
善は急げ、とばかりに男は歩き始めた。私が遅れないよう、歩調をゆるめ、エスコートしてくれる。
黒いコートの背について脇道に入る。細長い石畳がずっと奥まで続いていて、そこから枝葉が伸びるようにいくつも道が分岐していた。
「これは確かに迷っちゃいますね。良かった、親切な人に出会えて。余所者なので地理には疎くって」
素直に白状すると、彼は「やっぱり」と青い目を緩ませた。
「はじめて見た時から、そうだろうと思っていました。貴女は……あ、えっと」
「イチルといいます」
「イチル。素敵なお名前ですね。そうそうそれで、イチルさんはどちらのご出身ですか」
嫌味にならない程度に私を褒めた彼は、興味津々に問いかけてきた。
答えにくい質問にギクッと立ち止まった、というのは昔の私で、こんなこともあろうかとその回答はすでに準備済みである。シャンクスと一緒に考えて、ここが良かろうという場所を決めてある。
「“東の海”です」
「ああ、素晴らしい!ずいぶんと遠くからいらっしゃったのですね。恥ずかしながら、僕はこの近海から出たことがなくて。可憐な見た目にそぐわず、勇敢なお嬢さんだ」
「私自身の力じゃないんですよ。いろいろな人に助けてもらいながら、ここまできました」
「運も実力のうち、と言うでしょう。人が助けたくなる貴女だったということです。今の私がそうであるように」
ほんのわずかにも照れた様子は見せず、彼は自信たっぷりに言い切った。役者じみた言い回しが好きなのはこの島の地域性だろうか。
だんだん恥ずかしくなってきて、私は話題を変えた。
「そういえば、ここに来るまでにいろいろな島に寄ったんですが、この島の人は皆揃って、本当に綺麗な金髪ですね」
男のプラチナブロンドを見上げつつ、素直な感想を述べる。彼は満面に喜色を浮かべた。
「そうでしょうそうでしょう。ですから、貴方のような方に会えたのは本当に幸運だった。ああでも、“新月の子”よ、気をつけてください。出遭ってしまったら、決して背を向けないように」
「“新月の子”?」
声が聞こえなかったのか、「さて、先を急ぎましょう!」と品の良い激を飛ばした彼は、私を放ってさっさと曲がり角を曲がってしまった。
「ちょっと待ってくださ―― あれ?」
慌てて後を追いかけた私は、横道に入ってすぐ足を止めた。
男の姿がどこにも見えない。確かに前を歩いていたはずなのに。
曲がる場所を間違えたのかと元の道に戻ってみたが、他に人が入っていけそうな場所はない。“忽然と消えてしまった”という以外になんと表現すべきか分からない状況だった。
「どうしよう」
横道からはさらに横道が分岐していて、右を見ても左を見てもまるで迷路だ。視線を上げれば、高い塀に切り取られた狭い青空が見えるだけで、目印になるようなものは見当たらなかった。
「まさか、迷子?」
真っ先に思い出したのは以前の路地裏迷子騒動である。こういう裏道を歩くうち、危ない人たちに絡まれて、もう少しでで大変な目に遭うところだったのだ。あれ以来、人気のない場所には近づかないようにしてきたのに。
「あー、バカバカ!迷子になったりしたら、また一人で外出させてもらえなくなるよ」
出口を探そうと、早足で次の角を曲がった時、後ろから声がかかった。
「お嬢さん、お困りで?」
「はい、実は人とはぐれてしまって」
親切な声に振り向いた私は、そのまま身体を硬直させた。
男が数人、私を取り囲むようにしてにやにやと笑っていた。
「一人歩きは感心しねぇなあ」
その瞬間、目の奥が白くはじけた。少し遅れて後頭部に痛みが襲ってくる。フェードアウトしていく視界。頬に石畳の冷たさを感じた。
薄れゆく意識の中、男たちが嘲り笑った。
「“新月の子”は暖炉に隠せ。“病の獣”が来る前に」