空気が急に冷たくなった。
霧の向こうに黒々とした大きな影が見える。深く濃い海霧に潜り込むようにして、小船は少しずつそちらへ進んでいく。
ほどなくして、“それ”はついに姿を現した。
政府制定第293海域旧島番5122。現コードCN-3481―― 通称“ドナン・ドゥイック島”は巨大な鯨の死骸のように、陰鬱と眼前に横たわっていた。
57 霧の館(Ⅰ)
「いかにも化物の住処って感じですね」
島を見上げて、薄ら寒くなった二の腕を擦った。一面、鬱蒼とした木々に覆われ、島内の様子は伺えない。生き物の気配は感じられなかった。
長年忌避されてきたのも頷ける、底気味悪い島だった。
貝を外し、帆を畳んだ船は、音もなく水面を滑っていた。時折、島の奥の方からかすかな風の音が聞こえてくるほかは、死んだように静かである。
「人はいるんでしょうか」
口から出る言葉は自然と囁きになる。森に潜む何かに感づかれないように。この島に近づく者は誰でも、そんな思いに囚われる。
「期待はできねェだろうな。船が通らなくなって、もうずいぶんと経つみてェだ」
マリオはそう言って、ちらりと岸を見た。森がすぐそこに迫った、荒れた岩場である。座礁の危険性を思えば、船を停めておくことはおろか近づくことさえ難しい。
上陸できそうな場所を求め、沿岸部を進みつづけた。
例の地図通り、ドナン・ドゥイック島は小さくはない島のようで、行けども行けども同じような岩場が続く。
一時間ほど進んだだろうか。
マリオが静かに片手を上げた。舵取りのルフィが頷く。阿吽の呼吸で、小船の動きはぴたりと止まった。
そこは古い船着き場のように見えた。
桟橋さえ朽ち落ちて、かつての面影はおおよそ失われている。役割を果たさなくなって久しいそこは、亡霊のような白い霧に包まれて、縹渺とした空気の中に沈んでいた。
「アンタを攫った奴らの船は……探すまでもねェな」
あたりに視線をやって、ルフィは肩を竦めた。
船らしい影はどこにもない。腐った木板の匂いだけが、胸のあたりで気分悪くわだかまっていた。
本当にこの島にオルランドと『日誌』の手がかりがあるんだろうか。
不安をせり上がらせまいと、生唾を飲み下した。それを知ってか知らずか、ルフィがぽんと私の肩を叩いた。
「まァ、全部見て回ったわけでもねェしな。別の場所に船着き場があるのかもしれねェ。それか……」
「それか?」
「住処をアジトにするなんて不貞ェ真似したせいで、例のアイツに綺麗さっぱり喰われちまったか。案外その辺に白骨死体が」
空気を読まないルフィの口をぺしゃりと塞いだ。この雰囲気の中で、よくもこんな冗談を飛ばせるものだ。“不貞ェ ”のは一体どっちなのか。
ルフィを黙らせたのと同じタイミングで、また風が吹いた。霧の出た海辺は冷え込んでいるのに、島の奥から吹く風は妙に生ぬるい。
おおい、おおい。風の中にそんな声が混じっているような気さえして、思わず手を離して肌を擦った。
解放されたルフィがぷはあと息を吐く。
「窒息するかと思ったぜ」
声を慎むこともなく、大口を開けてあくびをしている。能天気な顔が、今はとても心強かった。
彼は恐れない。すぐそこに得体の知れないものがいるかもしれないのに、普段と同じに笑っている。
人間は知らないものと知らないことを恐れる生き物だ。知らないことを知らないままにしておけないのは、好奇心のためだけではない。臆病な人間ほど知りたがる。私のように。
ちらりとルフィを見た。
恐怖は無知から生まれる、と言った人がいた。 未知のものを未知のまま受け入れる。それがどれほど難しいことか。
「そろそろ上陸するぞ」
マリオが急かすように船べりを叩いた。
比較的綺麗な場所を選んで、係留のための杭を突き立てる。ロープがしっかりと巻きつけられるまで、数秒とかからなかった。
「やっぱり漁師さんですねえ。鮮やかです」
「まァな」
「お二人とも見た目はちょっと海賊っぽいですけど。ああ、悪い意味じゃなくて!」
「海賊っぽい……」
ルフィを見習い、軽口を叩いてみたが、二人は何故か苦笑いだった。
「さァ、行くか」
目の前には黒い森。
二人の後を追って、私はとうとう奥深い闇に足を踏み入れた。
森の中は外から見たほど暗くはなかった。
木々の枝葉の隙間を縫って、薄明かりが差し込んできている。昼間であるということを思えば不気味だが、とりあえず歩くのに支障はなかった。
「おおっ、と」
「気ィつけな」
仄暗い土道にはそこらじゅうに雑草がのたくっている。蔓草に足を取られかけて、隣のルフィに支えられた。
「ありがとうございます」
二人は勝手知ったる道のようにスイスイと歩を進めている。鈍くさいのは一人だけ。足手まといにならないよう、歩調を早めた。
しばらく行くと、小さな空き地に行き当たった。頭上を圧迫していた木の枝がなくなり、代わりにどんよりと曇った天蓋が現れた。
「この辺で一休みするか」
そう言ってマリオは空き地の端を顎でしゃくった。大きな倒木がある。
数日間座りっぱなしだった上に、急に長い距離を歩いたものだから、足がひどくだるかった。だが、今すぐにでも休みたいのを押して、小さい声でこう伝えた。
「ちょっと、行ってきます」
「ああ。そんなに離れんじゃねェぞ」
二人に背を向けて、木々の間に分け入って行った。
ちょっと、とはもちろん生理現象のことである。異性に対して堂々とお花摘みを宣言するのは恥ずかしいが、私も彼らもいい大人だし、その点については開き直ることにしている。 万が一の時に守られる立場に回るものとしては、何も言わずに離脱する方がよほどマナー違反だろう。
少し離れてから空き地を振り返った。二人は倒木に腰掛けているはずだが、木の幹が壁になってくれているおかげで、姿は見えなかった。
「うーん、聞こえちゃうかな」
森の中は相変わらず静かである。五感の鋭敏な人たちだから尚更気になってしまう。そろそろと森の奥へ進みながら、こういう時こそオトヒメが欲しい、と今ははるか遠くに分かたれた教職員トイレを想った。
妙な音が聞こえたのは、用を足し終わって服装を整えている最中だった。
背後からどさり、と大きな音がして、私はその場で飛び上がった。
間をおかずに同じ音がする。どさり。
後ろを見るのが怖い。助けを呼ぶか、逃げ出すか、一瞬後の選択肢が頭の中を駆け巡る。
だが、結局、耐えきれずにおそるおそる振り向いた。
「なんだあ」
音の発生源に転がっていたのは、大きな果実だった。
色合い、大きさともに安っぽいメロンのような実は、どうやら熟して木の枝から落ちてきたようだった。ひとつ、ふたつ、とちょうど聞こえた音と同じ数のそれを確認して、肩の力を抜いた。
頭の上に落ちて来なくてラッキーだった。メロン(のような何か)に降られて脳震盪、ではあまりにも格好がつかない。
「戻ろう」
二人を待たせていることを思い出して、その場を歩き出そうとした時だった。
ずるりと地面が滑った。足元には、腐った果実。
咄嗟に手を伸ばし、近くに垂れていた丈夫そうな木蔦を掴んだ。が、それがいけなかった。
私の体重を支えて、木蔦が大きく伸びる。それに引っ張られるようにして、絡みついていた枝葉がしなり落ちてきた。
細かな木の葉が口に入り咳き込んだ瞬間、伸びていた木蔦が再びその伸縮性を発揮した。ゴム紐のように大きく縮む。
伸びていた分だけ勢いよく縮んだ木蔦は、そのままぐいと私の体を浮かせた。木蔦に手首を絡め取られ、逃げようにも逃げられない。いわば強制的なターザン状態である。
口の中に入り込んだ葉っぱに噎せて声も出せないまま、ふりこのように勢いづいた私の身体は、「アーアアー!」とばかりにさらなる森の奥へと放り出された。
「痛ッた」
真っ暗だった視界が色と輪郭を取り戻した。どれくらいの時間、気絶していたのだろう。
痛む背中をかばいながら身体を起こした。周囲にはさっきと似たような暗い森の景色が広がっている。
ルフィとマリオの姿は見えない。頭上を見上げると、はるか上に崖らしきものが見えた。
あの高さから落ちて無事だったのか。持って生まれた幸運に、心から感謝した。
二人のいる場所からは、距離的にはそう離れていないはず。
己の鈍くささを叱咤するのは後回しに、助けを呼ぼうとした時、背後でどさり、と音がした。反射的にたたらを踏む。
「もう、また偽メロン―― 」
振り向いた瞬間、背筋が凍りついた。
細い獣道の向こうに“何か”がいた。
その影を見るか見ないかのうちに、私は震える両手で口を抑えて、太い幹の後ろにしゃがみこんだ。
お願い。どうか気のせいでありますように。
胸元のお守りを握りしめ、強く目を瞑った。だが、現実は残酷だった。
―― おーい。
どくんと一際大きく心臓が跳ねた。違う、違う。風の音だ。
―― おーい。
肌が総毛立つ。 今度は確実に聞こえた。マリオの声ではない。ルフィの声でもない。どこからともなく聞こえてくる声に、ハッハッ、と犬のように息が浅くなる。心臓の早鐘が聞こえてしまうんじゃないかと、泣きそうな思いで息を潜めた。
―― おーい。おーい。
ズルズルと何かを引き摺る音がする。
何もかもが、あの噂話の通りだった。次第に近づいてくる物音。それから?ロザリオを握りしめ、祈りつづけた男はどうなった?
だが、思い浮かんできたのは、話の顛末ではなく、いつかルフィの言った一言だった。
―― 信じられることだけ信じていても、全然楽しくないだろ。
いたずらっぽく、それでいて自信たっぷりのそばかす顔が浮かんでくる。恐怖で引きつりながらも、口の端が緩んだ。
そうだ。理解できないものだからこそ、目を逸らしちゃいけないんだ。
真実かもしれないことを迷信だ伝説だと誤魔化すことほど愚かなことはない。信じがたいものを目にした時、人は未知への恐怖を理性で押しつぶそうとする。化物には正体があり、迷信・伝説はメタファーにすぎない。そんな理屈をこねて、現実から目を逸らそうとする。
恐怖を振り払うように、頭を振った。ルフィに聞いたあの話、岩の裏で震えていた男は結局どうなった。
全てをありのまま受け入れた時、取るべき行動が見えてくる。
その場で立ち上がった。 逃げなければ。
正体もなく、比喩でもなく、その化物はこの世界線、この現実、この目の前に存在するのだ。それを信じないで、「夢だ、幻だ」とロザリオの男と同じように震えていたら、男と同じ結末を辿る。
前も見られない臆病者は、目の前の化物に喰われてしまえ。
すぐ近くに人を襲う化物がいるのに、逃げ出さないなんて馬鹿だ!
地面を蹴って、走り出した。
「マリオさーん!ルフィさーん!」
背後に耳を貸さず、振り向かず、ただ前だけを向いて走りつづける。
恐ろしくないと言い聞かせても、身体はすでに恐慌状態だ。用を足しておいて良かった。あのままだったら絶対に漏らしていた。
なりふり構わず、低い崖から飛び降りた。足が痛くなっても、息が苦しくなっても走りつづける。
化物なんかには捕まってやらない。絶対にシャンクスのところに帰るんだ。
木をかき分けて行こうとして、ごつん、と何かにぶつかった。勢い余って、地面に倒れ込む。すり潰された下草の、青臭い匂いが鼻をついた。
ハア、ハア、と肩が上下し、呼吸もままならない。
「さすがに、もう追って、は―― 」
―― おーい。
心臓が爆発しそうになった。
うそ。どうしよう。足も身体ももう限界だ。
這いずるような音が、少しずつ近づいてくる。
万事休す、その時だった。
「すぐそこの壁にくぼみがあります。お隠れなさい」
美しい女の声だった。呆気に取られたのもほんの一瞬のこと、私は躊躇いなく言う通りにした。石造りの塀を手でまさぐり、身体を滑り込ませる。
息を潜めて一分、二分。
あたりを這いずり回っていた音は次第に遠ざかり、じきに何の音もしなくなった。
「出てきても大丈夫ですよ」
上質な絹糸のような声が、柔らかく耳朶を撫ぜた。
「ありがとうございました。本当に助かりました」
くぼみから這い出て、声を主を探す。しかし人の気配はどこにもない。
その代わり、視界に飛び込んできたものがあった。
「塀、じゃなかったんだ」
それは塔だった。
すぐ目の前に、見上げるのも億劫になるほどの、高く巨大な塔がそびえ立っていた。
塀だと思っていたものは、どうやらその外壁だったようだ。さっき走ってきた時にぶつかったのはこれか。
「この、中に?」
「ええ。見上げてご覧なさい」
言われた通りに視線を上げると、塔の根元二、三メートルくらいの場所に鉄格子が嵌っていた。空洞に反響した女声は、そこから聞こえてくるようだった。私は頭上に問いかけた。
「あなたはこの島の人―― 」
「貴女も連れて来られたのですか?」
あまりに痛々しく、悲哀に満ちた声だった。思わず口を噤んだ。
「ああ……貴女もそうなのですね。ごめんなさい、全部私の……ごめんなさい」
「“貴女も”ってどういうことですか? あなたも攫われてきたんですか? それでそこに閉じ込められているんですか?」
「いいえ、いいえ。ごめんなさい、本来は祝福されるべき貴女たちが、こんな……」
「貴女たち?」
「ああ、“新月の子”よ」
女はすすり泣いていた。耳を澄まさなければ拾えないほどの小さく押し殺された声で。
聞いているこちらまで悲しくなる、とても寂しい泣き方だった。
何と声をかけようかと考えていると、塔の中で女がはっと身を固くする気配がした。
「どうしたんですか」
「いけない、早くお隠れなさい!こんな時間に来るなんて……!」
声が色をなくしている。状況を呑み込めないまま、とりあえずさっきのくぼみに隠れようとした。
「そこでは見つかってしまいます。早くこの場から離れなさい。でないと、あの男が」
下草を踏みつけるかすかな音が聞こえた。女の声がぴたりと止んだ。
「こんなところを何をやってる」
立っていたのは、黒服の男だった。
「まさか、逃げ出したのか?」
「ち、違います!」
若い男が訝しげに睨みつけてくる。咄嗟に言葉を継いだ。
「連れてこられたばかりなんです!あの、ええっと、用を足している間にはぐれてしまって!」
言ってしまってから、自分の間抜けさに呆れた。本当のことではあるが、もうちょっとマシな言い訳があっただろう。
案の定、男は表情を険しくした。が、その後、ふん、とせせら笑った。
「役に立ちそうにはないが、万が一ということもある」
塔には目もくれず、男は私の腕を乱暴に引っ張った。
「来い。“旦那様”がお呼びだ」
後ろ髪をひかれつつ、さらなる森の奥へと連行されていく。
これから先のことを思い、私は腹の底に力を入れた。